ニコラ・サルコジ
Nicolas Sarkozy
Flickr - europeanpeoplesparty - EPP Summit October 2010 (105).jpg
生年月日 (1955-01-28) 1955年1月28日(63歳)
出生地 フランスの旗 フランス
パリ17区
出身校 パリ第10大学
前職 弁護士
所属政党共和国民主連合→)
共和国連合→)
国民運動連合→)
共和党
配偶者 マリー=ドミニク・キュリオリ(1982年 - 1996年
セシリア・シガネール=アルベニス1996年 - 2007年
カーラ・ブルーニ=サルコジ2008年 - )
サイン Nicolas Sarkozy signature.svg

フランスの旗 憲法院裁判官
在任期間 2012年5月15日 -

在任期間 2007年5月16日 - 2012年5月15日

在任期間 2007年5月16日 - 2012年5月15日

内閣 ドミニク・ド・ヴィルパン内閣
在任期間 2005年6月2日 - 2007年3月26日
大統領 ジャック・シラク

在任期間 2004年11月28日 - 2007年5月14日

その他の職歴
オー=ド=セーヌ県議会議長
2004年4月1日 - 2007年5月14日
フランスの旗 国務大臣
経済・財務・産業大臣

2004年3月31日 - 2004年11月29日
フランスの旗 内務・治安・地方自由大臣
2002年5月7日 - 2004年3月30日
共和国連合総裁(代行)
1999年4月16日 - 1999年12月4日
フランスの旗 通信大臣
1994年7月19日 - 1995年5月11日
フランスの旗 政府報道官
1993年3月30日 - 1995年1月19日
フランスの旗 予算大臣
1993年3月30日 - 1995年5月11日
ヌイイ=シュル=セーヌ市長
1983年4月29日 - 2002年5月7日
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ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサフランス語: Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa1955年1月28日 - )は、フランス政治家。第23代フランス大統領(フランス第五共和政)(2007年5月16日 - 2012年5月14日)およびアンドラ公国の共同大公国民運動連合や、その後継の共和党総裁などを歴任した。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者とされる。ユダヤ人を母に持つハンガリー移民2世で、ともにアメリカですら例のない移民2世、ユダヤ系の大統領の誕生はフランスの多民族国家化を強く印象づけた。本人はカトリック信者である[1]

経歴

生い立ち

パリ出身。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリーアラッチャーンAlattyán)の下級貴族の家系。父ナジボーチャイ・シャールケジ・パール(ハンガリー語: nagybócsai Sárközy Pál1928年5月5日 - )は、ソ連に占領された祖国を逃れ、仏軍占領下のドイツに渡り、そこでフランス外人部隊兵士となる。新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサと改名した。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラー(1925年10月12日 - )と出会い結婚した。母方は、テッサロニキ出身のギリシアユダヤ人で、祖父の代にカトリックへ改宗している。

ニコラ・サルコジが5歳のとき、父ポールが妻とニコラら3人の息子を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。ニコラの兄ギヨーム・サルコジ1951年6月18日 - )は繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。弟フランソワ・サルコジ(1958年6月3日 - )は、小児科医を経て生物学者となっている。いずれも優等生だった兄弟とは対照的に、ニコラの中学、高校の成績は芳しくなく、日本の中1にあたる6年生の時に英語の成績が悪く留年している。 また腹違いの弟でアメリカ人銀行家のオリヴィエも優秀でカーライル・グループのディレクターとして活躍している。(彼が2015年に再婚した妻は、元人気子役で現在はデザイナーに転身した富豪のオルセン姉妹のメアリー=ケイトである)

政治家へ

1973年バカロレア(大学入学資格)を取得し、パリ第10大学に入学。当時はジャーナリストを志していた。1976年、大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合 (RPR) へ入党する。1977年パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。大学卒業後は一時パリ政治学院に在学していたが、ここでも英語がネックとなり修了できなかった。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年、28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。

1988年国民議会下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。1993年バラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いて対立候補のエドゥアール・バラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。1997年に与党共和国連合(RPR)ナンバー2に返り咲き、1999年欧州議会選で事実上の党首として陣頭指揮を取るが惨敗を喫し、一時は政治生命の危機も囁かれ、党の役職を全て辞して弁護士としての活動に戻った。

