ギリシャ共和国
Ελληνική Δημοκρατία
ギリシャの国旗 ギリシャの国章
国旗 国章
国の標語:Ελευθερία ή θάνατος
(ギリシャ語: 自由または死)
国歌Ύμνος εις την Ελευθερίαν(ギリシア語)
自由への賛歌
ギリシャの位置
公用語 ギリシャ語
首都 アテネ
最大の都市 アテネ
政府
大統領 プロコピス・パヴロプロス
首相 アレクシス・ツィプラス
面積
総計 131,957km297位
水面積率 0.8669%
人口
総計(2012年 10,815,197人(80位
人口密度 82人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 1,821億[1]ユーロ (€)
GDP (MER)
合計(2013年 2,418億[1]ドル(43位
GDP (PPP)
合計(2013年2,780億[1]ドル(52位
1人あたり 25,126[1]ドル
独立
宣言1822年
承認1829年
通貨 ユーロ (€) (EUR) [注記 1][注記 2]
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 GR / GRC
ccTLD .gr
国際電話番号 30
  1. ^ 2001年以前の通貨はドラクマ
  2. ^ ギリシャのユーロ硬貨も参照。

ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査[2]によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。

概要

ギリシャの地理はヨーロッパの南東端にありアジア及びアフリカの交差点という戦略的立地にある。バルカン半島南端に位置し、国境は北西にアルバニア、北にマケドニア共和国及びブルガリア、北東にトルコと接する。同国は9つの地理的地域から成り、マケドニア中央ギリシャペロポネソス半島テッサリアイピロスドデカネス諸島及びキクラデス諸島を含むエーゲ海諸島西トラキアクレタ島イオニア諸島がこれに該当する。本土の東にはエーゲ海、西にはイオニア海、南には地中海が各々位置する。同国の多数の島嶼のうち227島には居住者がおり、海岸線は全長13,676kmで地中海盆地最長かつ世界第11位である。国土の80%は山岳地帯であり、オリンポス山は2,917mで同国最高峰である。

ギリシャの国民国家オスマン帝国からの独立戦争後の1830年に建国されたが、同国のルーツは全西洋文明の発祥地だと考えられる古代ギリシアの文明に遡る。ギリシャ自体は民主主義西洋哲学近代オリンピック西洋文学[3]歴史学政治学、主要な科学的及び数学的原理、悲劇及び喜劇などのドラマの発祥地である。ギリシャの文化的及び技術的偉業は世界に大きな影響を与え、アレクサンドロス大王の遠征を通じて東洋に影響を受けヘレニズムが形成され、ローマ帝国及び後の東ローマ帝国への編入により西洋に大きな影響を与えた。現代のギリシャ人のアイデンティティーはギリシャ正教により形成され、ギリシャの伝統はより広範な正教会に伝播した[4]。ギリシャの豊富な遺産は17件の世界遺産数にも反映され、ヨーロッパ及び世界有数である[5]

ギリシャは民主主義かつ先進国であり、先進的な高所得経済、高度なクオリティ・オブ・ライフ、高度な生活水準を有する。一方で、数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、汚職指数はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並び高いレベルにある[6]ギリシャ危機に象徴される根深い経済問題に悩む。 国際連合原加盟国であり、欧州連合の前身である欧州諸共同体の10番目の加盟国で、2001年以来ユーロ圏の一部である。その他多数の国際機関の加盟国でもあり、欧州評議会NATO[7]OECDOSCEWTOがこれに該当する。ギリシャは世界有数の海運国及び観光立国であり、バルカン半島最大の経済規模を有し、重要な地域投資国である。

国名

公式名称: ギリシア語: Ελληνική Δημοκρατία, Ellinikí Dimokratía, [eliniˈci ðimokraˈti.a] (聞く), エリニキ ディモクラティア, 英語: Hellenic Republic

