バージニア州
Commonwealth of Virginia
バージニア州の旗バージニア州の印
州旗(州章)
州の愛称: 古き領地
The Old Dominion
州のモットー: 専制者は常にこのように
ラテン語: Sic Semper Tyrannis
バージニア州の位置
州都リッチモンド
最大の都市バージニアビーチ
州知事ラルフ・ノーサム英語版
公用語英語
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域
全米第35位
110,786 km²
102,548 km²
8,236 km² (7.4%)
人口2010年
 - 総計
 - 人口密度
全米第12位
8,001,024
78人/km²
合衆国加入
 - 順番
 - 加入年月日

10番目
1788年6月25日
時間帯UTC -5
DST -4
緯度北緯36°32' - 39°28'
経度西経75°15' - 83°41'
東西の幅320 km
南北の長さ690 km
標高
 -最高標高
 -平均標高
 -最低標高

1,746 m
290 m
0 m
略称 (ISO 3166-2:US)US-VA
ウェブサイトバージニア州政府
上院議員マーク・ウォーナー
ティム・ケイン

バージニア州: Commonwealth of Virginia)は、アメリカ合衆国東部、大西洋岸の南部に位置するコモンウェルス)である。2010年国勢調査による人口は8,001,024人だった。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第35位、人口では第12位である。ヴァージニア州とも表記される。

イギリス独立戦争をした13州のうちの一つである。南北戦争では南部連邦側に属し、激戦地となった。

州都リッチモンド市、人口最大都市バージニアビーチ市である。

家庭で話される言語(バージニア州) 2010
英語
  
85.87%
スペイン語
  
6.41%
人種構成(バージニア州) 2010
白人
  
64.8%
黒人
  
19.4%
ヒスパニック
  
7.9%
アジア系
  
5.5%
インディアン
  
0.4%
混血
  
2.9%

歴史

A painting of a young dark-haired Native American woman shielding an Elizabethan era man from execution by a Native American chief. She is bare-chested, and her face is bathed in light from an unknown source. Several Native Americans look on at the scene.
ポカホンタス、バージニア初期家系の多くで先祖とされるインディアンの女性、後生には様々に脚色されて語り継がれた

ジェームズタウン2007年は、ジェームズタウン植民地設立、すなわちバージニアの始まりから400周年を祝った催しだった。この行事では、バージニアの歴史を形作る際に少なからぬ役割を果たしたインディアン、ヨーロッパ人、アフリカ人の貢献に焦点を当てた[1][2]。これらの人々を巻き込む戦争も常に重要だった。フレンチ・インディアン戦争アメリカ独立戦争南北戦争から冷戦テロとの戦いまで、バージニアが舞台になってきた[3] 。歴史上の人物、例えばポカホンタスジョン・スミスジョージ・ワシントンの子供時代などの話や、南北戦争前の奴隷社会におけるプランテーション特権階級を取り巻く話も州の歴史に神話を作り、州のイデオロギーに理論的解釈を与えている[4]

植民地時代

バージニアとなった地域に最初の人類が到着したのは、12,000年以上前と推計されている[5]。5,000年前までに長期的な集落が現れ、西暦900年には農耕が始まっていた。1500年までに、アルゴンキン語族が海岸地域にウェロウォコモコのような町を設立し、「ツェナコマカ」と呼んでいた。他にも西部にはスー語族の人々、北部と南部にはノットウェイ族やメヘリン族などイロコイ語族の人々が住んでいた。1570年以後、アルゴンキン語族は、その交易網に対する他の部族からの脅威に対抗するために、ポウハタン酋長の下に統合された[6]。ポウハタンは小さな部族30以上、集落では150以上を支配下に置き、共通のバージニア・アルゴンキン語を話していた。1607年、海岸地域の人口は13,000人から14,000人になっていた[7]

