ジャカルタ
Daerah Khusus Ibukota Jakarta
インドネシアの旗
ジャカルタ首都特別州
左上から: 旧バタヴィア市庁舎、ホテル・インドネシア・ラウンドアバウト、ジャカルタ遠景、ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアムTMII英語版モナス(国家独立記念塔)、ムルデカ宮殿、イスティクラル


印章
標語:Jaya Raya
ジャカルタの位置(インドネシア内)
ジャカルタ
ジャカルタ
座標: 南緯6度12分 東経106度48分 / 南緯6.200度 東経106.800度 / -6.200; 106.800
 インドネシア
行政
 - 知事 アニス・バスウェダンインドネシア語版
面積
 - 総面積 740.28km2 (285.8mi2)
 - 陸地 662.33km2 (255.7mi2)
 - 水面 6,977.5km2 (2,694mi2)
標高 7m (23ft)
人口 (2010) 9,580,000人
 - 総人口 9,580,000人
 都市圏 24,094,000人
住民
 - 民族 ジャワ人 (35%)、ベタウィ人英語版 (28%)、
スンダ人 (15%)、華人 (6%)、
バタック族 (4%)、ミナンカバウ族 (3%)
 - 宗教 イスラム教 (86%)、
プロテスタント(6%)、カトリック (4%)、
仏教 (4%)、ヒンドゥー教 儒教
 - 言語 インドネシア語ブタウィ語
ジャワ語スンダ語
等時帯 WIB (UTC+7)
市外局番 +62 21
ISO 3166コード ID-JK
ウェブサイト www.jakarta.go.id

ジャカルタインドネシア語: Jakarta)は、インドネシア首都であり同国最大の都市。ひとつの単独でジャカルタ首都特別州 (Propinsi Daerah Khusus Ibukota Jakarta) を構成する特別市である[1]

人口は950万人を超えており、2016年の近郊を含む都市圏人口は3,120万人と、東京都市圏に次いで世界第2位[2]。世界屈指のメガシティであり、東南アジア有数の世界都市でもある。東南アジア諸国連合 (ASEAN) の事務局を抱える。

名称

古くはスンダクラパ(Sunda Kelapa, 397年 - 1527年)と呼ばれ、その後ジャヤカルタ(Jayakarta、1527年 - 1619年)、バタヴィア(Batavia、1619年 - 1942年)、 ジャカルタ(Djakarta[3]、1942年 - 1972年)と変遷した。また、ジャガタラ(Jacatra)とも呼ばれ、オランダとの交易を持った日本では、江戸時代以降この名が定着し(ジャガイモもこの名に由来する)、ジャカルタという都市よりジャワ島全体を指す呼称として用いられた。

ジャカルタの名称は、梵語ジャヤ(偉大なる勝利)+カルタ(街)の二つの単語から作られた合成語が起源である。

ジャカルタ首都特別州は外務省の呼び名であるが、同市と姉妹都市関係を結ぶ東京都ではジャカルタ特別市と呼んでいる[4]

歴史

オランダ以前

ジャカルタはもともと、16世紀初めまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパとして発展した。14世紀に成立した中国・明朝のもとでインドネシアの海域は册封体制下におかれ、アジア域内における交易ネットワークに組み込まれていた。スンダ・クラパもまた、この海域の他の港市とともに、中国との朝貢貿易や私貿易、中継貿易で重要な港町として発展した。

