デヴィッド・ボウイ
David Bowie
David Bowie 1975.jpg
アメリカ時代のフォトグラフ (1975年3月)
基本情報
出生名 David Robert Haywood Jones
別名 ジギー・スターダスト
シン・ホワイト・デューク
生誕 (1947-01-08) 1947年1月8日
出身地 イングランドの旗 イングランド
ロンドン ブリクストン
死没 (2016-01-10) 2016年1月10日(69歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク マンハッタン
ジャンル ロック
ポップ
アート・ロック
グラムロック
プログレッシブ・ロック
エクスペリメンタル・ロック
クラウト・ロック
ニュー・ウェーヴ
ブルース・ロック
ファンク
ブルー・アイド・ソウル
電子音楽
テクノ
フォーク・ロック
ディスコ
フォーク
職業 シンガーソングライター俳優音楽プロデューサーアレンジャー作曲家
担当楽器 ボーカルギターピアノキーボードサックスシンセサイザードラムスパーカッションハーモニカメロトロンマンドリン、チェンバレン、マリンバカリンバヴァイオリンチェロオルガンサンプリングヴィブラフォーンスタイロフォン
活動期間 1964年 - 2016年
レーベル フィリップス
デッカ
RCA
EMI
アリスタ
コロムビア
ライコディスク(RCA時代の旧盤の米国でのリイシュー関連)
共同作業者 ミック・ロンソン
ブライアン・イーノ
イギー・ポップ
公式サイト DavidBowie.com
直筆サイン
グラムロック時代のロゴ

デヴィッド・ボウイ(David Bowie [ˈdeɪvɪd ˈboʊ.i], 本名 David Robert Haywood Jones, 1947年1月8日 - 2016年1月10日[1])は、イングランド出身のミュージシャンシンガーソングライター音楽プロデューサー俳優

グラムロックの先駆者として台頭し、ポピュラー音楽の分野で世界的名声を得る。役者の世界にも進出し、数々の受賞実績を持つマルチ・アーティストとして知られている。

1996年ロックの殿堂』入り。1985年2017年度『グラミー賞』受賞。NME誌選出『史上最も影響力のあるアーティスト』など[2]

略歴

出自から初ヒットまで

若き日のボウイ (1967年9月)

1947年1月8日イギリスロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー(2001年没)と、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体Barnardo'sで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズ(1969年没)の間に生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ。一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住んでおり、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越す。

子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズプラターズファッツ・ドミノリトル・リチャードエルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ[3][4]

ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持つようになり、特にチャールズ・ミンガスジョン・コルトレーンにあこがれるようになった。ボウイが14歳になった1961年、母親はプラスチック製のアルト・サックスを彼に贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受けるようになる[5]

1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった[6]。結果として医師は、ボウイの視力が完全には回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、また常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性虹彩異色症によるものである。なお、この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した[7]

1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、また、彼にとっての最初のバンド「Konrads」を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た[8]

1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード」などと名を変えたが、同じ歌手のデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」でやっと芸名が定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイナイフから取られた[9]

1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ』(1968年)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。

ボウイはロンドン・ダンスセンサーでのケンプのダンスクラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドパントマイムによってドラマティックな表現を身につけ、そこから世界に対して見せつける自身のペルソナの制作に熱中した。

1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。

グラム・ロック時代

グラムロック時代

1970年ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。

ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドのモット・ザ・フープルは1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットした。

1972年6月、コンセプト・アルバムジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日イギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。

「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。

アメリカ時代

アメリカ時代 (1974年2月)

1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバムダイアモンドの犬』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになった。その中断期間中にフィリー・ソウルに傾倒するようになり、6週間の中断を経て再開された北米ツアーは全く別のものになった。

1975年カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を発表する。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクインした。

1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として結実した。

ベルリン時代 (1978年6月)

ベルリン時代

ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク」(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューではヒトラー擁護発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったとの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、危険人物とみなされることも多かった。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。

1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』、『英雄夢語り』、『ロジャー』は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになる。ロンドンパンク/ニューウェーブ全盛期の中で、あえてプロトパンク/オールド・ウェーブを前面に出した。

カルト・スターとの決別

ニューウェーブ時代 (1983年11月)

