コンゴ民主共和国
République Démocratique du Congo
コンゴ民主共和国の国旗 コンゴ民主共和国の国章
国旗 (国章)
国の標語:Démocratie - Justice - Unité
(フランス語:民主主義、正義、団結)
国歌起てコンゴ人よ
コンゴ民主共和国の位置
公用語 フランス語
首都 キンシャサ
最大の都市 キンシャサ
政府
大統領 ジョゼフ・カビラ
首相 ブルーノ・チバラフランス語版
面積
総計 2,345,410km211位
水面積率 3.3%
人口
総計(2012年 67,800,000人(???位
人口密度 25人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 6兆5,264億[1]コンゴ・フラン
GDP (MER)
合計(2008年 115億[1]ドル(113位
GDP (PPP)
合計(2008年206億[1]ドル(81位
1人あたり 328[1]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ベルギーより
1960年6月30日
通貨 コンゴ・フラン (CDF)
時間帯 UTC +1 ~ 2(DST:なし)
ISO 3166-1 CD / COD
ccTLD .cd
国際電話番号 243
衛星写真

コンゴ民主共和国(コンゴみんしゅきょうわこく)は、中部アフリカに位置する共和制国家。北西にコンゴ共和国、南西にアンゴラ、南にザンビア、東にタンザニアブルンジルワンダ、北東にウガンダ南スーダン、北に中央アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。首都はキンシャサである。

アフリカ大陸中央部のコンゴ川流域に広がり、アルジェリアに続いてアフリカ大陸で第2位の面積を擁し、世界全体でも第11位の面積を擁する広大な国家である。1997年に現在の国名に改められたが、それまでの国名のザイールとしてもよく知られる。熱帯性気候。

国名

正式名称はフランス語で、République Démocratique du Congo(レピュブリク・デモクラティク・デュ・コンゴ)。

公式の英語表記は、Democratic Republic of the Congo(デモクラティク・リパブリク・オヴ・ザ・コンゴ)。

日本語の表記はコンゴ民主共和国。簡略表記としては「コンゴ(旧ザイール)」が多いが、「DRコンゴ」と呼ばれることもある。

1960年から1964年の間の正式名称は西のコンゴ共和国と同じ「コンゴ共和国」であったため[2][3][4]、区別のために、コンゴ・レオポルドビルコンゴ・キンシャサなどと呼ばれた。

歴史

コンゴ王国

13 - 17世紀にかけてコンゴ王国が栄えたほか、南部にはクバ王国があった。

ベルギー植民地時代

1885年にベルギー国王レオポルト2世の私有地「コンゴ自由国」(フランス語: État indépendant du Congo1885年 - 1908年)とされた。「国」となっているが、当時のコンゴは、ベルギー議会の影響も及ばない国王の完全な私有地であった。当初、レオポルド2世は私費を切り詰めて鉄道を建設するなどコンゴの近代化を推進したが、すぐに圧政に転じた。現地住民は象牙ゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦なく科された。当時、大なり小なり、植民地での強制的な収奪を当たり前のものとしていた欧州諸国においてもこの圧政は非難の的となり、植民地経営に関心がなかったベルギー政府を動かすこととなった。

1908年、ベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、所有権がベルギー政府に移され、コンゴは正式に植民地ベルギー領コンゴ1908年 - 1960年)となった。1950年代後半からジョゼフ・カサブブコンゴ人同盟英語版(Alliance des Bakongo)、パトリス・ルムンバコンゴ国民運動英語版(MNC)が独立闘争を開始。

独立とコンゴ動乱

1960年6月30日にコンゴ共和国(1964年、コンゴ民主共和国に改称)としてベルギーから独立。カサブブは大統領、ルムンバは首相に就任。独立から1週間も経たずして内乱とベルギー軍の介入を経験し、「コンゴ動乱」が始まる。1961年、ルムンバ首相が殺害される。

