ブラジル連邦共和国
República Federativa do Brasil
ブラジルの国旗 ブラジルの国章
国旗 国章
国の標語:Ordem e Progresso
ポルトガル語: 秩序と進歩)
国歌Hino Nacional Brasileiro(ポルトガル語)
ブラジルの国歌
ブラジルの位置
公用語 ポルトガル語[注記 1]

ブラジル手話語

首都 ブラジリア
最大の都市 サンパウロ
政府
大統領 ミシェル・テメル
首相 なし
面積
総計 851万2,000[1]km25位
水面積率 0.7%
人口
総計(2012年 約2億768万人(5位
人口密度 24.8人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 4兆8,448億[2]レアル
GDP (MER)
合計(2013年 2兆2,460億[2]ドル(7位
GDP (PPP)
合計(2013年3兆129億[2]ドル(7位
1人あたり 14,987[2]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ポルトガルから
1822年9月7日
1825年8月29日
通貨 レアル (BRL)
時間帯 UTC (-2 ~ -5)(DST:脚注を参照[注記 2]
ISO 3166-1 BR / BRA
ccTLD .br
国際電話番号 55
  1. ^ 実際に用いられているのは方言のブラジルポルトガル語である。
  2. ^ なお、一部の州で夏時間を導入している。

ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく、ポルトガル語: República Federativa do Brasil)、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を占め、ウルグアイアルゼンチンパラグアイボリビアペルーコロンビアベネズエラガイアナスリナムフランス領ギアナ(つまりチリエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、サンペドロ・サンパウロ群島もブラジル領に属する。その国土面積は日本の22.5倍で[1]アメリカ合衆国よりは約110万km2小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きく、インドパキスタンバングラデシュの三国を合わせた面積の約2倍に相当する。首都はブラジリア

南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。公用語はポルトガル語ではあるがスペイン語も比較的通じる。ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で7番目の経済規模でもある。

ブラジルは北部は赤道直下で、全体的に海流等の影響もあり気候は大変温暖であり、中南米最多の人口と経済規模である[3]

国名

ブラジルの人口分布図(2000年)

正式名称はポルトガル語で、República Federativa do Brasilヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ)。IPAでは、[xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw] Pt-br-República Federativa do Brasil.ogg 聞く[ヘルプ/ファイル]。通称 Brasilブラズィウ)。

公式の英語表記は Federative Republic of Brazilフェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィル)。通称Brazilブラズィル)。 ポルトガル語では “Brasil” と綴られるが、英語では “Brazil” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasília と表記される。

日本語の表記はブラジル連邦共和国。通称ブラジル漢字表記では伯剌西爾となり、と略される。ただし中国においては巴西(バーシー)という中国名がある。1822年ブラジル帝国として独立し、1889年の共和革命以降はブラジル合衆共和国を国名としていたが、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名された。

その後あまりにもキリスト教的すぎる名前への反発や、ポルトガル人がこの地方でヨーロッパで染料に用いられていたブラジルスオウに似た木を発見すると、それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「パウ・ブラジル」と呼ぶようになり、ブラジルの木のポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀中にこの地はブラジルと呼ばれるようになった。

「ブラジル」という読みはポルトガル本国などで使われるイベリア・ポルトガル語での発音であり、ブラジル・ポルトガル語での発音に最も近いカタカナ表記は「ブラズィウ」である。

歴史

先コロンブス期

ブラジルのインディオ

ブラジルの最初の住民は、紀元前11,000年[4]ベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年頃、現在のブラジルの領域に到達した[5]。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる、原始的な農耕を営むトゥピ族英語版グアラニー族アラワク族系の人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。

ポルトガル植民地時代

ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル。
植民地時代初期の地図。

1492年クリストーバル・コロンヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。

1500年ポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリコ・ヴェスプッチリオデジャネイロ(1月の川)を命名。

ポルトガル人が最初に接触したのは、古トゥピ語英語版グアラニー語などを含むトゥピ語族を話す先住民であった。トゥピ語族の他にもブラジル先住民には、ジェー語族英語版アラワク語族(ヌ=アルアーク語族とも)・カリブ語族を話す集団があったが、ポルトガル人は古トゥピ語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、他の先住民はそれぞれ部族の言葉をもっているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教え、リングワ・フランカ(一種の共通語)のリンガ・ジェラールリンガ・ジェラール・パウリスタリンガ・ジェラール・アマゾニカ)が形成された。それは信仰も同様として仕向けられた[6]