1980年、再びアメリカに戻り、ニューウェーブを前面に出した、RCA時代最後のアルバム『スケアリー・モンスターズ』を発表した。初ヒット曲の「Space Oddity」の登場人物・トム少佐を再び登場させ、「Ashes to ashes」で彼のその後と自分を重ね合わせて歌い、ボウイはカルト・スターとしての「デヴィッド・ボウイ」と決別することになった。

一転して1980年代ナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。1983年の『シリアス・ムーンライトツアー』では新しいファンをも取り込んでの大規模なワールドツアーを大成功させ、カルトヒーローからメジャーロックスターの座につくことになった。ただこのころから以前のようなカルトなアーティスティックな作風からポップロック路線へと作風が変化するが、迷走と模索の時期ともなった。この頃のボウイは俳優としての出演も多い。

ティン・マシーン時代

ティン・マシーン時代 (1990年9月)

1989年、ボウイはゴージャスなサウンドとステージからイメージチェンジをはかり、シンプルなロックバンド「ティン・マシーン」を結成。スタジオ・アルバムを2枚、ライヴ・アルバムを1枚リリースする。その後、過去のベストヒットメドレー的なコンサートとしては最後と銘打って『サウンドアンドヴィジョン』ワールドツアーを行い、過去の総決算を果たそうとした。

ソロ活動再開

1991年に『ティン・マシーンII』を発表。この後、現在までティン・マシーンのアルバムはリリースされておらず、正式な解散発表はないものの、事実上の解散状態となる。

1993年にはモデルのイマン・アブドゥルマジドと再婚。そして、ナイル・ロジャースと再び組んで6年ぶりのソロアルバム『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表、『トゥナイト』以来9年ぶりに全英1位を獲得する。1995年には今度はブライアン・イーノと再び組んで『アウトサイド』をリリース。その後、1997年に『アースリング』、1999年には『アワーズ…』をリリースする。

メジャーなロックスターには珍しく、1990年代のボウイはコンスタントに新しい作品の発表とツアー活動を行い、時代の実験的なアプローチを導入し、復調の兆しをみせる。

病気療養と引退報道

USA.シカゴ公演 (2002年8月)
USA.シカゴ公演 (2002年8月)
(2006年9月)

2000年代に入っても創作意欲は衰えず、2002年に『ヒーザン』、2003年に『リアリティ』と立て続けにアルバムを発表し、大規模なワールドツアーを開始する。その中で8年ぶりの来日公演も果たした。しかし、このツアー中にハンブルクにて動脈瘤による前胸部の痛みを訴え緊急入院、残りの14公演を急遽中止した。

この一件以来、ボウイは創作活動には消極的となり、2004年の「ネヴァー・ゲット・オールド」(『リアリティ』からのシングル・カット)以降は2013年までリリースされていない。公の場に姿を現したのも、2006年デヴィッド・ギルモアアリシア・キーズのライブにゲスト出演した程度で、表立った活動はほとんど行われていない。

親交の深いブライアン・イーノ2010年初頭のインタビューで「ここ数年のボウイはすっかり創作活動への意欲を削がれてしまったようで、この調子だと新作は当分ないだろう」と語っている。

同年秋、妻のイマンのインタビューによると、近年のボウイは自宅でアート作品の制作や執筆に勤しんでおり、その生活に満足していると語っている。現在は自身が蒐集した100個以上のオブジェを撮影し、それに自身のテキストを添えた書籍『Bowie: Object』を執筆中とのことであるが、刊行期日などはまだ明らかにされていない。ボウイが第一線に復帰することについては「本人次第」としている。

2011年にはボウイの伝記を手掛けた作家、ポール・トリンカによると「よほど劇的な作品を届けることがない限り、もう一線には戻らないだろう」と、ボウイは実質的にほぼ引退したという見解を述べている。同年3月には、2001年にリリースを予定していたという幻のアルバム『Toy』がインターネット上に流出するという事件が起こった。

突然の復帰、そして死

2013年1月8日、ボウイの66歳となる誕生日に突如、新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」と10年ぶりとなる新作『ザ・ネクスト・デイ』を3月に発売すると発表。先行シングルの「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」は全世界119か国のiTunes Storeにて一斉配信開始され、リリースから24時間で27か国のiTunesチャート1位になった[10]

