チベットの旗(雪山獅子旗)
チベット
チベット語表記 བོད་
チベット語ラテン文字表記 bod
国際音声記号表記 [pʰøʔ]
上記の片仮名転写 プー、またはポェ
サンスクリット語
ヒンディー語ネパール語
ラテン文字表記
Bhota
満洲語表記
メルレンドルフ式ラテン文字表記)
Tubet
モンゴル語表記 Töbed
中国語表記ピンイン 藏区(Zàngqū)
英語表記 Tibet
上記の片仮名転写 チベット
チベット民族が分布する諸国 ブータン
インド
ネパール
中華人民共和国

チベット英語Tibet, チベット文字བོད་ワイリー方式bod, 発音 [pʰø̀ʔ], 簡体字: 西藏 , 拼音: Xīzàng)は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家政権民族言語等に対して使用される呼称。

チベット
中国語
繁体字 藏區
簡体字 藏区
チベット語
チベット文字 བོད་
満州語
満州文字 tubet
モンゴル語
モンゴル語 Töbed
サンスクリット語
サンスクリット語 Bhota

地理

チベット高原

インド亜大陸アジア大陸に衝突して隆起することによって生成され、高原の自然環境に適応した独特の魚類哺乳類が分布し、また高原内に多数分布する塩湖は、渡り鳥の中継地となっている。

乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれている。

チベット高原(中国語:青蔵高原)はユーラシア大陸の中央部に広がる世界最大級の高原で、チベットの領域とほぼ等しい。この高原には中国の核廃棄物の処理場が点在している。[1][2]

呼称

チベットの周辺諸国が古くから用いて来た呼称「tubat」(モンゴル語満州語)、「tbt」(アラビア語)等に由来し、チベット人自身は「プー (bod) 」(チベット語)と称する。日本語のチベットは英語「Tibet」経由で明治期に成立した呼称である。

チベット全域をさす漢字表記による総称としては、他に清代に通用した土伯特唐古特とうことく(タングート)等がある。

7世紀なかば、チベットの古代王朝が上記の領域を統合した(実質的なチベットの建国)時、当事の中国人()はこの国を「」、「吐蕃」、「大蕃」等と呼んだ。この古代王朝は842年に崩壊したが、その後も中国の人々は、清朝の康煕年間(1720年代)ごろまで、この領域全体の地域呼称を吐蕃という呼称で総称し[3]、あるいはこの領域を統治する勢力を「吐蕃」と称した。

チベットを示す西蔵という呼称は、中国大陸では1725年ごろから中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用されており、現在も中華人民共和国政府はアムドカムを含むチベット全域の総称としては使用していない。

清朝の雍正帝は1723-24年にグシ・ハン王朝1642年 - 1724年)を征服、彼らがチベット各地の諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収し、タンラ山脈ディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域は、ガンデンポタンの統治下に所属させ、この線より北側の地域は、青海地方を設けて西寧に駐在する西寧弁事大臣に管轄させたほか、残る各地の諸侯は、隣接する陝西(のち分離して甘粛)、四川雲南などの「内地」の各省に分属させた。「西蔵」という地域呼称は、康煕時代から中国文献に登場しはじめていたが、これ以降、チベットのうちガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵と称される[4]

清朝が滅亡すると、チベットはモンゴルと歩調をあわせて国際社会に「独立国家としての承認」を求めるとともに、チベットの全域をガンデンポタンのもとに統合すべく、中華民国との間で武力衝突もともなう抗争をおこなった。中華民国は、中国人が多く住む諸民族の雑居地帯河西回廊の南部と青海地方をあわせて青海省を樹立し、青海地方にも「内地」という位置づけを与えた。中華民国の歴代政権は、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するとした。中華人民共和国も、「西蔵」の部分のみを「Tibet(チベット)」とし、その他の各地は「内地」(=中国の本土)に属するという中華民国の見方を踏襲、1960年に発足した「チベット自治区」は「西藏」部分のみを管轄領域としている。

日本では明治期から昭和中期にかけて、中華民国や中国国外の華僑等の間では近年、Tibetの訳語として「西蔵」を用いる例がある(→西蔵西蔵地方参照)。

日本では、チベットを指す呼称として、明治期に英語「Tibet」に由来する「チベット」という呼称が一般的となった。ただし漢字表記として「西蔵」が採用され、「西蔵」と漢字表記して、「チベット」と読み、またはフリガナを振る、という慣例が確立され、この形式が昭和中期ごろまで一般的となった。この表記法は次第にカタカナのみの「チベット」という表記に置き換わり、現在に至っている。