ザイール共和国(モブツ政権)・第一次コンゴ戦争

ザイール共和国の国旗

1965年11月、モブツ商務・雇用・貿易相がクーデターで実権を掌握、1997年までの32年間モブツ大統領の独裁が続いた。

1971年に国名をザイール共和国 (République du Zaïre) に。革命人民運動英語版 (MPR) の一党独裁制を敷いた。

1974年10月30日ベトナム戦争への徴兵を拒否してWBAWBC統一ヘビー級王座を剥奪されたモハメド・アリジョージ・フォアマンに挑戦し、ザイールの首都キンシャサで "The Rumble in the Jungle"(キンシャサの奇跡)と呼ばれる王者奪還劇を果した。当時のザイールではモブツを支援したアメリカに反発する感情が根強く、アリへの大声援(スワヒリ語で "Ali bomaye!" と言っていた[5])が送られる模様がテレビで夜10時から全米に生中継された。

1977年エボラ出血熱エボラ川流域で確認された[6]1977年3月8日第一次シャバ紛争英語版1978年5月11日第二次シャバ紛争英語版1978年5月18日コルヴェジの戦い英語版

1990年4月、民主化要求の高まりを受け議会は11月に複数政党制への道を開く憲法修正案を可決し、12月任期2期を満了したモブツ大統領が3選を禁止した憲法条項を無視し辞任を拒否した。

議会は1996年4月、東部南キヴ州ツチバニャムレンゲの追放を決議し政府軍が攻撃を開始、ルワンダウガンダブルンジなどに支援されたバニャムレンゲコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) 等の武装組織が反撃し、1997年5月の第一次コンゴ戦争ではアンゴラザイールに出兵し、キンシャサを制圧してモブツ政権は崩壊した。

コンゴ民主共和国・第二次コンゴ戦争

第二次コンゴ戦争の交戦国。黒: コンゴ民主共和国 (DRC)、緑: 反DRC連合、濃青: DRC連合、薄青: DRC連合(直接は介入せず)

AFDLのローラン・カビラ議長が大統領に就任、国名をザイール共和国からコンゴ民主共和国に変更した。カビラ大統領は司法権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。カビラ大統領はツチ系が政権を握るルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部からツチ系の排除を始めたために1998年8月に東部を中心として第二次コンゴ戦争に発展していった(イトゥリ紛争英語版の継続、キヴ紛争英語版の開始)。国内のダイヤモンドコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力コンゴ民主連合 (RCD) を主にウガンダとルワンダが、政府軍を主にジンバブエナミビア、アンゴラが支援する事態となった。戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したとされている。

1998年から2000年東部州(現高ウエレ州)の金鉱山(ドゥルバ鉱山英語版ワツァ鉱山英語版)でマールブルグ熱の感染により128人が死亡した。

政府と介入5か国は1999年7月、ザンビアのルサカルサカ停戦協定英語版に調印。しかしカビラ大統領は国連部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。2001年1月16日、ローラン・カビラ大統領が暗殺され(護衛兵に撃たれ死亡)、長男のジョゼフ・カビラが26日に後任の大統領に就任した。

和平協定に向け、2001年10月15日からエチオピアアディスアベバで対話が実現。ルワンダが支援するコンゴ民主連合 (RCD)、ウガンダが支援するコンゴ解放運動英語版 (MLC)、そしてRCDから分離したコンゴ民主連合解放運動英語版 (RCD-ML) [7]の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などをうたった共同声明に調印した。

2002年2月25日、戦争終結を目指す各派の対話がボツワナクェット・マシーレ前大統領を調停役として南アフリカサンシティで再開されたが決裂。対話は南アフリカのプレトリアで、セネガルのニアセ前首相の仲介で再開され、反政府勢力からRCDとMLCが参加した。2002年8月、ムベキ南アフリカ大統領の仲介により、12月にプレトリア包括和平合意が成立した。この第二次コンゴ戦争で起きた虐殺・病・飢えで死んだものは500~600万人とされる。

