ドイツ国の旗ドイツの旗ナチス・ドイツの旗 ドイツ国政党
国家社会主義ドイツ労働者党
Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei
Parteiadler der Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (1933–1945).svg
党鷲章(Parteiadler)
指導者 アントン・ドレクスラー(議長)(1920-1921)
アドルフ・ヒトラー(議長、指導者)(1921-1945)
マルティン・ボルマン(党担当大臣)(1945)
成立年月日 1920年2月24日
前身政党 ドイツ労働者党
解散年月日 1945年10月10日
解散理由 連合国軍による禁止命令
本部所在地 ミュンヘン褐色館
党員・党友数
850万人(1945年)
政治的思想・立場 ナチズム(Nationalsozialismus)[1][2]
極右[3][4]/急進右翼[5]
民族共同体[6]
反ユダヤ主義[7]
反資本主義[8]
反共主義/反ボルシェヴィズム[6]
ヴァイマル共和政[9]
ヴェルサイユ条約[6]
機関紙 フェルキッシャー・ベオバハター
シンボル 党旗:ハーケンクロイツ
党旗
党歌:旗を高く掲げよ
テンプレートを表示

国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、ドイツ語: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei De-Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、略称: NSDAP)は、かつて存在したドイツ政党。一般にナチスナチ党などと呼ばれる(詳細は#名称を参照)。1919年1月に前身のドイツ労働者党(DAP)が設立され、1920年に改称した。1921年に第一議長に就任したアドルフ・ヒトラーは、党内でフューラー(Führer、指導者、総統)と呼ばれるようになり、指導者原理に基づくカリスマ的支配を確立。長らく野党であったが、1929年世界恐慌以降国民の社会不安を背景に支持を拡大させていき、1932年には国会の第一党となった。1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されたことで政権与党となり、一党独裁体制を敷いたが、1945年第二次世界大戦の敗戦で事実上消滅し、占領中に連合国によって禁止(非合法化)された。

名称

前身の党は「ドイツ労働者党」である。1920年、党の実力者となったヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングオーストリアの「ドイツ国家社会主義労働者党」(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)の命名パターンに従うことを要求した。討議の結果、 「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 」、ナツィオナールゾツィアリスティシェ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)の党名が採用された。正式に党名が変更されたのは1920年2月末であるが、2月22日付のビラアントン・ドレクスラーがこの党名を用いている。一方で党書記がこの党名を使用し始めたのは4月18日になってからであった[10]

正式党名の和訳は「National」の解釈の違いにより「国家社会主義ドイツ労働党[11]」、「国民社会主義ドイツ労働者党[12][注釈 1]」、「民族社会主義ドイツ労働者党[注釈 2]などと訳される。

2011年の山川出版社の高校教科書『詳説世界史 B』ではナチズムは「国民社会主義」と訳され、佐藤卓己は現代ドイツ史の専門家で「国家社会主義」と訳すものはいないと指摘している[14]。「国家社会主義」はフェルディナント・ラッサールなどの社会主義思想である state socialism としても用いられるが[15]、また日本における高畠素之赤松克麿が唱えた思想も「国家社会主義」と呼ばれる一方で、「国民社会主義」とも称している[16]

略して呼ぶ場合は後述の「ナチス」の他、同時代には「国粋社会党[17]」「国民社会党[18]」の表記も使われた。

また、日本の高校世界史教科書では「国民社会主義ドイツ労働者党」と記されており、それを正式名称として教えている。(2016〈平成28〉年度)

各国語では下記の通り翻訳されている。

  • 英語
    The National Socialist German Workers' Party
  • 仏語
    Le Parti national-socialiste des travailleurs allemands
  • 西語
    El Partido Nacionalsocialista Obrero Alemán
  • 中語
    • 繁体字: 國家社會主義德意志工人黨 / 納粹黨
    • 簡体字: 国家社会主义德国工人党 / 纳粹党

通称の「ナチ(独: Nazi (ナーツィ))」 Nationalsozialist の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、「ナチス(Nazis)」はNaziの複数形である。元来は当時の対抗勢力がナチ党員および国家社会主義者に付けた蔑称である。ドイツ社会民主党員および社会主義者も同様に Sozialist を短縮して「ゾチ(Sozi (ゾーツィ))」と蔑称されていた。

