チュニジア共和国
الجمهورية التونسية
チュニジアの国旗 Coat of arms of Tunisia.svg
国旗 国章
国の標語:نظام، حرية، عدالة
(アラビア語: 自由、秩序、公正)
国歌祖国の防衛者
チュニジアの位置
公用語 アラビア語
首都 チュニス
最大の都市 チュニス
政府
大統領 ベジ・カイドセブシ
首相 ユーセフ・シャヘド
面積
総計 163,610km289位
水面積率 5%
人口
総計(2011年 10,670,000人(80位
人口密度 61人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 496億[1]チュニジア・ディナール
GDP (MER)
合計(2008年 403億[1]ドル(65位
GDP (PPP)
合計(2008年822億[1]ドル(61位
1人あたり 7,962[1]ドル
独立
 - 日付
フランスから
1956年3月20日
通貨 チュニジア・ディナール (TND)
時間帯 UTC (+1)(DST:(+2) 2005年 -)
ISO 3166-1 TN / TUN
ccTLD .tn
国際電話番号 216

チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、アラビア語: الجمهورية التونسية‎、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、フランス語: République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス

アフリカ世界地中海世界アラブ世界の一員であり、アフリカ連合アラブ連盟地中海連合アラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。

国名

正式名称は、الجمهورية التونسيةラテン文字転写 : al-Jumhūrīya at-Tūnisīya、片仮名転写 : アル・ヂュムフーリーヤ・アッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、تونس(Tūnis)。

日本語の表記は、チュニジア共和国。通称、チュニジアテュニジアと表記されることもある。漢字表記は、突尼斯

アラビア語名のتونس(Tūnis、トゥーニス) は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称は「チュニスを都とする共和国」といったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス (Thunes) で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus 地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。

歴史

古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。現在のチュニジアとリビアはローマ支配下のアフリカ属州前146年 - 439年)となった。ローマ支配下では優良な属州としてローマ化が進みキリスト教も伝来した。ローマ帝国の東西分裂以後は、西ローマ帝国の管区(Diocese of Africa314年 - 432年)になるが、ゲルマン系ヴァンダル人439年に侵入。カルタゴにヴァンダル王国439年 - 534年)が建国された。ヴァンダル王国は海運で繁栄したものの、534年には東ローマ帝国に滅ぼされ、東ローマ帝国に組み入れられた(Praetorian prefecture of Africa534年 - 590年)。7世紀にはイスラム教のもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王カーヒナ英語版と東ローマ帝国の連合軍を破り(カルタゴの戦い (698年)英語版)、アフリカをイスラム世界に編入した。

ウマイヤ朝イフリキーヤ665年 - 744年)、Fihridイフリキーヤ(745年 - 757年)、ハワーリジュイフリキーヤ(757年 - 761年)、アッバース朝イフリキーヤ(761年 - 800年)と属領に位置づけられていたチュニジアに、アッバース朝カリフに臣従する形でカイラワーンアグラブ朝800年 - 909年)が成立し、アグラブ朝の衰退後は反アッバース朝を掲げたイスマーイール派ファーティマ朝909年 - 1171年)がこの地で興り、アグラブ朝を滅ぼした。ファーティマ朝の衰退後、カイラワーンにはズィール朝983年 - 1148年)が栄えた。その後モロッコ方面から勢力を伸ばしたムワッヒド朝1130年 - 1269年)の支配に置かれた後に、1229年にチュニスハフス朝1229年 - 1574年)が成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、『歴史序説』を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった

1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方英語版1574年 - 1705年)として併合された。オスマン帝国時代の初期には「パシャ」と呼ばれる軍司令官が派遣されてきたが、ヨーロッパ列強侵略によるオスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ」はイスタンブールのオスマン政府から独立した統治を行うようになり、1705年にはフサイン朝チュニス君侯国1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。

1861年に制定された憲法により、イスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となったサドク・ベイ(位:1859年~1882年)。

フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ英語版時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。ハイルディーン・パシャ英語版などの活躍により1861年には憲法en)が制定され、サドク・ベイ英語版はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。

1878年ベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年バルドー条約英語版1883年マルサ協定fr)でフランスの保護領フランス領チュニジア1881年 - 1956年)となった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。