スンダ・クラパをジャヤカルタ (Djajakarta) と改名したのは、1527年にこの地を征服したバンテン王国スルタン、ファタフィラである。

バタヴィア市の成立

バタヴィア城(1656~58年頃、画: Andries Beeckman.)
バタヴィア市庁舎、現在はジャカルタ歴史博物館英語版

16世紀末に、この海域でのポルトガル香辛料独占に対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワの王族の内紛に介入し、その一方に軍事援助を行う見返りとして、ジャヤカルタを手に入れた。1619年オランダ東インド会社総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタに要塞を建設し、この地をオランダの先住民バタウィにちなんで、バタヴィアと改称した。その後、オランダ東インド会社の基地として、さらに後にはオランダ領東インド国家の中心都市として発展していくことになった[5]1629年には東隣の中部ジャワを統べる大国であったマタラム王国のスルタン・アグンが侵攻して来たものの、クーンが築いた城壁によって撃退に成功し、これがジャカルタ市拡大の契機となった。チリウン川は直線に流路を改修され、それまでチリウン川東岸に限られていた城壁が拡張されて西岸にも達し、川を市街の中心として両岸に市街地が広がるようになった。また、街の周囲には運河兼用の掘割が張り巡らされ、石やレンガ造りのオランダ風の建物が立ち並び、当初「東洋の真珠」と呼ばれる美しい町並みとなったが、この町並みはジャワの気候とは必ずしもあっていなかった上に、城壁内の風通しが悪かったことや周囲の水質悪化によって死亡率が非常に高くなり、やがて「東洋の墓場」とも呼ばれるようになった。また、このころにはジャワ人やアンボン人、スンダ人など、オランダ領東インド各地からバタヴィアへやってきた人々の混血が進み、ベタウィ人英語版と呼ばれる新しい民族集団が誕生した。

ウェルトフレーデンの開発

フランス革命の余波によってオランダ連邦共和国が滅び、バタヴィア共和国が成立すると、バタヴィアもバタヴィア共和国の領土となった。1807年には東インド総督としてヘルマン・ウィレム・ダーンデルスがバタヴィアに赴任したが、彼はバタヴィア(現コタ地区)が瘴癘の地と化していることを知り、その南に広がるやや標高の高いウェルトフレーデン地区を開発し、ここを行政の中心とした。ウェルトフレーデンには官庁が立ち並び、ワーテルロー広場(現バンテン広場)を町の中心として開発が進められたものの、ワーテルロー広場が手狭であったためやがてその西にあった練兵場であるコーニングス広場(現ムルデカ広場)付近に官庁が移転していき、ここが街の中心となっていった。1811年にはイギリスがバタヴィアを占領し、イギリス東インド会社の元でトーマス・ラッフルズが副総督としてこの地を統治した[6]が、1817年にはオランダ王国へと返還され、再びオランダ領東インドの政治的中心として発展していった。

1873年にはジャカルタとボゴール間に鉄道が開通し、1877年には市の北東に新港であるタンジュンプリオク港が開港した。ジャカルタの市街地は19世紀から20世紀初頭にかけて南へと一貫して伸びていった。1912年にはウェルトフレーデンの南のゴンダンディアが白人居住区となり、さらに南のメンテン地区にも住宅街が広がっていった。

第2次世界大戦では大日本帝国が東インドのほぼ全域を占領し、その間の1942年に日本軍政当局がバタヴィアをジャカルタと改称した。以後、その名称は現在に至っている[7]

独立後

日本軍が降伏すると、スカルノらは1945年8月17日にジャカルタでインドネシア共和国の独立を宣言したが、復帰したオランダ軍によって再びジャカルタは占領された。この時期、オランダは市の南部に高級住宅街クバヨラン・バルを建設するなど、再び長期統治の姿勢を見せた。しかしオランダとの独立戦争はインドネシアの勝利に終わり、1949年にジャカルタからオランダ軍は撤退してジャカルタはインドネシア共和国の首都となった。1950年には周辺地域をジャカルタに編入し、市域は大幅に拡大した[8]。独立後、政治機能のみならずそれまでスラバヤなどいくつかの都市と同じ規模であった経済機能もジャカルタに集中することで都市機能が肥大化し、地方・島嶼部の人口が大量に流入してアジアでも最大規模の都市の一つとなった。また、インドネシア共和国の中心としてスカルノはモナスなど大量のモニュメントを市内に建設していった。1966年から1977年にかけて在任したアリ・サディキン知事の下で都市基盤の整備が開始され、やがて南北方向だけでなく東西方向へも都市開発が進んでいった。ニュータウンの開発が進められる一方で、市内各所にある住宅の密集地域であるカンポンの改良計画も行われるようになった。しかし他の発展途上国の首都同様、現在でも交通や住宅などインフラ設備が整うには程遠く、深刻な都市問題を抱える。