16世紀にスペインイエズス会などヨーロッパ人遠征隊が幾つか、チェサピーク湾を探検していた。1583年、イングランド女王エリザベス1世が、スペイン領フロリダより北の地域に植民地を建設する権利をウォルター・ローリーに与えた[8]。1584年、ローリーは北アメリカの大西洋岸に遠征隊を派遣した[9]。「バージニア」という名前は「バージン・クイーン」(生涯結婚しなかったエリザベス1世の渾名)に因んでローリーあるいはエリザベス1世が提案した可能性があり、またインディアンの言葉で "Wingandacoa" あるいは名詞 "Wingina" に関係づける説もある[10]。当初この名前はサウスカロライナからメインまで、さらにバミューダ諸島を含む海岸地域全体を指して使われた[11]。この地域の土地に対する権利を認めた1606年憲章により、その領主達が合資会社としてロンドン会社を法人化した。この会社が新世界では初のイングランドによる恒久的開拓地、ジェームズタウンに出資した。イングランド王ジェームズ1世に因むこの開拓地は、1607年5月にクリストファー・ニューポートが設立した[12]。1619年、開拓者はハウス・オブ・バージェシーズと呼ぶ選挙で選ぶ議員の議会を設立して、地域の支配権を強めた。1624年にロンドン会社が破産すると、イギリス王室領としてイギリス王の支配下に入った[13]

A three story red brick colonial style hall and its left and right wings during winter.
ウィリアムズバーグ、1699年から1780年までバージニア植民地の首都だった

植民地初期の生活は危険なものであり、1609年の「飢えの時英語版」や、1622年のインディアンによる虐殺を含むアングロ・ポウハタン戦争などで多くの者が命を落とした。インディアンによる虐殺によって植民地人のインディアン全てに対する否定的な見方が生まれた[14][15]。初期の開拓者6,000人のうち、1624年まで生き残ったのは3,400人に過ぎなかった[16]。しかし、ヨーロッパでタバコに対する需要があったことから、さらに多くの開拓者とその従僕が到着することになった[17]。労働力不足を補うために、バージニアまで運んだ年季奉公者のそれぞれについても、開拓者に土地を与えた[18]アフリカ人労働者が初めて輸入されたのが1619年であり、従僕のジョン・ケーサーに関する1654年の訴訟があった後、奴隷制度が法制化された[19]

労働者階級と支配階級の間に緊張関係が生まれ、また地理的な差があったことから1676年のベイコンの反乱に繋がった。このときまでに過去の者を含めて年季奉公者人口は全体の80%になっていた[20]。大半は植民地のフロンティアから起きた反乱は、インディアンに対する懐柔的な政策にも反対した。植民地人は力と条約でインディアンの土地を取り上げていった。1677年条約などは調印した部族を属国化するものだった。1699年にウィリアムズバーグが植民地首都となり、その前の1693年には、ウィリアム・アンド・メアリー大学が設立された[21]。1747年、バージニア人投機家集団がイギリス王室の後ろ盾を受けてオハイオ会社を設立し、アパラチア山脈より西にあるオハイオ領土における開拓と交易を始めた[22]。その地域をヌーベルフランスの一部として領有権主張していたフランスは、この動きを脅威と捉え、その後に起きたフレンチ・インディアン戦争はヨーロッパにおける七年戦争(1756年-1763年)のアメリカ大陸版となった。バージニア連隊と呼ばれたイギリス領植民地の民兵隊を率いていたのが、当時中佐だったジョージ・ワシントンだった[23]

州昇格

Upper-class middle-aged man dressed in a bright red cloak speaks before an assembly of other angry men. The subject's right hand is raise high in gesture toward the balcony.
パトリック・ヘンリー、植民地議会で印紙法に反対するバージニア決議の提案演説を行っている。1851年に描かれた油絵

フレンチ・インディアン戦争の後でイギリスの議会が植民地に新税を課したことが、植民地では極めて不人気だった。バージニア植民地議会では、代表権の無い課税に反対する声が挙がり、数多い論客の中でもパトリック・ヘンリーリチャード・ヘンリー・リーが反対論を指導した[24]。バージニアは他の植民地と共に1773年にその行動を協調させる動きを始め、翌1774年の大陸会議に代議員を派遣した[25]。1774年に植民地総督が植民地議会を解散させた後、革命派指導者達はバージニア会議を通じて支配を継続した。1776年5月15日、この会議はイギリス帝国からの独立を宣言し、ジョージ・メイソンが起草したバージニア権利章典を採択し、これが新憲法に含まれることになった[26]トーマス・ジェファーソンはメイソンの宣言を受けて全植民地のアメリカ独立宣言を起草した[27]