たとえばチベット研究学会「日本チベット学会」は、従来「日本西蔵学会」と漢字表記し「にほんちべっとがっかい」と発音して来たが、2007年11月総会において「日本チベット学会」への表記変更が提案され、翌2008年11月総会において正式に「日本チベット学会」という表記に変更された。ただし同学会の機関誌『日本西藏學會々報』のみ、「西蔵」という表記が維持されている。

中国では、チベット民族居住地域に対する通常の呼称としては「蔵区」、「蔵族地区」、「西蔵和其他蔵区」等の呼称が使用されているが、チベット全体を単一の自治行政単位とするよう求めるダライラマやチベット亡命政府の立場を非難、批判する場合には、「大チベット区」(「大西蔵区」、「大蔵区」etc)という用語が使用される。

歴史

チベットの旗は雪山獅子旗である。この雪山獅子旗のデザインを考案したのが、日本のチベット研究者で1912年のラサ入りした青木文教といわれる。矢島保治郎によるともいわれる[5]

領域

Cultural/historical Tibet (highlighted) depicted with various competing territorial claims.
Light green.PNG Solid yellow.svg  中華人民共和国チベット自治区
Red.svg Solid orange.svg Solid yellow.svg  チベット[* 1]の範囲
Solid lightblue.png Solid orange.svg Light green.PNG Solid yellow.svg  中国により自治区・自治州・自治県等が設置された領域
Light green.PNG  インドがアクサイチンの一部とする中国の統治区域
Solid lightblue.png  中国がチベット自治区の一部とするインドの統治区域(アルナーチャル・プラデーシュ州)
Solid blue.svg  歴史的なチベット文化圏(ラダックブータンシッキム)

チベットの領域については、チベット人の伝統的な観念(そしてチベット亡命政府の主張)と中華人民共和国による主張とで大幅な相違がみられる。

チベット人は、「チベット民族居住範囲」にほぼ相当する地域を、伝統的に「チベットの領域」と考えて来た。チベットが伝統的に用いて来た地理的区分方式では、この領域を「チベット三州あるいは「十三万戸」、「プーと大プー」などという形で区分してきた。

中華人民共和国による現行の行政区画では、チベット内には、省級の自治体が2(西蔵・青海)、隣接する四川・甘粛・雲南に分属する形で地区級の自治体が4、県級の自治体が2設置されている

日本

日本では、チベット(西蔵)の領域は、チベット全域を指すのが一般的である[6]

多田等観は、1923年(大正12年)に次のように述べた[6]

西蔵の境域は、東経七十八度から百三度、北緯二十七度から三十九度に至る地域を占めている。面積は大略七十五万マイル、日本全土(旧朝鮮、台湾を含む)の約二倍半である。南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東はインドシナ山脈、この三つの山脈によって押し上げられた高原国である。この地理的範囲は西蔵人が自分の国として考えている国土の面積である。青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している。(p.233)

チベット亡命政府

チベットを建国した吐蕃(7世紀 - 842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。ガンデンポタンは、吐蕃時代の領域ではなく、グシ・ハン王朝時代(1642年 - 1724年)の統合領域を主張している。

グシ・ハン王朝(青海ホシュート)は、ダライ・ラマを信仰するオイラトの一部族ホシュートがチベットに移住して樹立した政権で、チベットの民族的分布領域の大部分を征服した。チベット国内に本拠を置く政権による統合としては、吐蕃以来の広大な範囲を誇る。この政権は、ヒマラヤ南沿地方に位置していたラダックブータンシッキムなどに対する征服ははたさず、結果として、現在、グシ・ハン王朝に征服された地域は中華人民共和国の支配下に、その他の諸地域は独立国(=ブータン)もしくはインド領、ネパール領となっている。

グーシ・ハーン(在位:1642年 - 1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グーシ・ハーンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域としている。