したがって、映画などの創作でナチ党員が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分たちにナチおよびナチスという呼称を用いる事は無かった。党員自身は党名のイニシャルを略して「NSDAP (エンエスデーアーペー)」、「NS (エンエス)」或いは「Partei (パルタイ)」と呼び、党員同士は「PG (ペーゲー)」(Parteigenosse 、党同志の略)、「Kamerad (カメラート)」などと呼び合った。

しかし、ナチスという呼称は広まっており、ドイツ以外の全世界では通称となっている[10]。日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている[注釈 3]

現在は他の非ドイツ語圏でも Nazi PartyNazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツ語にも同様の Nazi-Deutschland などの言い方はあるが、分断時代の西ドイツにおいても、「NASDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった[10]。また、Nationalsozialismus (: National Socialism)の略号である NS (エンエス) を接頭語にして、例えば NS-Deutschland (エンエス・ドイチュラント) のように造語される。

思想

党内ではヒトラーの指導を絶対のものとして受け入れるという点においては、あまり異論はなかったが、ナチ運動の内実は地域ごとの党組織や党職能組織、突撃隊、党有力者がその時々の状況に応じて勝手に活動していることが多く、統一された運動とは言い難く、農民に対する物を除けばまとまった政策綱領のようなものは存在しなかった。しかしそれが党の各組織を競合的に発展させ、運動にダイナミズムを与えていた[6]

世界恐慌による社会不安や議会政治の混迷の原因をすべてヴェルサイユ条約ヴァイマル共和政ユダヤ人ボルシェヴィズムに帰せ、強力な指導者が導く「民族共同体」を樹立することが必要であるとする単純なスローガンや運動が持つ若々しさは恐慌に喘ぐ国民に現状突破のシンボルとして広く訴えかけるものがあった[6]。ナチ党はヴァイマル憲法体制を一括して全否定することによって自らを既存体制側政党と対決する基本的選択肢であることを示した。競合する他党を影響力を持つ社会的利害団体の傀儡に過ぎないと中傷して自らを唯一の国民運動と宣伝した[20]

党内の多数派によって唱えられた党の目標として「労働者階級の国民化」という要求があった。これはナチ党は労働者大衆をマルクス主義的国際主義から解放して「ドイツ的社会主義」へ導く労働者党であるべきという主張であった。ヒトラーははっきりとこの立場を代表しており、「(労働者を)国民的に感じ、国民的であることを望む団結した価値ある要因として民族共同体に連れ戻すこと」がナチ党の活動の最も重要な目標の一つとしている[21]

もともとナチ党は都市的な傾向を持っていたが、農村部の困窮が深まる1928年初夏以降からは農村での党活動を重視するようになった。農村におけるナチ党は「農民の窮状は社民党政権と結託した暴利を貪るユダヤ資本のせいである」というステレオタイプな反ユダヤ主義宣伝に終始した。困窮深まる農村部では既存体制と根本から対決する政党が求められていたため、ナチ党は農村部に浸透することに成功したが、農村部ではナチ党の「社会主義」を警戒する向きも強かったので、農民向け宣伝をしやすくするため、1928年にヒトラーは彼の慣習に反して党綱領の正式な解釈を制定した。それにより綱領17条「公益目的のための土地の無償収用」の対象はもっぱら「ユダヤ人の投機による利得」に限定されるものであって私有財産制は維持されるとしている[22]

ブルジョワ政党や社民党と比較して若者が多い党だったため、同時代に普及していた青年崇拝信仰を積極的に動員した。それにより1920年代後半から強まった世代間対立で党は大きな利益を得ることに成功した。ナチ党はその反動的なイデオロギーにも関わらず、新たな技術的手段を積極的に受け入れる姿勢、ブルジョワ的秩序の拒否の姿勢から青年層を大いに惹きつけた[20]