通称: ギリシャ語: Ελλάδα, Elláda, [ɛˈlaða] ( 音声ファイル), エラダ またはΕλλάς, Ellás, エラス また古典ギリシア語ではἙλλάς, Hellás, ヘッラス, 英語: Greece

古典語の対格形 Ἑλλάδᾰ (Helláda、ヘッラダ)に由来。なお正式名称の Ελληνική の部分は Ελλάς形容詞形)。いずれもギリシャ神話に登場する民族の父祖ヘッレーン (古代ギリシア語: Ἕλλην, Héllēn, Hellen)に由来するなど諸説あるが、正確な処は定かではない。

日本語による公式名称はギリシャ共和国で通称はギリシャ。歴史・地理・人文系ではギリシアという表記もされるが、国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される。ギリシャあるいはギリシアという名称は、ラテン語名の Graecia (グラエキア)がポルトガル語Grécia (グレスィア)となり、これが宣教師によって日本にもたらされ変容したとされる[8]。こちらも由来についてはラテン民族と境を接していたギリシャ系民族の名、あるいはギリシャ神話の主神ゼウスパンドーラーの息子の一人でギリシャ人の始祖となったグライコスに因むなど諸説あるが、正確なところは不明である。 また、中東の諸言語での呼称、例えばアラビア語اليونانal-Yūnān 、アル=ユーナーン)、ヘブライ語יווןYəván 、イェヴァン)、トルコ語の Yunanistan (ユナニスタン)などは、全てイオニアに由来する。

歴史

ギリシア・ローマ時代

アルカイック期におけるギリシア領及び植民地 (紀元前750-550年)
アテナイのアクロポリスにおけるパルテノン神殿は、古典ギリシアの最も有名な象徴の1つである。

古代のギリシャはアテナイコリントステーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っており、言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体でありマケドニア王国に征服されるまで統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀アケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後アテナイを盟主とするデロス同盟スパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアピリッポス2世カイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたヘラス同盟(コリント同盟)に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。

大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロスエペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊と共にローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。

現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下してきた人々、ラテン人スラヴ人アルバニア人等との混血、古代においては当時のオリエント世界の人々とも混血が進んでいる。現在と当時ではその人種的な構成等は異なっていると言われることもあるが、ヨーロッパにおいて古代から純粋な血統を保持している民族などというものはなく、ギリシャ人もまたその例に漏れないだけである。

東ローマ帝国

395年ローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。

7世紀以降の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシャ語を母語とする民族が中心となっていったが、彼ら自身は自分をギリシャ人とみなさず、「ローマ人(ロマイオイ/ロメイ中世・現代ギリシア語)」と称した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという[要出典])。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリアトラキアマケドニアであり、現在のギリシャに当たる部分は、スラブ人の侵入と移住、アラブ勢力の来襲やブルガリア帝国やノルマン王国といった外部勢力の攻撃が相次ぎ、中央のコンスタンティノポリスからは辺境地域と見なされていた。

1204年第4回十字軍によってコンスタンティノポリスが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは十字軍を混乱を収め、安定をもたらすものとして歓迎した[9]。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。他には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。

アナトリアに逃れたギリシャ系のニカイア帝国により1261年に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝オスマン帝国が勢力を伸張させていった。

オスマン朝・ヴェネツィア支配時代

1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノポリスに遷都し、369年間のオスマン帝国による統治が続いた。

一方で、オスマン帝国に支配されなかった地域もあり、東ローマ帝国滅亡後も、イオニア諸島1797年までヴェネツィア共和国の領土であり、その後も1800年イオニア七島連邦国1815年イオニア諸島合衆国が成立している。その他にも、1669年までのクレタ島、1686年から1715年までのペロポネソス半島もヴェネツィア領であった。

独立回復と王政時代

ギリシャ王国の領土変遷 (1832年-1947年)

1821年オデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、が介入、1829年アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。翌1830年バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、古代ギリシャ滅亡以来約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。