1775年にアメリカ独立戦争が始まると、ジョージ・ワシントンが大陸軍の指揮官に選出された。戦中に、海岸にあるウィリアムズバーグの位置が、イギリス軍による攻撃を受けやすいことを怖れたジェファーソンの進言で、首都がリッチモンドに移された[28]。1781年、大陸軍とフランス陸海軍の共同作戦で、イギリス軍をバージニア半島に閉じこめた。ヨークタウンの包囲戦ではジョージ・ワシントンとフランス軍ロシャンボー伯爵の軍隊が、イギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の軍隊を破った。1781年10月19日にコーンウォリスが降伏したことで、パリ和平会議に繋がり、植民地の独立を確かなものにした[29]

アメリカ合衆国憲法の起草でもバージニア人が中心になった。1787年にジェームズ・マディソンがバージニア・プランを起草し、1780年には権利章典を書いた[27]。バージニアは1788年6月25日にアメリカ合衆国憲法を批准し、合衆国10番目の州になった。当時奴隷人口が多かったバージニア州は、憲法に盛り込まれた5分の3妥協案により、アメリカ合衆国下院でも最大の議員団を誇った。バージニア州出身のアメリカ合衆国大統領が続いたことで、バージニア朝とも呼ばれ、国内でその重要性を維持した。1790年、バージニア州とメリーランド州が連邦政府に土地を譲渡して、新しい連邦の首都コロンビア地区を形成した。ただし、バージニア州が譲った土地は1846年に返還された[30]。バージニア州は「州の母」とも呼ばれる。1792年にバージニア州から分かれたケンタッキーが州に昇格するなど、幾つかの州が生まれ、またバージニア州生まれの多くの者が西部の開拓者となったからである[31]

南北戦争とその後

フレデリックスバーグのメアリーズハイツ前で休息する北軍兵、1863年5月

奴隷労働力は農業の他にも鉱業や造船業などで利用が高まっていった[32]。1831年のナット・ターナーによる奴隷反乱や、1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃は、奴隷制度プランテーション経済におけるその役割について、深い社会的不満があることを示した。1860年時点で、バージニア州人口のおよそ31%、約50万人が奴隷だった[33]。奴隷制度に関する考え方の違いが南北戦争開戦に繋がった。

サムター要塞の戦いと、エイブラハム・リンカーンによる徴兵要求に続く1861年4月17日、バージニア州はアメリカ合衆国からの脱退を票決した。4月24日にはアメリカ連合国に加盟し、リッチモンドがその首都に選ばれた[31]。1863年に行われたホイーリング会議の後、州北西部の48郡がアメリカ合衆国に留まる道を選択し、バージニア州から分離してウェストバージニア州を結成した。バージニア州出身のロバート・E・リーが1862年に北バージニア軍の指揮官となり、北軍領土に侵略し、最後は全南軍の総司令官となった。この戦中に、第一次第二次のブルランの戦い七日間の戦いチャンセラーズヴィルの戦い、さらに終戦に繋がったアポマトックス・コートハウスの戦いなどがバージニア州で戦われ、戦闘の数は他のどの州よりも多かった[34]。1865年のリッチモンド市陥落の後、首都は短期間ダンビルに移された[35]。1870年、9人委員会の働きにより、バージニア州はアメリカ合衆国に復帰した[36]

戦後のレコンストラクション時代、バージニア州は無料公共教育と参政権、公民権、選挙権の保証を盛り込んだ憲法を採択した[37]。ポピュリストの再編党が包括的な党派連衡を進めていたが、1883年から保守的な白人民主党が政権を握った[38]。民主党は人種差別のジム・クロウ法を通し、1902年にはバージニア憲法を書き直して、人頭税など投票権を制限する手段を入れ、実質的にアフリカ系アメリカ人の大半と多くの貧乏白人から投票権を取り上げた[39]。アフリカ系アメリカ人は政治の世界における代表がいないために、学校は人種分離され、予算もつかず、社会サービスも行き届かなかったが、アフリカ系アメリカ人のコミュニティを作ることはできた[40]

現代

経済の発展がバージニア州を大きく変化させた。1880年、ジェイムズ・アルバート・ボンサックが紙巻きタバコ製造機械を発明し、リッチモンド周辺で新しい大量生産の時代に入った。1886年、鉄道界の大立て者コリス・ポッター・ハンティントンニューポートニューズ造船所を設立し、第一次世界大戦を挟み、1907年から1923年の間に、アメリカ海軍向けに6隻の戦艦を建造した[41]。この戦中にはU-151などドイツ潜水艦が港外の艦船を攻撃している[42]