初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主な産業となり、このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザ英語版サルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。

1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受け、北東部英語版の一部がネーデルラント連邦共和国オランダ)に占領され、オランダ領ブラジル英語版となった。1661年、ハーグ講和条約が締結され、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルのポルトガル領アンゴラ英語版(現アンゴラ)領有を認めると共にオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。

一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ英語版(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された後、インディオの数が足りなくなると西アフリカアンゴラモザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。

「全人種の黒き指導者」パルマーレスのズンビの胸像。

ブラジル内陸部の探検は、サンパウロバンデイランテス(奴隷狩りの探検隊)により、17世紀に始まった。バンデイランテスは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部英語版パラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねたマルーン(逃亡奴隷)の中には奥地にキロンボ英語版(逃亡奴隷集落)を築くものもあり、その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレスポルトガル語版パルマーレスのズンビによって指導されたが、1695年パルマーレスの戦いポルトガル語版でバンデイランテスによって征服され消滅した。

一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデジーリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設したため、以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部英語版ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショスペイン語ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。

その後、18世紀にはミナスジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部英語版から南東部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは独自のバロック文化が栄えた。

ミナスの陰謀。このブラジル初の独立運動では、首謀者の内最も身分の低かったチラデンテスのみが処刑された。

バンダ・オリエンタルを巡るスペインとの衝突の後、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命アメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が密告によって発覚し、首謀者のうち最も身分の低かったチラデンテスが全ての罪をかぶせられ処刑された。

その後、ハイチ革命の影響もあってクレオール[要曖昧さ回避]白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進むが、植民地時代にブラジルに大学が設立されなかったなど知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。

黄金法(1888年)。

ブラジルの独立

ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ。独立派のブラジル人ブルジョワジーを代表してペドロを擁立した。

ナポレオン戦争により、1807年ジャン=アンドシュ・ジュノーに率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。ポルトガル政府はバンダ・オリエンタル・ド・ウルグアイ: Banda Oriental do Uruguai)のホセ・アルティーガス英語版率いる連邦同盟: Liga dos Povos Livres1815年1820年)との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請し、1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還した。

一方、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペドロがジョゼ・ボニファシオに代表されるブラジル人ブルジョワジー勢力に支持され、1822年2月18日ブラジル独立戦争ポルトガル語版が勃発した。1822年9月7日に「イピランガの叫び」(: Grito do Ipiranga)と呼ばれる独立宣言が行なわれ、ペドロが初代皇帝ペドロ1世(在位1823-1831)として即位し、ブラジル帝国はポルトガルから独立した。[7]

帝政時代

ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者シモン・ボリバルホセ・デ・サン=マルティンミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかった。イスパノアメリカ諸国が分裂したのとは異なり、広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していた。

このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制を求める自由主義者の反乱が勃発し、1820年代には北東部のペルナンブッコ州では赤道連盟の反乱英語版が、最南部のシスプラチナ州では東方州リオ・デ・ラ・プラタ連合州復帰を求めた33人の東方人の潜入により、シスプラチナ州を巡ってシスプラティーナ戦争が勃発した。シスプラチナ州はイギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国として独立した。

1831年にペドロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州では牧場主とガウーショファラーポス戦争英語版: Guerra dos FarraposRevolução Farroupilha - 「ファロウピーリャの反乱」とも)を起こした。

『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』
ホセ・イグナシオ・ガルメンディアスペイン語版画。

1840年にペドロ2世が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年プライエイラ革命英語版: Insurreição Praieira - 「プライエイラの反乱」とも)を鎮圧した後、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争: Guerra do Paraguai西: Guerra de la Triple Alianza - 「三国同盟戦争」とも)が勃発したが、カシアス公英語版率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。

一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コント実証主義の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(: Tenentes - 「テネンテス英語版」)達は実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年5月13日黄金法英語版: Lei Áurea)が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペドロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持をも失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。