没後、献花されたベルリン時代のアパート (2016年1月)

余談だが、ボウイ重病説を信じたエコー&ザ・バニーメンのフロントマン、イアン・マッカロクは、彼は亡くなるものだと思い込み、トリビュート・ソングを作っていたため、突然のカムバックに驚かされたらしい[11]

2015年、自身が1976年に主演した映画『地球に落ちて来た男』が舞台化され、自身もプロデュースを担当することが発表される。舞台化作品のために、新曲の書きおろしと、過去の楽曲がアレンジされて提供される[12]

2016年1月10日、18か月の闘病の末、肝癌により死去したことが公式Facebookにて公表された[13]。2日前の69歳の誕生日にアルバム『★(Blackstar)』をリリースしたばかりであった。その収録曲「Lazarus」は、自らの死期を悟っていたボウイがプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと共に、ファンへの最後のメッセージを盛り込んだ内容となっている[14][15]。アルバムは、自身初の全米チャート (Billboard 200) 1位を獲得した[16]

2017年、遺作となった作品『★(Blackstar)』が、グラミー賞で最多の5部門を獲得した[17]

人物

家族

最初の妻は、モデル出身のメアリー・アンジェラ・バーネットと1970年に結婚。翌年、長男 ダンカン・ジョーンズ(現・映画監督)を授かる。1980年に離婚。1992年スーパーモデルイマン・アブドゥルマジドと再婚。2000年に長女 アレクサンドリア・ザーラ・ジョーンズが生まれている[18]

音楽家としてのボウイ

故郷ロンドンにあるジギー・スターダストの碑標

大抵、名声を得たミュージシャンは、その時点までに確立した己のスタイルを貫こうとし、ファンもまたそれを望んでいるものだが、ボウイの場合はスタイルを変化させることによってファンを失う危険をものともせず、様々なジャンルにわたる大胆な音楽性の変化を繰り返し、それぞれのジャンルにおいてエポックメイキングな作品をリリースしている。時代ごとに超個性的なミュージシャン達とコラボレーションを行うのみならず、はるか年少のアーティスト達とも積極的に交流する柔軟さも持ち、批評的・商業的なリアクションはその時々で不安定ながら、生涯貪欲で前進的な創作を続けた。そのためか、1970年代・1980年代以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも多い。ジャパンデヴィッド・バーンカルチャー・クラブヴィサージスパンダー・バレエデュラン・デュラントレント・レズナービリー・コーガンなど、多方面に亘る。

また、「メジャーなカルトヒーロー」と言われ、時代時代の音楽に対する明敏さを生かし、それまでとは打って変わった音楽性という実験を繰り返しながら、様々な意味での自己刷新を計ることが多いため、安定した商業面での成功をおさめるには不利といえるが、セールス的には成功している部類に入り(ただし、いわゆるロックレジェンドとしては格段に総セールスが少ない)、アーティスティックな面と商業面をうまく両立させている数少ないミュージシャンである。

1973年には初の日本公演を果たしている。ボウイは飛行機恐怖症であったことから、来日に際してはアメリカ合衆国から船で来日し、イギリスへの帰国の時も横浜港からナホトカ航路を経由してウラジオストクからシベリア鉄道に乗車したという逸話もある[19]

2000年に大英帝国勲章コマンダーを、2003年には大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退している[19][20]が、1999年にフランス政府より授与された芸術文化勲章コマンドールは受章している[19]

役者としてのボウイ

ハリウッドにあるボウイの「名声の歩道」

ボウイの初めてのメジャーな映画出演は『地球に落ちて来た男』であり、それは演劇『エレファント・マン』同様の賞賛をもたらした。この作品での演技が評価されて、第4回サターン賞主演男優賞を受賞した。それ以前の映画出演としては、1969年の前衛映画にパントマイムとして出演している。以降の役者としての経歴は散発的なものであった。1983年には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に英軍将校ジャック・セリアズ役で出演した。また1984年には『眠れぬ夜のために』で殺し屋の端役を、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』ではピラトを演じた。

『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・ミュージカル『ビギナーズ』(1986年)は失望と非難の的となった。同年彼はジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』でゴブリンの王ジャレスを演じた。