1997年に起きたアジア通貨危機により景気が悪化し、1998年5月のジャカルタ暴動英語版の引き金となる。この暴動で、多くの華人の店舗が焼かれた。

2018年8月から10月にかけて、アジア競技大会アジアパラ大会が開催される。ジャカルタでのアジア競技大会の開催は1962年以来56年ぶり2度目。

気候

ジャカルタはケッペンの気候区分では熱帯モンスーン気候 (Am) に属し、高温多湿である。気温は一年中ほとんど変わらないが、赤道に比較的近いにもかかわらず明確な雨季乾季がある。7月から10月にかけての4ヶ月は乾季であり、11月から6月までの8ヶ月は雨季にあたる。ジャカルタで最も降雨が多いのは1月で、389.7mmの降雨がある。逆に最も降雨が少ないのは9月で、月平均降水量は30.0mmである。

Jakartaの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 31.5
(88.7)
32.3
(90.1)
32.5
(90.5)
33.5
(92.3)
33.5
(92.3)
34.3
(93.7)
33.3
(91.9)
33.0
(91.4)
32.0
(89.6)
31.7
(89.1)
31.3
(88.3)
32.0
(89.6)
32.6
(90.7)
平均最低気温 °C (°F) 24.2
(75.6)
24.3
(75.7)
25.2
(77.4)
25.1
(77.2)
25.4
(77.7)
24.9
(76.8)
25.1
(77.2)
24.9
(76.8)
25.5
(77.9)
25.5
(77.9)
24.9
(76.8)
24.9
(76.8)
24.8
(76.6)
雨量 mm (inch) 389.7
(15.343)
309.8
(12.197)
100.3
(3.949)
257.8
(10.15)
139.4
(5.488)
83.1
(3.272)
30.8
(1.213)
34.2
(1.346)
30.0
(1.181)
33.1
(1.303)
175.0
(6.89)
123.0
(4.843)
1,706.2
(67.173)
平均降雨日数 26 20 15 18 13 17 5 5 6 9 22 12 168
湿度 85 85 83 82 82 81 78 76 75 77 81 82 81
平均月間日照時間 189 182 239 255 260 255 282 295 288 279 231 220 2,975
出典 1: World Meteorological Organization[9]
出典 2: Danish Meteorological Institute (sun and relative humidity)[10]

地理

上空から見た北ジャカルタ市街
ビジネス街を通る幹線道路

ジャワ島北西岸、チリウン川河口に位置する。北部に外港タンジョンプリオク (Tanjung Priok) を持つ。海岸に近い旧市街とそれから離れた新市街に分かれる。商業都市としては重要であるが、工業は繊維工業造船業などが行われているものの小規模である。ジャカルタ特別区は、陸地面積662km2、水域面積6,977km2から成る[11]

ジャカルタの北部の海抜は低く、南部は丘陵地となっている。そのため河川は南部から北部へと流れる。最も重要な河川はチリウン川で、ジャカルタ市域のほぼ中央を流れている。これらの河川は、ジャカルタの低い地形、潮の干満、そして雨季の降水量によってしばしば氾濫を起こす。特にジャカルタの後背地であり水源である南部のボゴール市やデポック市は、都市化による人口増加と森林伐採によって近年洪水は被害を拡大する傾向にある。さらに、洪水は直接的な被害のみならず、社会経済的に複雑な問題をジャカルタにもたらす引き金となっている[12]1996年の洪水時には[13]5000ヘクタールが浸水し[14]2007年の大洪水時には[15]5兆2000億ルピアの被害と85名の死者を出し[16]、少なくとも35万人が家屋に被害を受け.[17] 、ジャカルタ市域の70%が浸水し、一部地域では水深は4mにまで達した[18][19]。近年は地盤沈下が進行しており、ジャカルタは毎年5~10cmずつ沈んでいると言われている[20]

また、ジャカルタ行政区を含めた4地域はまとめて、ジャボデタベック (Jabodetabek) と呼ばれている。これは、ジャカルタ (Jakarta) と西ジャワ州のブカシ市 (Bekasi)、ボゴール市 (Bogor)、デポック市 (Depok)、バンテン州のタンゲラン市 (Tangerang) の頭文字を繋ぎ合わせたもので、ジャカルタ首都圏の呼称として定着している。