旧共和国時代

共和制革命後4日間だけ用いられたブラジル合衆国の国旗。

1889年の共和制革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行した。この時期には カフェ・コン・レイテと呼ばれるサン・パウロ州ミナス・ジェライス州で相互に大統領を選出する慣行が生まれた。バイーア州カヌードスポルトガル語版英語版Jagunçoによるカヌードス戦争ポルトガル語版英語版1896年 - 1896年)が勃発。これにともなう通貨下落を政府はロスチャイルドから借り入れて切り抜けた。また、帝政時代からコーヒー・プランテーションでの労働力確保のためにヨーロッパよりイタリア人ポルトガル人スペイン人ドイツ人をはじめとする移民を受け入れていたが、奴隷制廃止後はさらに移民の流入速度が速まり、1908年にはヨーロッパのみならずアジアからも笠戸丸日本人移民が導入された。

第一次世界大戦協商国側で参戦した後、1920年代にはカフェ・コン・レイテ体制への批判が高まり、ルイス・カルロス・プレステスポルトガル語版をはじめとするテネンテス(青年将校達)によるテネンテ革命英語版が各地で起こった。このテネンチズモポルトガル語版は直接は国政に大きな影響を与えなかったが、間接的に1930年代の政治状況を用意することになった。

ヴァルガス時代

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス。15年に亘るヴァルガス時代の間に現在のブラジルが形作られた。

1930年にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス1930年革命ポルトガル語版を起こし、独裁政治を確立しようとした。1932年にはサン・パウロ州の反ヴァルガス勢力によって護憲革命英語版: Revolução Constitucionalista de 1932)が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリアファシズムに影響を受けたエスタード・ノーヴォポルトガル語版体制を確立し、11月10日に新憲法を公布、12月2日に発布した[8]。ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。

1942年8月22日にヴァルガスは第二次世界大戦連合国の一員としてイタリア戦線に宣戦布告、参戦したが、独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日に軍事クーデターによって失脚した。

ポプリズモ時代

ブラジリア大聖堂。

1946年9月18日に新憲法が制定された後、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任した。二度目のヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進められたが、軍の抵抗に遭ってヴァルガスは1954年に自殺した。

1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリアを建設し、1960年リオデジャネイロから遷都した。しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレが加速した。

1961年に就任したジョアン・ゴラールポルトガル語版(通称・ジャンゴ)大統領(任期:1961年-1964年)はこのような困難な状況を乗り切ることが出来なかった。

軍事独裁政権時代

1964年アメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍は、クーデター英語版によってジョアン・ゴラールを失脚させ、軍事独裁体制を確立すると、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された(コンドル作戦en)。この軍政の時代に「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現したが、1973年のオイルショック後に経済成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇した。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。この間、各地でカルロス・マリゲーラ民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動など都市ゲリラが武装闘争を展開し、外国大使の誘拐やハイジャックが複数にわたって発生した。

1974年に将軍から大統領に就任したエルネスト・ガイゼウポルトガル語版は国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に就任したジョアン・フィゲイレードポルトガル語版大統領は民政移管を公約した。1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェスが勝利した。

民政移管以降

労働者党ルーラ元大統領と夫人。

1985年に民政移管が実現し、文民政権が復活したが、ネーヴェスが急死したために副大統領だったジョゼー・サルネイが大統領に昇格した。サルネイ政権下ではインフレの拡大によりブラジル経済は悪化し、内政では大きな成果を残せなかったが、外交ではアルゼンチンのラウル・アルフォンシン政権との関係がこの時期に大きく改善し、長らく続いた両国の敵対関係に終止符が打たれた。

1990年には国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任したが経済問題に対処できず、数々の汚職や様々な奇行のために1992年に罷免された。コーロル大統領の失脚後、副大統領のイタマール・フランコが大統領に昇格した。

1995年にブラジル社会民主党から就任したフェルナンド・エンリッケ・カルドーゾ政権下でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイにより、同年一月にメルコスール(メルコスウと発音、南米南部共同市場)が発足し、市場中心主義、緊縮政策・新自由主義を推し進めたが汚職や腐敗が深刻化し、格差の拡大をもたらした。

2003年には前政権までの貧困・格差の拡大に反発する形で労働者党からルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任し、ブラジル発の本格的な左派政権となり、これまで前政権時代に推し進められていた市場中心主義、新自由主義政策を改め、富の再分配を重視し貧困撲滅政策を実行。外交面では新興国との関係を重視した。資源価格の高騰や新興国経済の好調に伴ってブラジル史上屈指の好景気となり、貧困撲滅と中間層誕生をもたらしたことで国民の支持を集めた。また、ワールドカップ五輪の招致に成功した。