彼はまた『ハンガー』でカトリーヌ・ドヌーヴスーザン・サランドンと共演し、『バスキア』ではアンディ・ウォーホル役を演じた。『ツイン・ピークス-ローラ・パーマー最期の7日間』ではミステリアスなFBI捜査官フィリップ・ジェフリーズ役で出演した。

ボウイは2002年の「100人の偉大な英国人」の中にデビッド・ベッカムウィンストン・チャーチルジョン・レノンといった人物と並んで選出された。

思想

過去のバウンス誌によれば、ボウイは60年代のヒッピーに激怒したことがある。ボウイはヨーロッパの芸術、貴族への憧憬を持ち続けた。それがエスカレートしたのか、70年代にファシズム支持発言をしている。1974年にはボウイは「イギリスはファシズムのリーダーになる用意がある」[21]との問題発言をおこなった。また76年のプレイボーイ誌のインタビューでは「ロック・スターは皆、ファシスト」「ヒットラーはロック・スターだった」[22]と再度の問題発言をしている。同時期に、レゲエやブルースで財産をきずいたエリック・クラプトンもライブで、ジャマイカ系の移民や有色人種に対する差別発言をしている。またクラプトンは、排外主義でレイシストの右派政治家、イノック・パウエルを支持するとの発言もおこなった。クラプトンやボウイの問題発言に激しく反発した若者を中心にした人々は、“ロック・アゲインスト・レイシズム”の運動を実施した。近年、日本でもこの運動を模倣する集団が現れたが、複数の主催者が差別発言をして、運動は終焉した。

親日家

ジギー・スターダスト時代の衣装

デヴィッド・ボウイが大の日本好きであったことはよく知られており[23][24]、彼のステージパフォーマンスには日本文化の要素がいくつも取り入れられていた[23][25]。このことを示す事例は、異星人という設定の「ジギー・スターダスト」や「ジェローム・ニュートン」のコスチュームなど、枚挙にいとまがない[25]。ボウイは特に、歌舞伎の様式美や女形という要素に大きな影響を受けた[23][25]五代坂東玉三郎に女形の化粧のやり方を教わることすらしたが、女形の化粧をそのまま真似することはせず、むしろ女形に両性具有的魅力を見出し、ステージへの応用ができるかを模索した[23]。また、服飾史研究者 Helene Thian によると、ボウイは歌舞伎の「早替わり」の要素をステージパフォーマンスに取り入れた最初の欧米人であるという[23]。ボウイは「スペース・サムライ」と名付けた日本のにインスパイアされた衣装や、着物にインスパイアされた衣装を好んで羽織り、曲の合間などに早替わりするパフォーマンスで観客を魅了した[23]

ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、1960年代舞踊家リンゼイ・ケンプのダンス・スクールに通っていた時であった[25]衣笠貞之助の無声映画に影響を受けたことを自認するケンプは、生徒のボウイに武満徹を聴かせ、共に日本の伝統芸能歌舞伎を研究した[25]1967年にはチベット仏教僧侶になろうと本気で考えていたボウイであったが、ケンプのレッスンをきっかけとして、黙想に生きる僧侶とは正反対の、ロックスターという派手やかな歌舞音曲の世界へと、人生の進路が決まった[25]。ボウイが北米市場で成功しようともがいていた1970年代に大きな助けとなったのが服飾デザイナー山本寛斎との出会いであった[23][25]。山本は1973年のジギーや1976年のアラジン・セインの衣装をデザインした[25]

今日では、ボウイのような立場は、異文化から要素をただ盗んできただけと糾弾されがちであるが、前述の服飾史研究者 Thian によると、日本からボウイに対してこのような苦情が申し立てられることは、まずないという[23]。彼女によるとその理由は、ボウイは自身の創造性を、東西文明を融合させ戦後世界を癒すために捧げたが、これはボウイの日本への敬意の表れであり、日本人も彼の敬意を愛しているからだ、という[23]

1980年頃京都市東山区に住んでいて、京阪電車阪急電車に乗車している写真が残っている。ボウィの訃報に際し、阪急電鉄は 公式ツィッターで、6300系電車をバックに撮られたボウィの写真と共に、追悼メッセージを送った。

栄典および受賞等

フランス

1999年 フランス芸術文化勲章コマンドール[26][27]

米国

1999年 バークリー音楽院名誉音楽博士号[28]

献名