1907年にはチュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、1920年には「憲政党英語版」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。ハビーブ・ブルギーバの「新憲政党英語版」はチュニジアの完全独立を要求した。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にベイのムハンマド8世アル・アミーン英語版を国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。

1991年湾岸危機ではイラクサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。

現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と未だに高い。

2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる(「ジャスミン革命」は、2011年1月現在、正式な名称ではない。詳細は該当ページを参照)。

2011年10月23日、中東・北アフリカ地域で広がっている政変(「アラブの春」とも称されている。)後の最初の選挙(定数217)が行われた。穏健派の「ナフダ」が第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。

11月19日制憲議会選挙で第1党になった「アンナハダ」と二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリ(アンナハダ)を次期首相に選出することで合意したと第2党の共和国会議当局者が明らかにした。また、次期大統領にはモンセフ・マルズーキ(CPR党首)、議会議長に第3党の「労働・自由民主フォーラム」(FDTL、通称エタカトル)のムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。 [2]

2013年2月野党党首暗殺事件の責任を取り、ジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月アリー・ラライエド英語版内相に組閣要請した。

2013年7月ラライエドは繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け、混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明[3]

2014年1月26日制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。

政治

チュニジア議会

チュニジアの政体共和制大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法1959年6月1日に公布(1988年7月12日および2002年5月26日改正)されたもの。

元首・行政

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ、首相閣僚・各県の知事の任免権、軍の最高指揮権、非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会内閣に相当)は大統領の補佐機関に過ぎない。

立法

立法府両院制で、2002年の憲法改正により新設された上院と、従来立法府として存在してきた代議院下院に相当)で構成される。上院の定数は126議席で、うち85議席は地方議会による間接選挙により選出され、41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で、全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年、代議院が5年である。

政党

チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが、2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合(RDC)が事実上、チュニジア政治を担っていた。RDCは1988年まで社会主義憲政党(PSD)という名称で一党支配を行っており、複数政党制承認後にRDCと改称した後もチュニジアの支配政党であり続け、2011年まで一度も政権交代は成されていなかった。政権崩壊後の選挙でアンナハダが与党になった。野党で比較的有力なものには民主社会運動(MDS)と人民統一党(PUP)がある。他に非合法化されたチュニジア共産党の流れを組むエッタジディード(変革)運動があったが、同党は他勢力と統合し「社会民主の道運動」(アル・マサール)になっている。

過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。

司法

司法権は最高裁判所が担っている。

軍事

チュニジア軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約35,000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。

兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている[4][5]

国際関係

独立直後から暫くはフランス軍ビゼルト基地問題や、アルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが、1970年代以降は親フランス、親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がカイロからチュニスになり、事務局長にチュニジア人が選ばれ、1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。

1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言され、アラブ・イスラム共和国の成立が宣言されたが、この連合はすぐに崩壊した。その後、リビアはチュニジアと対立し、1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し、多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結し、チュニジアを威嚇した。

パレスチナ問題を巡っては、チュニジアは僅かながら第三次中東戦争第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構(PLO)の本部がチュニスに移転したが、オスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを承認しているが、関係は決して良好とは言えず、ガザ紛争 (2008年-2009年)においてはイスラエルを非難している。

地方行政区分

チュニジアの県。

チュニジアには24のウィラーヤ(県)(アラブ語表記:ولاية)に分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。

  1. アリアナ県 Ariana
  2. ベジャ県 Béja
  3. ベンナラス県 Ben Arous
  4. ビゼルト県 Bizerte
  5. ガベズ県 Gabès
  6. ガフサ県 Gafsa
  7. ジェンドゥーバ県 Jendouba
  8. ケルアン県 Kairouan
  9. カスリーヌ県 Kasserine
  10. ケビリ県 Kebili
  11. ケフ県 Kef
  12. マーディア県 Mahdia
  13. マヌーバ県 Manouba
  14. メドニン県 Medenine
  15. モナスティル県 Monastir
  16. ナブール県 Nabeul
  17. スファックス県 Sfax
  18. シディブジッド県 Sidi Bou Said
  19. シリアナ県 Siliana
  20. スース県 Sousse
  21. タタウイヌ県 Tataouine
  22. トズール県 Tozeur
  23. チュニス県 Tunis
  24. ザグアン県 Zaghouan

主要都市