2010年10月、ルーラ大統領の任期満了に伴い大統領選挙が行われ、好調な経済の後押しを受けて与党労働者党ジルマ・ルセフ官房長官が当選、ルセフ氏は2011年1月に大統領に就任した。だが、その後新興国経済の失速と資源価格の低迷から景気が低迷し支持率は急落、2013年反政府デモが起きるも2014年の大統領選挙では決選投票で中道右派ブラジル社会民主党アエシオ・ネベス氏に勝利し再選を果たした。しかし、2016年にはルセフ大統領が弾劾裁判を受け、ブラジル検察はブラジル屈指の人気を誇ったルーラ元大統領を汚職疑惑により強制捜査し、労働者党ブラジル民主運動党による連立政権が崩壊するなど政権基盤は急速に失速し政治的な混乱が続いた。

2016年5月12日、ブラジル議会上院はルセフ大統領に対する弾劾法廷の設置を賛成多数で決定し、ルセフ大統領の職務を停止させた。ルセフ大統領の職務が停止される間、ブラジル民主運動党ミシェル・テメル副大統領が大統領代行を務めることになった[9]。テメル大統領代行は労働党閣僚を排除し、最大野党の中道右派社会民主党の閣僚を抜擢し実質的に13年ぶりの政権交代となった。親米緊縮財政政策を取り、国営企業民営化公務員や社会保障削減等のウォール街を初めとした国際金融市場が求める政策の実行を表明するなどカルドソ政権時代の新自由主義政策への回帰となった[10]。しかしこのような選挙を行わない強引な手法による政権交代は事実上のクーデターであると反発する国民も少なくなく[11]、与野党問わず汚職も蔓延しており政治的には混乱期に突入している。

そして、テメル大統領自身も収賄罪で起訴されるなど[12]、ルセフ前大統領に続いて弾劾を求める動きが活発化している[13]。このように、有力政治家が汚職の相次いで捜査対処になり、ブラジルの政治は大混乱期を迎え国民の信頼を完全になくしている。

政治

国民会議議事堂
大統領官邸

大統領制を敷き、大統領を元首とする連邦共和制国家である。大統領および副大統領の任期は4年で、一度限りにおいて再選が認められている。つまり、3選は憲法で禁止されている。大統領は国会により弾劾されることが可能である。議会は上院(元老院、定数81)・下院(代議院、定数513)の二院制である。

現在はミシェル・テメル大統領(2016年8月31日就任)。現行憲法は1988年憲法である。

東西冷戦期の1964年から1985年まで親西側の軍事政権下にあった。軍事政権下の当時から現在にいたるまで、官僚や政治家、警察の腐敗や汚職が広まったままである。

政党

労働者党(PT)、ブラジル民主運動党(PMDB)、社会大衆党(PPS)、ブラジル社会民主党(PSDB)などがある。

投票権

投票は18歳から70歳までの読み書きができる全ての国民に義務付けられている(義務投票制)。希望すれば16歳以上、もしくは70歳を超える国民や読み書きのできない国民も投票することができる。

政権

2003年1月にルーラ政権が発足した。元労働組合の指導者だったルーラ大統領は「飢餓ゼロ」計画を打ち上げ、貧困家庭向けの食料援助や援助金制度などを推進した。貧困家庭の生活水準改善を着実に進め、経済発展に取り残されていた内陸部へのインフラ整備も進みつつある。外交面では、南米統合へのリーダーシップも発揮した。2006年6月24日にルーラ大統領は政権与党の労働党の全国大会で大統領候補指名を受託し、10月の大統領選挙で貧困層の圧倒的な支持を得て再選した。

ルーラ政権下では2014 FIFAワールドカップブラジル大会やリオ・デ・ジャネイロオリンピック2016年)という二大スポーツイベントの招致に成功し、開催へ向けての準備が始まっていた。

2011年1月1日からは労働者党出身のジルマ・ルセフ新政権が発足し、ルーラ前大統領の政策を受け継いでいたが2016年5月12日以降はミシェル・テメル副大統領が大統領代行を務めている。