行政区画

ジャカルタ首都特別州には5つの行政市(Kota Administrasi, 日本の政令指定都市の行政区に相当)と、リゾートとして知られる島嶼部のケプラウアン・セリブ(千の島)から成る1つの行政県 (Kabupaten Administrasi) がある。その5市 (kotamadya) は、43区 (Kecamatan) にわかれ、さらにその下に265町 (Kelurahan) - 2499町内 (Rukun Warga) - 2万8981隣組 (Rukun Tetangga) がある。かつてはジャカルタの知事は官選であったが、2007年8月、地方分権化の一環として史上初のジャカルタ知事選挙が行われ、民選の知事が誕生した[21]

1945年から1960年まではジャカルタには市長がいたが、1960年の終わりには市長から知事へと変わった。1974年、地方自治体の基礎となる「1974年の法律第5号」によって、ジャカルタはインドネシアの首都であり、インドネシアを構成する26州のうちのひとつと定められた[11]

ジャカルタ首都特別州の区画図
ジャカルタ首都特別州の各行政区画
行政市(Kota Administrasi)
/行政県(Kabupaten Administrasi)
面積 (km2) 総人口 (2010)[22] 男性人口[22] 女性人口[22] 人口密度 (km2)[22]
南ジャカルタ市
(Jakarta Selatan)
141.27 2,057,080 1,039,677 1,017,403 14,561
東ジャカルタ市
(Jakarta Timur)
188.03 2,687,027 1,368,857 1,318,170 14,290
中央ジャカルタ市
(Jakarta Pusat)
48.13 898,883 453,505 445,378 18,676
西ジャカルタ市
(Jakarta Barat)
129.54 2,278,825 1,162,379 1,116,446 17,591
北ジャカルタ市
(Jakarta Utara)
146.66 1,645,312 824,159 821,153 11,218
ケプラウアン・セリブ県
(Kepulauan Seribu)
8.7 21,071 10,695 10,376 2,422
合計
(DKI JAKARTA)
662.33 9,588,198 4,859,272 4,728,926 14,476

ジャカルタは、次の各地域に分かれている。

中央ジャカルタ市 (Jakarta Pusat) はジャカルタ5市の中で面積人口ともに最小であるが、ジャカルタの中央に位置し政治経済の中枢が集中しており、ジャカルタの中心部となっている。オランダ植民地時代のからの官庁街であり、ムルデカ広場(独立広場)、大統領官邸、独立記念塔(モナス)、イスティクラル・モスク、ジャカルタ大聖堂、インドネシア国立中央博物館などもここに位置している[23]

西ジャカルタ市 (Jakarta Barat) は小企業がジャカルタでもっとも密集している地域である。西ジャカルタはジャカルタの旧市街の一部を含んでいる[24]

南ジャカルタ市 (Jakarta Selatan) はもともとジャカルタの衛星都市として開発された地域であり、現在ではブロックMなどの大規模なショッピングセンターや高級住宅の立ち並ぶ地域となっている。南ジャカルタはジャカルタの地下水の涵養域としての機能も期待されていたが[25]、近年の大規模な開発による緑地帯の減少によってその機能が脅かされている。ジャカルタのCBD地域は南ジャカルタのSetia Budi地区と、それに隣接する中央ジャカルタ市のTanah Abang/Sudirman地区に集中している。

東ジャカルタ市 (Jakarta Timur) はいくつかの産業の集積する工業地帯となっている.[26]。この地域には水田湿地などがまだわずかながら残っている[26]

北ジャカルタ市 (Jakarta Utara) は、ジャカルタ5市の中で唯一ジャワ海に面している。ここにはジャカルタの外港であるタンジュンプリオク港があり、大規模・中規模の工業はこの北ジャカルタに集中している。北ジャカルタはジャカルタ市発祥の地であり、かつてバタヴィアと呼ばれオランダ東インド会社の一大拠点であったジャカルタ旧市街(コタ地区)の大部分を含んでいる。旧市街にはオランダ時代の古い建物が残っており、観光の目玉となっている。コタ地区の南にはチャイナタウンが広がっている。また北ジャカルタにはアンチョール遊園地もあり、観光エリアとなっている.[27]