その後は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)を標榜し、1897年にはトルコに侵攻(希土戦争)し敗北するも、第一次世界大戦直前の1912年から1913年にはバルカン戦争で勝利し、クレタ島をトルコから奪取した。

1919年パリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど反人種差別を表明した。1919年 - 1922年にセーブル条約を押し付けるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、(希土戦争ムスタファ・ケマル・パシャが率いるトルコ軍に敗退した。1924年クーデターにより共和制ギリシャ第二共和政となるが、1935年には王政ギリシャ王国1935年 - 1941年)が復活したが、国王ゲオルギオス2世の強権発動によって極右政党党首イオアニス・メタクサスが陸軍大臣に任命されていたが、1936年4月12日に暫定首相デメルジスが死去したことに伴い首相に就任。1936年8月4日にメタクサスがクーデターを起こし八月四日体制1936年 - 1941年)と呼ばれる独裁体制となった。

第二次世界大戦

第二次世界大戦ではナチス・ドイツおよびイタリアブルガリアの侵攻にあい(ギリシャ・イタリア戦争)、戦いの最中にメタクサスが病死、王室と政府はイギリスに亡命した。1941年4月のギリシャの戦いに敗れ、ギリシャ本土はドイツ・イタリア・ブルガリア3国による分割占領状態におかれ、傀儡国家ギリシャ国1941年 - 1944年)体制になった。大戦中、占領軍に対するレジスタンス運動を主導した共産主義左派ギリシャ共産党 (KKE) に支援されたギリシャ人民解放軍英語版 (ELAS)、対立する反共共和主義者のパルチザンギリシャ民族共和同盟英語版 (EDES) の三つ巴の戦いとなった。さらにナチスによるロマニオットセファルディムに対するホロコーストが行われた。

ギリシャ内戦

第二次大戦が終結し亡命政府が帰還した後、1944年12月3日十二月事件ギリシア語版が起き、共産主義左派と王党派右派の間で対立が先鋭化すると、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「ギリシャ民主軍英語版(共産主義者民主主義軍)」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が王党派右派政府の全面的な支援に乗り出したことと(マーシャル・プラン)、1948年以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したので、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年共産主義勢力の敗北によって終結した。

戦後

1950年に行われた総選挙の結果保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年1951年に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定し、1952年北大西洋条約機構 (NATO) へ加盟、1953年に隣国のユーゴスラビアおよびトルコとの間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。

1950年代の後半になると、キプロスを巡ってトルコとの対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、1951年から1964年の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。

国王と対立した首相コンスタンディノス・カラマンリスの辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いるゲオルギオス・パパンドレウが首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、1964年、中道連合 (EK) は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革等の内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王コンスタンティノス2世によって首相辞任を要求された。

軍事独裁政権時代

国王アメリカ合衆国の支援の元に中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、1967年、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校、スティリアノス・パッタコス英語版准将、ゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス英語版大佐を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。

1968年には憲法が改正され軍事独裁政権が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的に NATO の要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。

1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し学生により大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であったゲオルギオス・パパドプロスは大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、1973年、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官であるディミトリオス・イオアニディス英語版がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。

その後、パパドプロス政権の閣僚であったフェドン・キジキスが名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、1974年にギリシャが支援したキプロスでのクーデターが失敗に終わった挙句、キプロスのトルコ系住民の保護を口実にトルコ軍キプロス島に上陸する英語版事態となり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し、軍部の独裁体制は崩壊した。

このように政治的には混乱と弾圧の続いた軍部独裁時代ではあったが、マーシャル・プラン他の欧米各国による経済支援策と、外国資本の積極的な誘致を背景に、戦争とその後の内戦によって壊滅的な打撃を受けた国内インフラを復興させるための大規模な国内投資により、戦後のギリシャ経済は軍事独裁政権の崩壊まで非常に高い経済成長率を誇った。この高成長時代は“ギリシャの奇跡”と呼ばれる。