治安

ブラジルの治安は非常に悪く、単なる一般犯罪でもほとんどはが使用され殺人事件に発展することも多い。大都市、地方都市を問わず殺人を始め犯罪は頻発している[14]。人口10万人あたりの犯罪発生率は日本の数十倍から数百倍であり、2012年の統計では殺人は日本の34倍、強盗は約315倍となっている[15]。2011~15年の4年間にブラジルでは28万人近くが殺害されたと言われる。人口が10倍近く異なるため、単純比較は出来ないが、これはシリア人権監視団が発表している同期間中のシリア内戦の犠牲者数(25万6124人)を超えている[16]

とりわけ貧民街は凶悪犯罪の温床となっている。これらの地域では麻薬密売組織の抗争や治安当局の介入により銃撃戦が昼夜問わず日常的になっており、多くの市民が巻き込まれて命を落としている[17]

ブラジルの警察は時にストライキを起こすことがあり、その間は凶悪犯罪も多発する[18]。日本の外務省はブラジルの多くの主要地域に対して「十分注意」の危険情報を発している[19]

軍事

1889年の共和制革命で主要な役割を果たしたことが主な理由となって軍は伝統的に政治に強い影響力を持ち、1920年代頃から「テネンチズモ」(テネンテ中尉から転じて青年将校を指す)と呼ばれる、革新的な青年将校が強い影響力を持って政治を進めようとする傾向が生まれ、ヴァルガス体制の設立にも協力した。その後1964年から1985年まで軍政下にあった事もあり、民政移管に際しても大きな影響力を政界に残した。そのためにかつて軍は「ブラジル最大の野党」と呼ばれていた。

また、ブラジルは第一次世界大戦第二次世界大戦共に連合国側で参戦し、第二次世界大戦に連合国として参戦した際には、ラテンアメリカで唯一陸軍をヨーロッパ戦線(イタリア戦線)に派遣した(ブラジル遠征軍)。その後1965年のドミニカ共和国内戦の治安維持に派遣され、アメリカ合衆国主導による、ボッシュ派社会改革政権崩壊への積極的な協力を行った。

1982年マルビナス戦争(フォークランド紛争)の敗北によってアルゼンチンの軍事政権が崩壊した後は、長らく最大の仮想敵国と見ていたアルゼンチンとの融和政策が実現し、それまで続いていた軍拡競争が終わったために現在は周辺諸国との軍事的緊張関係は無くなった。ただし、国土が広大で人口も多いために、依然として南アメリカで最大規模の軍事力を保持する。

12ヶ月の徴兵制を敷いており、総兵力は約320,000人ほどである。陸軍海軍空軍三軍が存在する。軍事政権期には核開発計画を進めていたが、1988年アルゼンチンと共に核計画の放棄を宣言した。

近年は国連PKOに積極的に派遣されている。また、各種軍用機や軍用車両の国産化が進んでおり、特にブラジルの航空機産業の基盤を生かした一部の軍用機は自国や南アメリカの周辺国のみならず、ヨーロッパや中東諸国、オセアニアにも輸出されている。

俸給と軍人年金の支払いだけで各軍の予算は圧迫されており、装備の維持と更新に必要とされる予算は不足している。陸軍の全保有車両の78%は運用開始から34年以上が経過しており、一部のトラックは第二次世界大戦中に使用された物もあるとされる。火砲の大半も第二次世界大戦時のものだとしている。1437両の装甲戦闘車両のうち42%から70%は使用不能で、6676両の車両のうち40%は使用不能である。弾薬は必要量のわずか15%しかない。海軍も同様に困難に直面している。海軍は7000キロを越す海岸線を警備するために21隻の水上艦艇しか保有しておらず、しかも可動状態なのは10隻程度のみで、そのうちの多くは制限付きで運用されている。5隻ある潜水艦のうち完全な可動状態は1隻のみで、ほかに2隻が制限付きで運用されている。海軍航空隊の58機のヘリコプターの内27機 (46%) も作戦不能状態にある。空軍保有の航空機のうち満足に使用できるのは267機のみで、残る452機は予備部品不足と整備不良で飛行不能とされる。この問題を悪化させている要因として、保有航空機の60%が運用20年経過、もしくはそれ以上の老朽機であるためとされる。