1926年、ウィリアムズバーグのバートン教区教会牧師W・A・R・グッドウィン博士が、ジョン・ロックフェラーから資金提供を受けて、ウィリアムズバーグ歴史地区にある植民地時代の建造物修復を始めた[43]。このプロジェクトは州内の他のプロジェクトと同様に、世界恐慌第二次世界大戦の荒波と戦わねばならなかったが、コロニアル・ウィリアムズバーグが大きな観光地となるまで工事は続けられた[44]

1951年のファームビルで、「デイビス対プリンスエドワード郡教育委員会事件」訴訟に繋がった学校の人種分離に対し、バーバラ・ローズ・ジョンズによって抗議運動が始められた。この訴訟はリッチモンド生まれのスポッツウッド・ウィリアム・ロビンソンとオリバー・ヒルが起こし、1954年の「ブラウン対教育委員会裁判」と共に、「差別すれども平等」という人種分離原則を排斥した。しかし、1958年、影響力ある人種分離主義者のアメリカ合衆国上院議員ハリー・F・バードとそのバード機構が指導する「大量抵抗」政策の下で、バージニア州は州の資金を受ける地方学校の人種統合を禁止した[45]

1960年代に入ると公民権運動には多くの者が参加した。それは道徳的な力を得て、1964年の公民権法と1965年の選挙権法という全国的な法制化に対する支持を掴んだ。1964年、アメリカ合衆国最高裁判所は、プリンスエドワード郡などに学校の人種統合を命じた[46]。1967年、「ラヴィング対バージニア州裁判」判決でバージニア州が人種間結婚を禁じていたことも撤回させた。1969年から1971年、ミルズ・ゴッドウィン州知事の下の州議会が州憲法を書き換え、ジム・クロウ法の撤廃などの目的が果たされた。1989年、ダグラス・ワイルダーがアフリカ系アメリカ人として国内初の州知事に選出された[47]

冷戦時代を中心に、ワシントンD.C.に近い北部バージニアでは、国防関係に従事する職員が増加し、それに関わる人口も増加した[48]。情報機関である中央情報局は、ラングレーに置かれた。第二次世界大戦中ではあるが、アメリカの国防中枢である戦争省及び海軍省(後に国防総省)の本部としてペンタゴンが建設されている。これは2001年アメリカ同時多発テロ事件の標的となり、旅客機が突入して189人の命が失われた[49]

地理

関連項目:バージニア州の郡一覧w:List of Virginia riversw:Lost Counties, Cities and Towns of Virginiaw:Environment of Virginia

バージニア州の全面積は42,774.2平方マイル (110,785.7 km2)であり、このうち水域は3,180.13平方マイル (8,236.5 km2)、水域率は7.4%である。面積では国内50州の35番目である[50]。バージニア州は、北部でウェストバージニア州メリーランド州ワシントンD.C.ポトマック川を挟んで)に、南部でノースカロライナ州テネシー州に、西部でケンタッキー州とウェストバージニア州に接している。また、東部はチェサピーク湾大西洋に面している。メリーランド州ワシントンD.C.と作る境界はポトマック川南岸の低水位線まで延びている[51]。南側州境は北緯36度30分線と定義されているが、測量の誤りにより3分ほどずれている[52]

バージニア州にはシェナンドー国立公園、グレートフォールズ公園、アパラチアン・トレイルなど、国立公園局が管理する30の公園がある[53]。シェナンドー国立公園は1935年に指定され、景観の良いスカイライン・ドライブが伸びている。公園面積78,579エーカー (322 km2) の約40%が全国原生林保存体系に指定される原生林である[54]。国立公園局が管理するすべての一覧はList of areas in the National Park System of the United States in Virginiaである。さらにバージニア州保存レクリエーション省と森林省が管理する34の州立公園と17の州有林がある[55][56]チェサピーク湾は国立公園ではないが、州法と連邦法で保護され、湾と水域を再生するチェサピーク湾プログラムを共同で実行している。グレート・ディズマル湿地国立野生生物保護区はノースカロライナ州まで広がり、またバック湾国立野生生物保護区はアウターバンクスの始まりとなっている[57]