共和政治の確立

キジキス大統領は国内の諸政治勢力と協議してフランスへ亡命していたコンスタンディノス・カラマンリス元首相に帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。

1974年11月11日に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果、カラマンリス元首相率いる新民主主義党が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により君主制は廃止され共和制への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担ったアレクサンドロス・パナグリスも参照)。

1975年には憲法が再改正され、1977年の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。1981年欧州共同体 (EC) の10番目の加盟国となった。

1980年代には全ギリシャ社会主義運動 (PASOK) が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生、アンドレアス・パパンドレウ英語版は NATO と欧州共同体 (EC) への加盟に懐疑的で西側諸国を「帝国主義国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATO と EC への加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。

2004年には1896年以来108年ぶりに首都アテネにおいて2回目の夏季オリンピック第28回アテネ大会)が開催された。それに先立つ2001年にはユーロ導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、2010年には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した(2010年欧州ソブリン危機)。

政治

国家体制として共和制を採用しており、大統領国家元首として儀礼的な責務にあたる。大統領は任期5年で議会により選出される。現大統領は2015年3月13日に就任したプロコピス・パヴロプロス行政府の長である首相は議会によって選出され大統領により任命される。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。

立法府たるギリシャ議会 (Vouli ton Ellinon) は一院制で、300議席、任期4年、比例代表制による直接選挙で選出される。政党は中道右派の新民主主義党 (ND) と中道左派の全ギリシャ社会主義運動 (PASOK)が二大政党として交代で政権を担当していたが、2012年の選挙で左派の急進左派連合 (SYRIZA) や中道右派の独立ギリシャ人 (ANEL)が台頭し、PASOKが少数勢力に転落するなどの変動がみられる。また、この他に左翼政党のギリシャ共産党 (KKE) 、極右政党の黄金の夜明けなどがある。

1996年以来 PASOK のコンスタンティノス・シミティス政権が続いていたが、2004年3月7日の総選挙でコスタス・カラマンリス率いる新民主主義党が議席の過半数を獲得し、政権が交代した。その後新民主主義党は2007年の総選挙でも辛勝し、政権を維持したが繰り上げ解散を行った2009年の総選挙ではゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ率いる全ギリシャ社会主義運動に敗北、5年ぶりに全ギリシャ社会主義運動が政権与党の座を奪回した[10]

2011年10月31日、パパンドレウ首相は、財務問題を巡る欧州による支援策の受け入れの是非を問う国民投票の実施を表明した。しかし、ユーロ圏諸国(ドイツやフランスなど)は国民投票で支援策が否決されれば、国際的な金融危機を誘発しかねない状況で、危機が欧州全体に広がるのを防ぐため、国民投票の実施を断念するように同首相を説得し、11月4日ベニゼロス財務相が国民投票の実施を断念したことを明らかにした。

2011年11月5日、ギリシャ国会(一院制、定数300)は、パパンドレウ内閣の信任投票を行い、賛成多数で信任した。与党の全ギリシャ社会主義運動 (PASOK) は過半数をわずかに上回る152議席を占めている。信任投票では賛成が153票であった。

2011年11月10日、ギリシャ次期首相にルーカス・パパデモスが就任し、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)と新民主主義党(ND)が合意し11日に組閣、二大政党による大連立内閣が発足した。大連立内閣は、緊縮策を前提とする支援策を受け入れる。来年2月19日に総選挙を実施する。

2011年12月1日、政府の財政緊縮策に抗議する24時間ストが行われた。今年7度目のスト。[11][12]

若年齢での失業率が世界的に見ても高く50%台である。また、政界における腐敗の問題も指摘されている。

国際関係

周辺国との関係では、キプロスの帰属問題でトルコとは対立関係にある。ギリシャ民族の国家であったマケドニア王国やギリシャ国内のマケドニア地方と同じ名を名乗るスラヴ系のマケドニア共和国とも対立状態にある。

軍事