近年の軍事費の対GDP比は1.5%程度で推移している[20]が、その広大な国土と多数の人口規模に比して、2009年の予算総額は297億ドルと圧倒的に少ない。2011年の予算は354億ドルとなり、若干の微増になってはいるものの、装備の近代化はまったく進んでいないのが実情である。

陸軍

兵力190,000人を擁する。PKOのため、ハイチに展開している。

海軍

兵力67,000人を擁する。長らくラテンアメリカで唯一の空母を保有する海軍であったが、財政事情などから唯一の空母サン・パウロの近代化改修を諦め[21]、2017年2月に同艦を退役[22]させた。2007年、原子力潜水艦建造計画が持ち上がり、フランスの技術援助を受けて、2020年を目処に原子力潜水艦の配備を計画している。

空軍

兵力70,700人を擁する。主要装備はイタリアと共同開発した亜音速ジェット軽攻撃機AMXや、双発ターボプロップ機のエンブラエル EMB 110など。2007年2月、日系2世のジュンイチ・サイトウ大将が空軍総司令官に任命された。

国際関係

ブラジルが外交使節を派遣している諸国の一覧図。

独立直後から旧宗主国だったポルトガルに代わって莫大なイギリスの投資を受け、「老いた母(ポルトガル)の代わりに金持ちの継母(イギリス)を得た」と表現される程の飛躍的な経済的発展を遂げた。また、独立直後からウルグアイを巡ってアルゼンチンとシスプラティーナ戦争を起こし、バンダ・オリエンタル(シスプラチナ州)がウルグアイとして独立するなどの失敗もあったが、それでもウルグアイへの影響力は大きく、大戦争終結後は植民地時代のウルグアイの領域の大きな部分(ウルグアイ川左岸の東ミシオネスなど)をブラジルに併合することを認めさせた。

1860年代にパラグアイ戦争が勃発すると、親英政策の下にパラグアイを完膚なきまでに破壊し尽くした。戦争が終わるとパラグアイの領土は一部ブラジルに割譲され、パラグアイそのものも政治的にブラジルの強い影響に置かれることになった。その後はリオ・ブランコ男爵の尽力などもあり、ギアナ三国、ベネスエラ、コロンビア、ボリビアなどの周辺国からアマゾンの辺境地を獲得することに躍起となった。アメリカ合衆国の後ろ盾を得る形で併合されたアマゾンの現アクレ州を巡るボリビアとの争いでは、アクレ共和国のような傀儡政権が樹立されることもあった。

20世紀前後から周囲をスペイン語圏諸国に囲まれていることの孤立感、及び当時急速な発展を遂げていたアルゼンチンの勃興などに対処するために親米政策を採用し、アメリカ合衆国も遠交近攻政策に基づいて中央アメリカカリブ海のアメリカ合衆国による支配権確立のためにブラジルとの友好を望んだため、伯米両国の関係は非常に友好的なものとなった。この親米政策の背景には、1889年の共和制革命直後のバルボーザ案新国旗に見て取れるようなこの当時の実証主義知識人のアメリカ合衆国崇拝の激しさも要因となっていた。

アルゼンチンとの対立はチリを交えて二十世紀初頭から1980年代まで続く軍拡競争を招き、アルゼンチン・ブラジル・チリはABC三大国と呼ばれるようになった。一方で親米英政策は第一次世界大戦第二次世界大戦に連合国側で参戦したように激しいものがあり(アルゼンチンが独自外交を標榜して両大戦でドイツに好意的な中立を続けようと努力したのとは対照的である)、第二次世界大戦後も暫くこの政策は続いた。なお、19世紀末より現在に至るまで友好関係を築いている日本との関係は、日本が連合国と交戦状態に入り、1950年代初頭に国交回復するまでの間はしばし途絶えることとなった。

第二次世界大戦後にイギリスが没落すると、左翼ポプリズモ政権によって親米政策から第三世界外交への転換がなされたが、1964年にアメリカ合衆国の内諾を得て起こされた軍事クーデターにより成立した官僚主義的権威主義体制は、露骨に積極的な親米を掲げてアメリカ合衆国に追従し、1965年のドミニカ内戦の際にはドミニカ共和国ボッシュ派政権を崩壊させるための軍隊を率先して送り、その後軍部は1971年のボリビアのウーゴ・バンセル政権をはじめとして多くのラテンアメリカ諸国の右翼反共軍事クーデターを支援した。