閣僚

2002年5月、ラファラン内閣の内務・治安・地方自由相として入閣、久々の表舞台となったが、サルコジ自身は首相職を望んでいたため、ますますシラクとの関係が微妙なものとなった。2003年3月19日に治安回復を目指し、軽犯罪厳罰化街娼の取り締まりなどを目的としたサルコジ法を施行させる。サルコジ内務相の強硬な治安政策によって、国内の犯罪発生件数は激減し、実績を買われたサルコジは一躍、優秀な政治家になる。2004年経済・財務・産業相に異動。同年11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合 (UMP) の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出される。シラクはサルコジの権力増大を恐れ、サルコジは財務相を辞任する。

2005年5月31日よりド・ビルパン内閣の内相に就任する。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。この際、暴動に加わった若者に対して、「社会のくず (Racaille)」「ゴロツキ (Voyou)」などと発言したことが物議を醸すが、こうした強硬な態度がかえって世論の支持を集めた。暴動の最中の11月12日にイフォップ社が有権者958人を対象に行った電話による世論調査では、国民運動連合の支持者の90%が、極右政党支持者の97%がサルコジ内務相の強硬姿勢を支持すると応えた。

大統領

2007年大統領選挙における演説をするサルコジ

2007年フランス大統領選挙に立候補。保守層や勤労世帯を中心に支持を集め、同年5月6日の決選投票で社会党ロワイヤル候補を下し、大統領に当選する。同月16日、第23代大統領に就任。

大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機マルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない」と反論した。

上記の豪遊では批判されるも、旧植民地マグレブ出身の法務職員であったラシダ・ダティの法相への抜擢や、セネガル出身の黒人女性の副官房長への抜擢、野党である社会党出身の政治家の大臣への登用(エリック・ベッソンベルナール・クシュネル)など、これまでのフランスでは考えられなかった画期的な人事を行った。法務省では次官級の幹部が総辞職してこれの妨害に動くという事態となったが、閉鎖的なフランス国内に風穴を開ける革命的なことであると北米のメディアに評されている。国民からの支持率も高く、70パーセント台を記録した。2007年6月に行われたフランスの国民議会選挙では彼の率いる与党・国民運動連合(UMP)が地滑り的勝利を収め、日本の週刊誌エコノミストはフランス版小泉純一郎と彼を評した。

同年10月、フランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示した。与党・国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明したが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼んだ。野党社会党のビアンコ議員は「多くの国民が月末に出費をやりくりしているご時世にいかがなものか」と批判した。

2012年フランス大統領選挙に出馬したが、決選投票にて社会党のフランソワ・オランドの前に敗北を喫し、2012年5月15日を以て第23代大統領を退任した。

大統領退任後

大統領退任後は、政界から離れ、国際会議に出席したり、家族との時間を増やすなど悠々自適の生活を送る一方、2017年に行われる大統領選挙への出馬を示唆するなど復帰への意欲は隠さなかった[2]

2013年3月21日、2007年の大統領選挙の時、女性富豪から違法に献金を受け取っていたとされる疑惑で、ボルドーの捜査当局はサルコジを刑事訴追した[3]。また、2014年7月1日、不正事件の捜査に絡み、フランスの司法当局が事情聴取のために身柄を拘束されている[4]

2014年9月19日には政界復帰を宣言し[5]、11月29日には国民運動連合総裁に選出[6]。翌2015年3月29日に執行された県議会選挙の決選投票ではサルコジ率いるUMPを含む右派連合が大勝した[7]。だが2016年2月16日には検察当局が2012年大統領選挙における不正会計疑惑(後述)のサルコジに対する捜査を開始すると発表し、大統領再選の戦略に暗雲が立ち込めると予測された[8]。それでも7月2日にはUMPから改名した共和党の総裁を辞任すると表明したことは、大統領選挙への準備のためとも言われた[9]

2016年8月22日には正式に2017年大統領選挙編出馬を表明[10]。右派陣営の候補者を目指したが、11月20日に行われた予備選挙の第1回投票では3位となり、決選投票には残れなかった。サルコジは1位となったフランソワ・フィヨン元首相の支持を表明した上で[11]政界撤退を表明した[12]

政治活動に関連した疑惑