バージニア州立公園:List of Virginia state parks

地質と地形

Terrain map of Virginia divided with lines into five regions. The first region on the far left is small and only in the state's panhandle. The next is larger and covers most of the western part of the state. The next is a thin strip that covers only the mountains. The next is a wide area in the middle of the state. The left most is based on the rivers which diffuse the previous region.
バージニア州は5つの地理的地域に区分される

チェサピーク湾によって西側のバージニア州本土と東岸の2郡がある半島部に分けられている。この湾は始新世小惑星が衝突したことによって形成されたチェサピーク湾クレーターによって造られた[58]。ポトマック川、ラッパハノック川、ヨーク川ジェームズ川など多くの河川がチェサピーク湾に流れ込み、湾に向かって3つの大きな半島を形成している[59][60]。地形と地質により、バージニア州は東から西に5つの地理的地域に区分される。すなわち、海岸部英語版ピードモント台地ブルーリッジ山脈リッジ・アンド・バレー地域英語版カンバーランド高原である[61]

海岸部は大西洋岸と滝線の間の海岸平原である。チェサピーク湾の東岸と主要入り江を含んでいる。ピードモント台地は中生代に形成された山脈の堆積岩火成岩からなる東丘陵部である[62]。この地域はサウスウェスト山地など粘土層が多いことで知られる[63]。ブルーリッジ山脈はアパラチア山脈の連なりの1つであり、標高 5,729 フィート (1,746 m) のロジャース山が州内最高地点である[64]。リッジ・アンド・バレー地域がこの山脈の西にあり、グレート・アパラチアン・バレー英語版が含まれる。この地域は炭酸塩岩が基盤でありマサヌッテン山英語版がある[65]。カンバーランド高原とカンバーランド山地英語版が州南西隅にあり、アルゲイニー台地の下にある。この地域では川が北西に流れ、オハイオ川まで樹木が枝を張るような水路体系を作っている[66]

Green tree covered mountains turn blue as the progress toward the horizon.
ブルーリッジ山脈、落葉樹と常緑樹が特徴ある色模様を作っている[67]

州内の炭酸塩岩が4,000以上の洞窟となり、そのうち10か所が観光用に公開されている[68]。バージニア地震帯は定期的に活動した記録がない。北アメリカプレートの端部から離れているためにマグニチュード4.5を超える地震は希である。これまで最大の地震は、1897年ブラックスバーグ近くで発生した推計マグニチュード5.9のものである[69]。2011年8月23日、ミネラルの近くでマグニチュード5.8の地震が発生した。この地震はカナダトロントでも震動が観測されたとのことである[70]。中新世の盆地に近い3つの山脈40の鉱床で石炭の採掘が行われている[71]。その他粘板岩藍晶石、砂、砂利が採掘され、その売り上げは年間20億米ドル近くになっている[72]

気候

バージニア州の平均的な気候
雨温図説明
123456789101112
 
 
3.1
 
46
26
 
 
3.1
 
48
27
 
 
3.7
 
57
34
 
 
3.3
 
67
43
 
 
4
 
76
52
 
 
3.7
 
83
60
 
 
4.3
 
86
64
 
 
4.1
 
85
63
 
 
3.5
 
79
57
 
 
3.4
 
69
45
 
 
3.2
 
58
35
 
 
3.2
 
48
28
気温(°F
総降水量(in)
出典:University of Virginia data 1895–1998

バージニア州の気候は南部と東部に行くとより暖かく湿度が高くなる傾向にある[73]。1月の平均最高気温は26°F (-3 ℃)、7月の平均最高気温は86°F (30 ℃)と変化している。東部と南東部海岸地域には大西洋が強い影響を与えている。メキシコ湾流の影響を受けて、海岸部にはハリケーンが襲来することがあり、特にチェサピーク湾口は顕著である[74]

雷雨は年間平均で35日ないし45日発生しており、特に西部で多い[75]。年間平均降水量は42.7インチ (1,080 mm) である[74]。冬季に山岳部に達する冷気団がかなりの量の雪を降らせることがあり、1996年の吹雪や、2009年から2010年に掛けての暴風雪が発生した。これらの要素とバージニア州の地形的要素が組み合わされ、シェナンドー・バレー、山岳部南西および海岸平原では微気候が発生する[76]竜巻の年間平均発生数は7個であり、大半は藤田スケールでF2以下である[77]