時系列的には前後するが、パラグアイのアルフレド・ストロエスネル政権の成立にもブラジル軍の支援があった。そしてこの露骨な親米政策は、エドゥアルド・ガレアーノをはじめとするラテンアメリカ諸国の知識人からは「裏切り」だとみなされた[23]

しかし、1985年に民政移管すると、特に1980年代後半の冷戦終結後は南アメリカの大国としてアルゼンチンやパラグアイなどの近隣諸国のみならず、アジアアフリカ中近東諸国などとも全方面外交を行い、WTOメルコスールなどを通して積極外交を行う他、没落したアルゼンチンに代わってラテンアメリカ諸国をまとめるリーダーとして国連改革を積極的に推進し、国連安全保障理事会常任理事国入りを日本やインドドイツなどとともに狙っているとされる。また、ポルトガル語圏の一員として旧宗主国ポルトガルや、アンゴラモザンビーク東ティモールとも強い絆を保っている。

ブラジルは主権の相互尊重の原則を根拠に対等な外交施策をとることで知られる。アメリカ政府がテロリスト対策の一つである新入国管理制度で、ブラジルを含む25ヵ国から入国する者に顔写真と指紋の登録を実施したのに対抗し、ブラジル政府は、2004年1月1日から対抗措置として入国するアメリカ人を対象に、顔写真と指紋の登録を実施した。またブラジルは南米で唯一日本人が観光目的を含めた短期滞在のために入国するときにビザが必要な国でもある。これも日本政府がブラジルからの入国に対してビザを求めていることに対する相互尊重の原則を根拠にした対抗措置である。 しかしリオデジャネイロオリンピックの期間(2016年6月1日~9月18日)は日本人、アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人を対象に一時的ではあるが一方的に観光ビザを免除する姿勢も見せた。

また日本国籍の者において、かつては領事館のみでの申請だったが2018年1月より電子ビザの申請が可能となった。これによりブラジル入国に際し入国料を取られるだけの形となる。 これらの措置はアメリカ、オーストラリア、カナダ、日本国籍者向けに行われており将来中国国籍者も申請可能になるかもしれない。

パレスチナ

2010年12月パレスチナ自治政府を国家承認した[24]。また、2016年2月には西半球の国では初のパレスチナ大使館も設立した[25]

日本との関係

地域で有名な見本市。

日本との外交関係は1895年の修好通商航海条約調印から始まり、1897年に両国内に公使館を開設。1908年6月には日本からの本格的移民が開始され、笠戸丸がサントスに入港した。その後第二次世界大戦中の断交状態(ブラジルは連合国として参戦)と1950年代初頭の国交回復を経て、常に活発な人的、経済的交流が行われており、その距離の遠さにも関わらず世界各国の中でも特に日本との縁が非常に深い国である。

1908年に最初の本格的な集団移民、いわゆる「笠戸丸移民」が到着して以降、第一次世界大戦期や第二次世界大戦を経て、1950年代に日本政府の後援による移民が停止されるまでにブラジルに渡った日本人移民の子孫は5世、6世の世代になり、サンパウロの世界最大級の日本人街リベルダージ」を中心に、海外で最大の日系人社会(約150万人)を持つなどブラジル社会に完全に溶け込んでいる。

1923年から1940年まで、五島出身のドミンゴス中村長八神父が初の海外派遣日本人宣教師として、サンパウロ州マットグロッソ州パラナ州、そしてミナスジェライス州南部の計4州で活躍した。生ける聖人」と呼ばれており、現在、列福調査が進められている[26]

日系ブラジル人は政治や経済などで、高い地位に就くものも多い他、特に長年の農業における高い貢献は非常に高い評価を得ている。2007年2月には、2世のジュンイチ・サイトウ空軍大将が空軍総司令官に任命され、ブラジル軍の最高位ポストに就いた初の日系人となった[27]

また、1950年代以降、日本の高度経済成長期にかけて東芝トヨタ自動車東京海上日動コマツヤクルト本社日本航空など、重工業から金融、サービス業や運送業に至るまで、様々な業種の日本企業がサンパウロを中心に数百社進出しており、世界でも有数の規模の日本人学校サンパウロ日本人学校など、ブラジル国内に複数の日本人学校がある他、日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれており、また、両国間の人的交流が活発にあるなどその関係は非常に深いものがある。在留邦人は約6万人(2010年)、在日ブラジル人は約23万人(2010年、外務省)である。