中華人民共和国

中華人民共和国政府は、現在、西蔵の部分のみをもって「チベット」だと主張する立場を採っているが、中華民国の中国国民党政府など中国を統治していた歴代政府による「チベット」の枠組み、中国共産党によるチベット(及びその他の諸民族)に対する民族自決権に対する態度は、時期によって大きく変化してきた。中国共産党は、発足当初、ソ連コミンテルンの強い影響をうけ、「少数民族政策」としては、諸民族に対し、完全な民族自決権を承認していた。たとえば、中華ソビエト共和国の樹立を宣言した際には、その憲法において、各「少数民族」に対し民主自治邦を設立し、「中華連邦」に自由に加盟し、または離脱する権利を有すると定めていた。しかし、国共内戦に勝利し1949年に中華人民共和国を設立した直前には、政治協商会議の「少数民族」委員たちに対し、「帝国主義からの分裂策動に対して付け入る隙を与えないため」に、「民族自決」を掲げないよう要請した。さらに現在では、各「少数民族」とその居住地が「歴史的に不可分の中国の一部分」と支配に都合の良い立場に転じ、民族自決権の主張を「分裂主義」と称して徹底的な弾圧の対象にするようになっている。

中国共産党が、チベット社会とはじめて接触をもち、なにがしかの行政機構を樹立したのは、1934年-1936年にかけて行った長征の途上においてである。中華民国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強め、中共軍は各地の「革命根拠地」を放棄して移動し、最終的には陝西省の延安に拠点を据えた。この途上、カム地方西康省)の東部に割拠し、しばらくの間この地を拠点として行政機構や軍事組織の再編に取り組んだ時期があった。この時、中国共産党は、占拠した町々のチベット人たちに「波巴政府」(「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写)を樹立させ、1935年、これらの代表を集めて「波巴依得巴全国大会」を開催させ(波巴依得巴 = bod pa'i sde pa は「チベット人の政権」の意)、これらのチベット人政権を統合して「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。この「人民共和国」は、実際にはカム地方東部の人々のみで組織されたものであったが、国号や「全国大会」の呼称からも明らかなように、チベット人全体の「民主自治邦」として設立されたものであった。

中華人民共和国の建国初期、それまで国民政府の支配下に置かれていたチベット人居住地域にはいくつかの「蔵族自治区」が設けられた。とくに1950年、カム地方のディチュ河以東の地に設立された「西康省蔵族自治区」は、一省の全域をチベット人の「自治区」と位置づけるものであった。しかしながら、1950年代半ば、これらのチベット人居住地域に「民主改革」「社会主義改造」を施す段階になって、従来の方針を変更、1955年、西康省は廃止されて州に格下げされ、カンゼ・チベット族自治州(甘孜蔵族自治州)として四川省に併合された。

中国がチベット民族の自治行政体を設置している領域。これに西寧市海東市を含めるとガンデンポタンが主張するチベット地域とほぼ一致する
上記のうち、西蔵自治区(チベット自治区)の領域

チベット動乱と1959年のダライ・ラマ14世のインドへの政治亡命を経た1965年、従来ガンデンポタンが統治していた領域(=西蔵)上にチベット人の「自治区」として「西蔵自治区」が発足したが、先行して隣接する各地に樹立されていた「チベット族」の自治州、自治県等は、この自治区に統合されることなく現在に至っている。

このようにして成立した中国共産党政府のチベットに対する現行の行政区分の大枠は、1724年 - 1725年に行われた雍正のチベット分割の枠組みにほぼ沿ったものである(詳しくは雍正のチベット分割西蔵の項を参照)[7]

文化

婚姻制度

法律上は、一夫一婦制をとることは、中華人民共和国の共通である。しかし、チベットには一婦多夫制度が、慣行として一部に根強く残っている。この場合は、近親者の複数の男性が一人の女性を妻にすることが多く、一婦多夫で同居して共同生活を営む。

チベットのおもな祭(Tibetan Festivals)をあげると、チベット暦(旧暦)で

  • 1月1日:新年「ロサル」(Losar
  • 1月4日~:ラサで伝召大会
  • 1月15日:スー油灯祭
  • 5月15日:リンカ祭(世界の焼香の日)
  • 7月1日:雪頓祭(ヨーグルトを飲む祝日)
  • 10月15日:吉祥天母祭
  • 10月25日:燃灯節
  • 12月29日:かまどの神の祭

言語・文字

住民の言語はシナ・チベット語族チベット語で、七世紀、国王ソンツェン・ガンポの命によってインドに派遣されたトンミ・サンボータによって作られたという伝承を持つ独自の表音文字(チベット文字)を持つ。住民は、仏教信仰を価値観の中心に据え、高原の自然環境に適応した独自のチベット文化を発達させて来た。

経済

交通