近年、ワシントンD.C.南側の郊外部が北バージニアに伸びてきて、人口密度の高い地域に太陽の放射熱を多く吸収するようになり、都市ヒートアイランド現象が増えてきた[78]。アメリカ肺学会の2011年報告書では、州内11の郡が大気質の基準に劣り、特にフェアファックス郡は自動車の排ガス汚染により最悪であるとしていた[79][80]。山岳部の煙霧は石炭火力発電所が一部原因になっている[81]

植物相と動物相

州領域の65%を森林が覆っており、その多くは落葉生広葉樹である[55]。標高が低くなると、アメリカツガや苔など湿度を好む小さいが密生した群落が現れ、ブルーリッジ山脈にはヒッコリーやオークが自生している[73]。しかし1990年代初期からマイマイガの発生で、オークが多い森が影響を受けている[82]。低地海岸部ではキイロ松が支配的であり、グレート・ディズマル湿地やノットウェイ湿地ではヌマスギの森がある。その他よく見られる樹種や植物としては、クリカエデユリノキ、アメリカシャクナゲ、トウワタ、デイジー、多種のシダがある。大西洋岸や西部山岳地には広い原生林があり、エンレイソウの大群落が見られる[73][83]。大西洋岸には南大西洋に多い松林や南東海岸平原にある海洋性植物が見られ、海洋性植物は特に州南東部に多い。

Two red-brown colored deer graze among yellow flowers in a meadow.
オジロジカ、バージニアシカとも呼ばれる。シェナンドー国立公園タナーリッジ群れ

哺乳類としてはオジロジカ、クロクマビーバーボブキャットコヨーテアライグマスカンクウッドチャックキタオポッサムハイイロギツネアカギツネ、ヒガシワタオウサギがいる[84]。鳥類には、ショウジョウコウカンチョウアメリカフクロウ、カロライナ・アメリカゴガラ、アカオノスリミサゴカッショクペリカンウズラカモメハクトウワシ、野生シチメンチョウがいる。1990年代半ばにシェナンドー国立公園でハヤブサが再導入された[85]。淡水魚では、ウォールアイカワマス、ロアノーク・バス、ブルーナマズなど210種が知られている[86]。底に岩の多い小川には数多いザリガニやサンショウウオが住んでいる[73]。チェサピーク湾にはブルークラブ、ハマグリカキ、シマスズキなど多くの種が見られる[87]

人口動勢

人口
1790691,737
1800807,55716.7%
1810877,6838.7%
1820938,2616.9%
18301,044,05411.3%
18401,025,227−1.8%
18501,119,3489.2%
18601,219,6309.0%
18701,225,1630.5%
18801,512,56523.5%
18901,655,9809.5%
19001,854,18412.0%
19102,061,61211.2%
19202,309,18712.0%
19302,421,8514.9%
19402,677,77310.6%
19503,318,68023.9%
19603,966,94919.5%
19704,648,49417.2%
19805,346,81815.0%
19906,187,35815.7%
20007,078,51514.4%
20108,001,02413.0%
2012(推計)8,185,8672.3%
Source: 1910–2010[88]
A map of Virginia with areas colored in green for low population changing to red for areas of high population. The most red areas are in the very north of the state, the center of the state, and the very south-east of the state. The rest is mostly green.
バージニア州の人口密度図、都市圏が州全体に散らばっている

アメリカ合衆国国勢調査局による2012年7月1日時点のバージニア州の推計人口は8,185,867人となっており[89]、2010年国勢調査の8,001,024人から2.3%成長していた[90]。2000年国勢調査時点からは州内への移住者が314,832人増えている。その内訳として国外からの移民は159,627人、国内からの移住者が155,205人増えた[91]。バージニア州の人口重心はリッチモンド市郊外のグーチランド郡となっている[92]

バージニア州の公式言語として1981年と1996年の2度州法に英語が規定された。ただしバージニア憲法では規定されていない[93]。英語は6,245,517人、州人口の86.7%が話しているに過ぎず、「大変良く」話す人 570,638人、7.9%を加えて94.6%となる。他の言語ではスペイン語が424,381人、5.9%となっている。アジア・太平洋地域の言語は全体で226,911人、3.2%であり、朝鮮語ベトナム語フィリピン語が多い[94]。 2006年現在、バージニア州の940,899人(人口の8.14%)はアメリカ合衆国外で生まれ、99,104人は他の州で生まれた。