党史

黎明期

1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」がブレーメンで結成された。錠前師で自称詩人でもあったアントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3月7日ミュンヘンで結成した。10月2日にはドレクスラーとジャーナリストのカール・ハラーは「政治的労働者サークル」を結成し、ドイツ労働者党の結成準備を行った。1919年1月5日、ハラーを第一議長とするドイツ労働者党 (Deutsche Arbeiterpartei 略称DAP)」が成立した。当時の党綱領はドレクスラーの手によるものであり、民族主義と中産階級の成立が強調されていた[23]

創設当初の党はわずか40人ほどの小さな政治的サークルに過ぎなかった。しかし党は右派組織全ドイツ連盟ドイツ語版ゴットフリート・フェーダーディートリヒ・エッカートを会員とするトゥーレ協会といった右派組織の支援を受けており、エルンスト・レームのような軍とドイツ義勇軍の関係者も党員であった。第一議長ハラーやその背後にいた全ドイツ連盟の指導者は「フリーメーソンユダヤ資本らの陰謀」を防ぐため、閉鎖的なサークルの状態から政治運動に間接的な影響を与えることが望ましいと考えていた[24]。党の集会は盛況であり、毎週300人ほどの聴衆を集めていた[25]

ヒトラーの台頭

ヒトラーの党員証

当時アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国軍が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ナチスに接近したのは、上官であるカール・マイヤー大尉にスパイを命ぜられたためであった。同党が1919年9月12日に開いた集会に参加し[26]、バイエルン独立論者と激論したのをきっかけに数日後に入党した[27]。ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、名簿作成以前の正式な記録が無いため明確にはなっていない[26]

ヒトラーはドレクスラーに見込まれ、たちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは軍の仕事から離れ、党務に専念するようになった。1919年12月、ドレクスラーとヒトラーは党規則を改定することで議長(党首)であったハラーを追放し、ドレクスラーが新議長となった。1920年1月5日、ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義、企業の国有化、利子制度打破などを訴える25カ条綱領を作成した。綱領は2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた集会で正式採択された。2月末には党名が正式に変更され、6月にハーケンクロイツを党のシンボルに採用、12月には売りに出されていた週刊紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした。

ヒトラーは軍とのパイプを持つエルンスト・レーム大尉やエッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大した。ヒトラーは党内一番の人気弁士であり、数千人の聴衆を集めることが出来た。党財政においてもヒトラーは欠かせない存在になっていた。1921年7月、ヒトラー色を薄めようとする党内の動きに対して自らを唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求するに至る。党内には反発もあったが、離党をちらつかせたヒトラーに屈し、7月29日に開かれた幹部会議で認められた。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされ、ヒトラーが議長となった。このころからヒトラーはエッカートやヘスといった支持者から指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになり[26]、党内に定着した。この「Führer」はヒトラーの終生の肩書きとなった(総統を参照)。

同年8月には党内組織「体育スポーツ局 (Sportabteilung)」がレームによって設立された。同組織は10月に「突撃隊」と改称し、他党の同種団体との市街戦の主力となった。突撃隊の幹部は禁止されたドイツ義勇軍(フライコール)エアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。

またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラー・ユーゲントの前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツの党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはユリウス・シュトライヒャー率いるニュルンベルクドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。しかし11月18日にはプロイセン州においてナチ党が禁止され、ザクセン州テューリンゲン州等でも禁止されたため、ナチ党の発展はバイエルン州に限られることになった。しかしドイツの不景気とインフレはナチ党を含む極右急進派、共産党を含む極左急進派への支持をさらに高めた[28]。また右翼的なバイエルン州政府も反ボリシェヴィキ的なナチ党を庇護する方針をとった[28]

1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。2月には国防軍が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。

ミュンヘン一揆

ミュンヘン一揆でミュンヘン市内を占拠するナチス党員

1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した(ルール問題)。ヴィルヘルム・クーノ首相の政府はサボタージュによる抵抗を呼びかけ、工業の停止と、占領によって生じた損害への補償のためインフレーションがさらに激化した(英語版記事)。ナチ党は消極的な抵抗しか行えない政府を批判するとともに、突撃隊を拡充してフランス占領軍に対抗しようとした。2月に第一次世界大戦の英雄ヘルマン・ゲーリングが突撃隊司令官となったのはその流れの一つで、3月からは本格的な軍事訓練が行われた。

