イラン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی ایران
イランの国旗 イランの国章
国旗 国章

国の標語: استقلال آزادی جمهوری اسلامی
ラテン文字転写:Esteqlāl, Āzādī, Jomhūrī-ye Eslāmī
ペルシア語 : “独立、自由、イスラム共和制”)

国歌イラン・イスラム共和国国歌

イランの位置

公用語 ペルシア語
首都 テヘラン
最大の都市 テヘラン
政府

最高指導者アリー・ハーメネイー
大統領 ハサン・ロウハーニー
首相 なし

面積

総計 1,648,195km217位
水面積率 0.7%

人口

総計(2015年 79,100,000人(17位
人口密度 48人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 9,072兆2,320億[1]イラン・リヤル (IR)
GDP (MER)

合計(2013年 3,663億[1]ドル(32位
GDP (PPP)

合計(2013年9,455億[1]ドル(18位
1人あたり 12,264[1]ドル
成立

アケメネス朝ペルシア帝国)建国紀元前550年
サファヴィー朝が統一1501年
イラン・イスラム革命1979年4月1日
通貨 イラン・リヤル (IR) (IRR)
時間帯 UTC +3:30(DST:+4:30)
ISO 3166-1 IR / IRN
ccTLD .ir
国際電話番号 98

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: جمهوری اسلامی ایران‎)、通称イランは、西アジア中東イスラム共和制国家ペルシアペルシャともいう。北にアゼルバイジャンアルメニアトルクメニスタン、東にパキスタンアフガニスタン、西にトルコイラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェートサウジアラビアバーレーンカタールアラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン

1979年ルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラーム国教である。世界有数の石油の産出地でもある。

国名

イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていた。1935年3月21日レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。

現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)、通称 ایران [ʔiːˈɾɑn] ( 音声ファイル)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」または「イラン回教共和国」[2]、通称イランであり、漢字表記では「伊蘭」とも当てた。

歴史

イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

古代

2500年の歴史を経てペルセポリスの遺跡は訪れる人々を魅了する。

イランの歴史時代は紀元前3000年ころ原エラム時代にはじまる。アーリア人の到来以降、王朝が建設されやがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興、紀元前550年キュロス大王メディア王国を滅ぼしてペルシアを征服し、さらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国、紀元前539年バビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷き、またゾロアスター教をその統治の理念とした。

アケメネス朝はマケドニア王国アレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝紀元前312年 - 紀元前63年)の支配下に入った。シリア戦争中には、紀元前247年にハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。

パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し、259年/260年シャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り、捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国イスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。

イスラーム化

9世紀から11世紀イスラームの黄金時代と呼ばれる時代、イランはその中心地であった。

7世紀に入ると、サーサーン朝は東ローマ帝国ヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経て、アラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリド・イブン・アル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊、636年カーディスィーヤの戦い642年ニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね、651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。

イランの中世は、このイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え、10世紀に成立したイラン系ブワイフ朝シーア派イスラームの十二イマーム派国教とした最初の王朝となった[3]11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝セルジューク朝ホラズムシャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用し、ペルシア語外交行政の公用語としたため、この時代にはペルシア文学の散文が栄えた[4]

1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃し、モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原はティムール朝の支配下に置かれた。

サファヴィー朝期

サファヴィー朝の建国者、イスマーイール1世。サファヴィー朝の下でシーア派イスラーム十二イマーム派ペルシア国教となり、現在にまで至るイランのシーア派化の基礎が築き上げられた。

1501年サファヴィー教団英語版の教主であったイスマーイール1世タブリーズサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラーム十二イマーム派国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服し、また、レバノンバーレーンから十二イマーム派のウラマー(イスラーム法学者)を招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ[5]1514年チャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。

第五代皇帝のアッバース1世エスファハーンに遷都し、各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した[6]1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれると、イギリス人のロバート・シャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。

しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し、1638年オスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い、1639年ガスレ・シーリーン条約英語版でオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡し、その後政治的混乱が続いた。

ガージャール朝期

ガージャール朝の下で宰相を務めたミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビール。アミーレ・キャビールは宰相として上からの改革を図ったが、近代化改革に無理解な保守派の宗教勢力と国王ナーセロッディーン・シャーの反対にあってその改革は頓挫し、内憂外患に苦しむ19世紀イランの自力更生の道は閉ざされた。

1796年テュルクガージャール族英語版アーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリスロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった(グレート・ゲーム[7]ナポレオン戦争の最中の1797年に第二代国王に即位したファトフ・アリー・シャーの下で、ガージャール朝ペルシアにはまず1800年にイギリスが接近したがロシア・ペルシア戦争第一次ロシア・ペルシア戦争)にてロシア帝国に敗北した後はフランスがイギリスに替わってペルシアへの接近を進め、ゴレスターン条約1813年)にてペルシアがロシアに対しグルジアアゼルバイジャン北半(バクーなど)を割譲すると、これに危機感を抱いたイギリスが翌1814年に「英・イラン防衛同盟条約」を締結した[8]。しかしながらこの条約はロシアとの戦争に際してのイギリスによるイランへの支援を保障するものではなく、1826年に勃発した第二次ロシア・ペルシア戦争でロシアと交戦した際には、イギリスによる支援はなく、敗北後、トルコマーンチャーイ条約1828年)にてロシアに対しアルメニアを割譲、500万トマーン(約250万ポンド)の賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった[8]。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した[9]1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までの第一次アフガン戦争英語版にてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た[10]。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた[11]。モハンマド・シャーの没後、1848年ナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した[12]。ナーセロッディーン・シャーは1856年ヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた[13]

こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と、内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で、19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及び、1872年ロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡と、ロシアによる金融業への進出が進む一方、臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーン・シャーは遊蕩を続けた[14]第二次アフガン戦争英語版1878年1880年)では、ガンダマク条約英語版1879年)を締結したが、戦争の二期目に突入し、イギリス軍は撤退した。

このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派ウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した[15]

第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年モザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位したが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたアターバケ・アアザム英語版が留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった[16]。しかしながら1905年日露戦争にて日本ロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物不作コレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった[17]。イラン人は国王に対して議会(majles)の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会(Majiles-e Shoura-ye Melli)が召集された[18]。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者ストライキ農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年ロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった[19]。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーン油田が発見されている[20]

1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作チフスによる死者が続出した[21]1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出したが、これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った[22]。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した[23]。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した[24]

パフラヴィー朝期

パフラヴィー朝成立後、1927年よりレザー・パフラヴィー不平等条約破棄、軍備増強、民法刑法商法の西欧化、財政再建近代的教育制度の導入、鉄道敷設、公衆衛生の拡充などの事業を進めたが、1931年社会主義者共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後、1932年を境に独裁化を強め、また、ガージャール朝が欠いていた官僚制軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャード・モスク事件1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し、反イスラーム的な統治を行った[25]。なお、イスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1000周年記念祭が行われ、1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している[26]1930年代後半にはナチス・ドイツに接近し、1939年第二次世界大戦が勃発すると、当初は中立を維持しようとしたが、1941年8月25日連合国によってイラン進駐を被り、イラン軍は敗北し、イギリスソ連によって領土を分割された[27]。イラン進駐下では1941年9月16日にレザー・パフラヴィーが息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに帝位を譲位した他、親ソ派共産党トゥーデ党が結成され、1943年11月30日に連合国の首脳が首都テヘランでテヘラン会談を開くなど、戦後イランを特徴づける舞台が整えられた[28]。また、北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し、1945年12月12日アゼルバイジャン国民政府が、1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが、両政権は共にアフマド・ガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された[29]

モハンマド・モサッデク首相。1950年代初頭にイギリスアングロ・イラニアン石油会社によって独占されていた石油の国有化を図ったが、イランによる石油国有化に反対する国際石油資本の意向を受けたイギリスとアメリカ合衆国、及び両国と結託した皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーによって1953年に失脚させられた。

1940年代国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリスアングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行した(石油国有化運動)が、1953年8月19日にアメリカ中央情報局(CIA)とイギリス秘密情報部による周到な計画(アジャックス作戦英語版: TPAJAX Project)によって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった[30]

このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝皇帝シャー)、モハンマド・レザー・パフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年CIAFBIモサドの協力を得て国家情報治安機構(SAVAK)を創設し、この秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは白色革命の名の下、米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進し、大地主の勢力を削ぐために1962年に農地改革令を発した[31]。特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。

イラン・イスラーム共和国

シャーの独裁的統治は1979年イラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年アメリカ大使館人質事件革命の輸出政策、レバノンヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。

革命による混乱が続く1980年には隣国イラクサッダーム・フセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争イラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。

国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。

2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。

史跡

イラン国内には数多くの史跡が存在し、積極的にユネスコ世界遺産への登録が行われている。

世界遺産

2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達し、その全てが文化遺産である。括弧内は登録年。

政治

イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。

最高指導者

ヴェラーヤテ・ファギーフペルシア語版英語版法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。最高指導者は行政司法立法三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー

大統領

大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。

議会(マジュレス)

議会は「マジュレセ・シューラーイェ・エスラーミー」(イスラーム諮問評議会)といい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある[32]。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語報道では国会とも表記される。

専門家会議

専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。

監督者評議会

監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。

公益判別会議

公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。

司法府

最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。

人権問題

1979年のイラン・イスラーム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。

憲法では公式にシーア派イスラーム十二イマーム派国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒キリスト教徒ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハーイー教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性ムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。

女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動、性行為恋愛などの自由も著しく制限されている[注 1]。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが、現在では見られない。同性愛者に対しては、共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合死刑である。

刑罰においても、シャリーアに基づくハッド刑の中には人体切断石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、また未成年者への死刑も行われている。

イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会政府国際機関NGOや、隣国イラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。

軍事

国軍として、陸軍海軍空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。

イランは核拡散防止条約(NPT)に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。

準軍事組織

また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。