人種的構成及び祖先

人種的構成では非ヒスパニック白人が最も多いが、1990年の76%から2011年の64.5%まで減少してきた[95][96]。2011年の出生数における比率では50.9%しかなかった[97]

植民地時代に州内全域にイングランド系の人々が入植し、その後もイギリスの他地域やアイルランドからの移民があった[98]。国勢調査でアメリカ人と申告した者の多くはイングランド系の子孫だが、北アメリカに来てから数世代を経ているために、単純にアメリカ人と回答することを選んだ[99][100]。1600年代にバージニアに来たイングランド系移民の75%は年季奉公として来ていた[101]。州西部の山岳地には独立戦争の前に、スコットランド・アイルランド系移民が設立した多くの開拓地があった[102][103]。北西部山岳地とシェナンドー・バレーには少なからぬドイツ系の子孫がおり、2010年のアメリカン・コミュニティ・サーベイでは、11.7%と最も多い回答だった[104]

バージニア州で白人の次に多い少数人種はアフリカ系アメリカ人であり、2011年時点で19.8%だった[96]。大半のアフリカ系アメリカ人はタバコ、綿花、麻のプランテーションで働いた奴隷の子孫である。これらの祖先は主にアンゴラやバイト・オブ・ビアフラなどアフリカ西中部から連れてこられた。現在のナイジェリア南部にいるイグボ族が、バージニア州の奴隷では最大の民族集団だった[105][106]アフリカ系アメリカ人の大移動時代に人口を減らしたが、1965年からは南部に戻ってきている人々がいる[107]。バージニア人の2.9%は二人種混血と申告している[108]。また0.5%はインディアンまたはアラスカ先住民の子孫、0.1%はハワイなど太平洋諸島系としている[96]。バージニア州はインディアンの8部族を認定しているが、連邦政府はどれも認定していない。インディアンの大半は海岸部に住んでいる[109]

20世紀終盤から21世紀初期の移民によってヒスパニック系やアジア人の新しい社会が増えてきた。2011年時点で州人口の8.2%はヒスパニック系あるいはラテン系(人種は問わない)であり、5.8%がアジア系である[96]。ヒスパニック系人口は2000年から2010年の間に92%増加し、その3分の2は北バージニアに住んでいる[108]。ヒスパニック系州民は一般の州民に比べて世帯当たり収入の中央値と学歴が高い傾向にある[110]。北バージニアには、ベトナム戦争後に大きな移民の波となったベトナム系の人々が多い[111]。また朝鮮系アメリカ人は近年増加しており、質の高い教育体系を求めてきている[112]。フィリピン系アメリカ人はハンプトン・ローズ地域に45,000人が住み、その多くはアメリカ海軍など軍隊関係と結びついている[113]

人種 (2011)   郡単位で構成比の高い祖先 祖先 (2010)
非ヒスパニック白人 64.5% Virginia counties colored either red, blue, yellow, green, or purple based on the populations most common ancestry. The south-east is predominately purple for African American, while the west is mostly red for American. The north has yellow for German, with two small areas green for Irish. Yellow is also found in spots in the west. A strip in the middle is blue for English.
アメリカン・コミュニティ・サーベイ5年間推計、地図とデータはAmerican Factfinder提供
 
ドイツ系 11.7%
アフリカ系アメリカ人 19.8%
 
イングランド系 10.7%
ヒスパニック系 8.2%
 
アイルランド系 9.8%
アジア系 5.8%
 
アメリカ人 9.7%
インディアン 0.5%
 
サハラ以南のアフリカ 1.7%

バージニア州の人口の6.5%は5歳以下、24.6%が18歳以下と報告され、11.2%が65歳以上である。女性は人口のおよそ51%である。

宗教

バージニア州の住民の信仰宗教別構成は以下の通りである。 近年、アメリカの政局に影響を与えている福音派の発祥地である。

宗教 (2008)
キリスト教[114] 76%
バプテスト 27%
カトリック教会  11%
メソジスト 8%
ルーテル教会 2%
その他のキリスト教 28%
仏教 1%
ヒンドゥー教 1%
ユダヤ教 1%
イスラム教 0.5%
無宗教 18%