1962年に両国による合弁事業であるウジミナス製鉄所へのODAによる融資を行って以降、電気や港湾、衛生設備など、各種インフラの充実を中心としたODAが継続的に行われている。しかしながら、ブラジルが工業国であり比較的インフラが整っていることから、近年はインフラでも環境、衛生関係の技術的要素に特化されたものとなっている。

地方行政区分

ブラジルは五つの地域に別れ、それらの地域は26の州(Estado エスタード)と1つの連邦直轄区(首都ブラジリア)から構成されている。州はムニシピオ(市・郡に相当)に分けられ、全国で5,564のムニシピオが存在する。

ブラジルの地域英語版の区分。
(A. 北部英語版、 B. 北東部英語版、 C. 中西部英語版、 D. 南東部、 E. 南部英語版、 )
  1. アクレ州
  2. アラゴアス州
  3. アマパー州
  4. アマゾナス州
  5. バイーア州
  6. セアラー州
  7. エスピリト・サント州
  8. ゴイアス州
  9. マラニョン州
  10. マット・グロッソ州
  11. マット・グロッソ・ド・スーウ州
  12. ミナス・ジェライス州
  13. パラー州
  14. パライバ州
  15. パラナ州
  16. ペルナンブコ州
  17. ピアウイー州
  18. リオデジャネイロ州
  19. リオ・グランデ・ド・ノルテ州
  20. リオ・グランデ・ド・スーウ州
  21. ロンドニア州
  22. ロライマ州
  23. サンタ・カタリーナ州
  24. サン・パウロ州
  25. セルジッペ州
  26. トカンティンス州
  27. 連邦直轄区


主要都市

ブラジルの地図。

地理

ブラジルの地形図

国土は、流域を含めると400万km²にも及ぶアマゾン川と、その南に広がるブラジル高原に分けられるが、広大な国土を持つだけに様々な地形があり、北部は赤道が通る熱帯雨林気候で、大河アマゾン川が流れる。近年、環境破壊によるアマゾン川流域の砂漠化が問題となっている。

最高峰はベネズエラとの国境近く、北部ギアナ高地にあるピッコ・ダ・ネブリーナ山で、標高3,014メートルである。熱帯には「セハード」と呼ばれる広大な草原が広がり、エマス国立公園も含まれている。また、北東部は、沿岸部では大西洋岸森林が、内陸部では乾燥したセフタンポルトガル語版英語版が広がり、セフタンはしばしば旱魃に悩まされてきた。

南西部のパラグアイ、アルゼンチンとの国境付近には有名なイグアスの滝のある、ラ・プラタ川水系の大河パラナ川が流れる。他にネグロ川サン・フランシスコ川シングー川マデイラ川タパジョス川がある。また、ボリビアとパラグアイとの国境付近は世界最大級の熱帯性湿地とされるパンタナール自然保全地域となっている。

ブラジル南部三州ではブラジル高原はウルグアイ、アルゼンチンへと続くパンパ(大平原)との移行地帯となり、伝統的に牧畜が盛んでガウーショ(ガウチョ)も存在する。南部はコーノ・スールの一部として扱われることもある。

また、ブラジル南部は沖縄本島薩南諸島などの対蹠地に当たり、また国土の大半が南半球となるため、季節は日本とはおおよそ正反対になるが、熱帯ではない南部以外ではあまり意識されることはない。

気候

ケッペンの気候区分によると、国土の93%は熱帯地域に属す。気候は亜熱帯性気候、半砂漠サバナ気候熱帯雨林気候熱帯モンスーン気候、高地の亜熱帯性気候、温帯夏雨気候温暖湿潤気候に分類できる。大西洋沿岸は全体的に温暖なため、リオデジャネイロやレシーフェなどのリゾート地が多い。南部三州の標高が高い地域では雪が降ることもある。

年間平均気温

  • アマゾン地域:22~26℃
  • 大西洋沿岸地域:23~27℃
  • 内陸部高原地域:18~21℃

四季 緯度によって異なるが、一応は以下の通りである。