2003年にはコンゴ共和国の感染爆発が飛火した北部地方でエボラ出血熱が流行。死亡者は100名以上に及んだ。また、同国を生息地とするゴリラへも感染が広がり、2005年までに全個体数の2/3にあたる約5,500匹が死亡したと発表されている。2003年7月、合意に基づき暫定政府(Transitional Government of the Democratic Republic of the Congo)が正式に発足。しかし暫定政権はその後も国内すべてを掌握できず、引き続き戦争状態が続いた。民族対立とも相まって東部(イトゥリ州南キヴ州北キヴ州)は虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯となった。

民主化

和平合意により2005年に大統領選挙と国民議会選挙を行い民主的政権に移管する予定だったが、同年7月に選挙準備の遅れを理由に延期された。2005年12月には、この選挙の前提としての憲法草案に対する国民投票が行われ、賛成多数で可決した。この結果を受けて2006年2月18日に新憲法が発効され、2006年6月に選挙が実施されることが決まった。

だが各地で武装組織の活動が続き、不穏な情勢の中で投票日を迎えた。2006年6月までに実施を予定していたが、実施されたのは同年7月30日であった。2006年7月30日、大統領選挙と議会選挙が行われた。定数500。8月20日、大統領選挙の暫定公式結果が発表された。当選に必要な過半数の得票率の候補者がなく10月29日に上位2人の決選投票が行われることになった。独立選挙委員会の発表によると、「大統領多数派連合」から立候補したカビラ暫定政府大統領の得票数は44.81%。元コンゴ解放運動英語版 (MLC) 指導者で暫定政府副大統領のベンバが20.03%で2位。投票率は、約2500万人の登録有権者のうち70%が投票した。

2007年以降の暴力・紛争

2007年8月3日アルバート湖ホイマ県タロー石油)で石油探査中のウガンダ側のヘリテージ・オイル社とコンゴ側が交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。 ウガンダと南スーダン自治政府軍による神の抵抗軍(LRA)掃討作戦ガランバ攻勢英語版2008年12月14日 - 2009年3月15日)に協力する部隊を派遣した。神の抵抗軍の国内における組織的な活動は低下し、2013年現在、国軍は、国内でLRAは活動していないとしている。

2009年時点でコンゴ国民は毎月およそ45000人が亡くなっていたと考えられており[8] 、長い紛争の間に死亡した人数は90万人から540万人程度と推計された。[9] 死亡者数は蔓延る感染病と飢饉によるものである。報告によれば、亡くなった人のほぼ半数が5歳以下の子供であった。[10] 民間人を殺害する武器の運び屋や、資産の破壊、性的暴力の拡散、[11] 何十万もの人々を家から逃げ出させる人道主義や人権法違反が度々報告されていた。コンゴ民主共和国では毎年40万人以上の女性がレイプされているとの研究結果もある。[12]

2012年11月20日ウガンダルワンダに支援された3月23日運動が紛争を起こした(3月23日運動の反乱英語版)。政府は両国を非難した。 2013年2月24日、コンゴ民主共和国を安定化させるための国際連合が後援する協定(コンゴ民主共和国と周辺地域の安全保障・協力にむけた枠組み)がエチオピアの首都アディスアベバで調印された。調印したのはアンゴラブルンジ中央アフリカ共和国コンゴコンゴ共和国ルワンダ南アフリカ南スーダンウガンダタンザニアからなるアフリカの11ヶ国である (UN News Centre 2013年)。[13]

2014年6月11日、コンゴ民主共和国とルワンダの国境付近で双方の軍が自国側に侵入したとして発砲を開始、コンゴ軍の5人が死亡した[14]

2016年12月、同月19日に任期が切れたにも拘らず退陣せず居座るカビラ大統領に対し退陣デモが発生し、治安部隊の鎮圧により少なくとも40人が死亡し460人が拘束された[15]2017年末までに大統領選を実施することで与野党が合意したものの、選挙管理委員会は有権者登録の遅れを理由に選挙実施を2019年4月以降に延期した[16]

政治