5月26日には党員の一人アルベルト・レオ・シュラゲタードイツ語版がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。このシュラゲターの死をナチスが喧伝したことにより、右翼はもとより左翼からも英雄視された[注釈 4]。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。

しかし5月3日にはレームが参謀将校から左遷され、軍のドイツ義勇軍援助はエーリヒ・ルーデンドルフ将軍の影響下にある、ヘルマン・クリーベル大尉の指揮下に置かれることになった。このため元軍人が多い突撃隊へのヒトラーの影響力は弱まった。9月には突撃隊と共働団参加団体が連合し、「ドイツ闘争連盟」が組織された。クリーベルが議長であり、ヒトラーも指導者の一人になった。

不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール主導のベルリン進軍は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ビアホール「ビュルガーブロイケラー」においてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000-3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。

首謀者ヒトラーを初め、党員らは逮捕され、国内に残った幹部はアルフレート・ローゼンベルクなどわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラーの独演会と化し、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。ヒトラーはランツベルク刑務所で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、ナチス党のいくつかのダミー団体が活動を続けた。

ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼の政治力は乏しく、分派争いがひどくなった。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラー無き党内で勢力を拡大した。ルーデンドルフを担ぐドイツ民族自由党と共同して国家社会主義自由運動を結成し、1924年5月の選挙で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、シュトラッサーの有力な腹心となった。同年12月の選挙では国家社会主義自由運動の議席は14議席に低下し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。

また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリング (Frontring) という組織を結成した。1924年8月28日に同組織はフロントバンドイツ語版と改称された。

党勢の拡大

ヒトラーとヘス、シュトラッサー、ヒムラー。1927年

1924年12月20日、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトとヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルトはヒトラーの恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた[30]

1925年2月27日に「ビュルガーブロイケラー」においてナチ党再結党大会を行った。大会は公開で行われ、党関係者の他、一般聴衆も加わって参加者はおよそ3000人に及んだという[31]。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。

1925年3月29日の大統領選挙の第一次選挙にはルーデンドルフが出馬し、ナチ党も彼を支持したが、得票率1パーセントの泡沫候補で終わり、ルーデンドルフは政治生命を失った[32]

4月中旬、レームはヒトラーと会談し、再建される突撃隊をナチ党から自立した国防団体(国軍補助兵力)にすることを要求したが、ヒトラーはこれを拒否した。この決裂でレームは突撃隊司令官もフロントバン司令官も辞し、政界引退を表明した。その後軍事顧問として南アフリカへ渡っていった[33]

7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。しかしレンテンマルクの導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。

1926年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日バンベルクで招集されたバンベルク会議において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマール党大会が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントなど各種団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツが党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない[34]

1927年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5月20日、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線英語版という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。

しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。

1932年4月には大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席[注釈 5]を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求した(のちに全権委任法として現実の物となる)。ヒトラーの要求はヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチ党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。

ナチス党の得票数の変化
投票年月日 得票数 得票率 当選数
1928年5月20日 810,000 2.6% 12人
1930年9月14日 6,410,000 18.3% 107人
1932年7月31日 13,750,000 37.3% 230人
1932年11月6日 11,740,000 33.1% 196人
1933年3月5日 17,280,000 43.9% 288人
1933年11月12日 39,655,288 92.2% 661人
1936年3月29日 44,462,458 98.8% 741人
1938年4月10日 44,451,092 99.5% 813人
ドイツ国会選挙の当選者数(1920 - 1938)
国会の政党 1920年6月6日 1924年5月4日 1924年12月7日 1928年5月20日 1930年9月14日 1932年7月31日 1932年11月6日 1933年3月5日 1933年11月12日 1936年3月29日 1938年4月10日
共産党 (KPD) 4 62 45 54 77 89 100 81 (*2) 禁止(*4) - -
ドイツ社会民主党 (SPD) 102 100 131 153 143 133 121 120 禁止(*4) - -
カトリック中央党 (*1) 65 81 88 78 87 97 90 93 解散(*4) - -
ドイツ国家人民党 (DNVP) 71 95 103 73 41 37 52 52(*3) 解散(*4) - -
国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) - - - 12 107 230 196 288(*3) 661 741 813
その他の政党 98 92 73 121 122 22 35 23 - (*4) - -