バージニア州民の信仰する宗教は圧倒的にキリスト教プロテスタントである。バプテストが2008年時点で人口の27%と最大会派である[114]。バージニア州におけるバプテストには、約1,400の会員教会があるバプテスト・ジェネラル・アソシエーション・オブ・バージニアがあり、南部バプテスト連盟と近代のコーオペラティブ・バプテスト・フェローシップの双方を支持している。500以上の会員教会があるサザン・バプティスト・コンサアーバティブズ・オブ・バージニアは南部バプテスト連盟を支持している[115][116]ローマ・カトリック教が2番目に信徒の多い会派であり、1990年代に最も会員を増やした[117][118]。カトリック教会アーリントン教区には北バージニアの大半のカトリック教会を含み、リッチモンド教区には州内の残りの教会が含まれている。

An 18th-century red brick church with white steeple behind a modern road in autumn.
アレキサンドリアのクライスト・チャーチ、ジョージ・ワシントンやロバート・E・リーが度々訪れた

バージニア・カンファレンスは、ユナイテッド・メソジスト教会とバージニア会議が毎年開催する地域会議体であり、ルーテル教会の信徒に対する責任がある。長老派教会ペンテコスタル会衆派教会、エピスコパル教会は2001年時点で、それぞれ1ないし3%の人口比率だった[119]。エピスコパル教会バージニア教区、南部バージニア教区、南西部バージニア教区は様々なエピスコパル教会を支持している。

2006年11月、15の保守的エピスコパル教会がバージニア教区を分割することを投票で決めた。これはゲイであることを公開した司祭や他のエピスコパル教会教区の牧師に関する問題の整理の意味があった。これらの教会はアメリカ合衆国外の団体を通じてアングリカン・コミュニオンに属していることを主張し続けている。バージニア州法では教区民がその教会の所属先を決めることを認めているが、教区は分離した教会の資産について権利主張している。その結果起きた資産に関する訴訟は、全国的なエピスコパル教会にとって試練となった[120]

その他の宗教では末日聖徒イエス・キリスト教会が、2010年時点で州内に人口の1%、190の信徒団を抱えている[121]。フェアファックスステーションには、浄土真宗の恵光寺仏教寺院があり、またヒンドゥー教ドゥルガー寺院もある。州内のユダヤ人人口は少数だが、1789年にはコングリゲーション・ベス・アハバというユダヤ教の組織を作っていた[122]。イスラム教は移民の数が増えるに連れて州内の信徒数を増やしている[123]。州内の巨大教会にはトマス・ロード・バプテスト教会、イマヌエル・バイブル教会、マクリーン・バイブル教会がある[124]。リージェント大学、リバティ大学、リンチバーグ・カレッジなど、キリスト教系の大学もある。

インディアン部族

バージニア州周辺の、かつてのインディアン部族の勢力図

チェロキー族マナホアク族メヘリン族モナカン族ナヒッサン族ノットウェイ族オッカネーチ族ポウハタン族サポニ族シャコリ族ショーニー族ツテロ族などのインディアン部族が、ウィグワムの集落を築き、狩猟採集生活を営んだ。

現在、この州のインディアン部族は「州はインディアン部族として認めている」が、「アメリカ連邦政府は認めていない」部族ばかりで占められている。他の部族は「絶滅部族」として部族としては存在しないことになっており、多数の部族が引き続きアメリカ連邦の公式承認を要求している。

2009年10月22日、バージニア州の「チッカホミニー族」、「東部チッカホミニー族」、「北マッタポニ族」、「ラッパハンノック族」、「モナカン族」、「ナンセモンド族」のインディアン6部族に対し、アメリカ連邦政府の上院インディアン事務委員会は連邦公認のための手続きに入った。公認申請書は既に下院を通過し、連邦信託による彼らの保留地再獲得などに8億ドルの連邦予算が見込まれている。一方で、今回の手続きには「インディアン・カジノ」の開設権は認められておらず、他州の既に連邦公認されたインディアン部族の間で、その影響が懸念されている。

バージニア州の「人種保全法」下では、1924年から1967年まで、白人の先祖を持たない彼ら連邦公認を解消された「絶滅部族」は、出生証明書に「色つき(colored)」と記載されていた。

≪アメリカ連邦政府に公認される見込みのインディアン部族≫

≪アメリカ連邦政府は公認していないが、バージニア州政府が公認している部族≫

≪アメリカ連邦政府も州政府も認定していないインディアン部族≫