ケプラウアン・セリブ県(Kepulauan Seribu、千の島)はジャワ本島ではなく、ジャカルタの北のジャワ海に浮かぶ105の島々からなっている。この島々は独自で価値ある生態系を持っている。この豊かな自然を生かし、ダイビング水上オートバイウィンドサーフィンなどのマリンスポーツが盛んであり、上記二つを目的に多くの観光客が訪れる。島々の間の交通機関はスピードボートや小型のフェリーが中心である.[28]

ジャカルタのパノラマ写真

人口推移

人口
1870年 65,000
1875年 99,100
1880年 102,900
1883年 97,000
1886年 100,500
1890年 105,100
1895年 114,600
1901年 115,900
1905年 138,600
1918年 234,700
人口
1920年 253,800
1925年 290,400
1928年 311,000
1930年 435,184
1940年 533,000
1945年 600,000
1950年 1,733,600
1959年 2,814,000
1961年 2,906,533
1971年 4,546,492
年月日 人口
1980年10月31日 6,503,449
1990年10月31日 8,259,639
2000年6月30日 8,384,853
2005年1月1日 8,540,306
2006年1月1日 7,512,323
2007年6月 7,552,444
2010年 9,588,198

2010年の人口調査の結果では、ジャカルタの人口は958万人となっている[29]。この結果、ジャカルタの人口密度は14,464人/km2となり、世界で9番目に人口密度の高い大都市となった.[30]

経済

日系企業

日本企業が多く進出し、自動車、オートバイ、工業製品などの生産を行っている。日本企業の工場は、タンジュンプリオク、プロガドゥンなどのジャカルタ行政区内やジャカルタの東側に隣接する、西ジャワ州ブカシ県に多く建設されている。都市部の人件費や物価の高騰から2000年代は東側に進出する傾向が強まり、中でもチカンペック高速道路沿いには日系商社が開発した工業団地が集中し、カラワン県などの工場団地に多く工場が建設されている。

地元TV局のRCTI英語版が石森プロダクション・伊藤忠商事バンダイと提携して放送中の特撮変身ヒーロー番組ガルーダの騎士ビマ』は当市で撮影されている。

日系企業が進出している主な工業団地(いずれもジャカルタと隣接するブカシ県にある)

  • MM2100 (Cibitung, Bekasi)
  • EJIP (West Karawang, Bekasi)
  • Jababeka (Cikarang, Bekasi)
  • Deltamas GIIC (Cikarang, Bekasi)
  • Delta Silicon (Cikarang, Bekasi)
  • Lippo Cikarang (Cikarang, Bekasi)
  • KIIC/ Karawang International Industrial City (Karawang, Bekasi)

観光

ジャカルタの夜景
モナスとジャカルタ

地区

ジャカルタ北部の旧市街地。中国人が多く居住する。最北にはかつて栄えたスンダ・クラパ港がある。
南ジャカルタに位置しており、バスのターミナル、デパート、レストラン、カラオケ店が多く密集している商業地区。娯楽地区であるブロックMの中央にはBlok M Mallがあり、一般大衆をターゲットとした小規模小売店や大型スーパーマーケットのCarrefourがテナントとして入っている。また同地区東にデパート・パサラヤ (Pasaraya)、同地区西にショッピングモールのBlok M Plaza がある。
タムリン地区の東側の裏通りの通り名。ムルデカ広場の南側に位置する。バッグパッカー向けの安宿が立ち並ぶ。
  • ジャラン・タムリン(Jl. M.H. Thamrin)/ジャラン・スディルマン(Jl. Jenderal Sudirman)
官公庁&ビジネス街として知られる通りである。タムリン通りには在インドネシア日本国大使館がある。また日系を含む多くの外資系企業の現地法人本社や駐在事務所が存在する。タムリン通りとスディルマン通りは事実上1本の道であり、途中には戦後賠償によって建てられたHotel Indonesia(現在はHotel Indonesia Kempinskiとして運営されている)や、高級モールであるGrand Indonesia(Hotel Indonesia Kempinski併設)と、Plaza Indonesia(Grand Hyatt Jakarta併設)もある。

建築物

国立中央博物館