ベルギー王国
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
ベルギーの国旗 ベルギーの国章
国旗 国章
国の標語:
L'union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
(日本語訳: 団結は力なり)
国歌La Brabançonne(フランス語)
De Brabançonne(オランダ語)
Das Lied von Brabant(ドイツ語)
ブラバントの歌
ベルギーの位置
公用語 オランダ語[1]フランス語ドイツ語
首都 ブリュッセル市
最大の都市 ブリュッセル
政府
国王 フィリップ
首相 シャルル・ミシェル
面積
総計 30,528km2136位
水面積率 0.8%
人口
総計(2012年 11,116,242人(74位
人口密度 364人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 3,440億[2]ユーロ (€)
GDP (MER)
合計(2008年 5,063億[2]ドル(17位
GDP (PPP)
合計(2008年3,895億[2]ドル(27位
1人あたり 36,235[2]ドル
独立

 - 宣言
 - 承認
ネーデルラント連合王国より
1830年10月4日
1839年
通貨 ユーロ (€) (EUR) [3][4]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 BE / BEL
ccTLD .be
国際電話番号 32
  1. ^ ベルギーで用いられるオランダ語はフラマン語とも呼ばれる。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  3. ^ 1999年までの通貨はベルギー・フラン
  4. ^ ベルギーのユーロ硬貨も参照。

ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、"EUの首都"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。

19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域ワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。

国名

正式名称は、

公式の英語表記は、Kingdom of Belgium英語発音: [kɪ´ŋdəm ɔ´v be´ldʒəm][3] キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞は Belgian(ベルジャン)。ラテン語表記も Belgium(ベルギウム[4])である。

日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー漢字による当て字白耳義と表記され、と略される。

日本語で言う「ベルギー」はオランダ語の België(ベルヒエ)に由来する。また、ベルギーという名称はガリアに住んでいたベルガエ人から取られたといわれている。

歴史

言語の壁

ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[5]新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[6]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[6]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[6]。紀元前6世紀ごろになるとケルト人ライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[6]

紀元前後になるとローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[6][7]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[6]。 ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[7]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレントゥルネーアルロンといった植民都市が築かれた[7]

アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[8]

3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住をはじめた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[7]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[9][10]。フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年サリ族トクサンドリア定着を認めた。

スヘルデ川とコミューン

481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクロヴィス1世トゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[10]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族ドイツ語版英語版、ルクセンブルク南部のアレマン族ブルグンド王国西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[10]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[11]

7世紀中盤ごろになるとアウストラシア宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年テルトリーの戦いネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[12]カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[12]800年サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[13]

カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国西フランク王国ロタリンギアに分けられた。さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収された。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[14]。また、9世紀初頭よりはじまったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領ブラバント伯領リエージュ伯領エノー伯領ナミュール伯領リンブルク伯領ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[14]。なかでもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[15]

10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[16]。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[17]。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[18]。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[19]

ブルゴーニュ体制の限界

1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドエドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服されてしまう。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[20]

フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[21]。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公1477年ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した[22]。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。

ハプスブルク君主国本家からスペイン・ハプスブルク朝が分かれて、フランドルはスペイン領となった。スペイン王のカルロス1世が皇帝に即位し、ゲルデルン公国ズトフェン伯爵領を併合した。こうしてネーデルラント17州が誕生した。ブルゴーニュ公国にならい、皇帝はネーデルラント総督府に軍事・立法・財務の各職掌に評議院を設けた。また、ネーデルラントへは全国三部会と別に地方三部会も置いた。1548年、アウクスブルク仮信条協定ルイ11世が占領できなかったフランシュ=コンテを17州を同一の行政単位に統合した。スヘルデ川が独仏国境としての役割を終えた。翌年、皇帝が17州の分割相続を禁じた。日の沈まぬ国を船と郵便で駆け巡る人々が往来し、アントウェルペンはコスモポリスと化した。フェリペ2世のスペイン的圧政に17州が八十年戦争を仕掛けた。長い戦争の間にカルヴァン派の北部が豊かになり、カトリックの南部が貧しくなった。17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。このスペイン領南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。ここからアムステルダムへ夥しい悪貨が流入した。これは南部にとってはやむない悪鋳であった。ヴェストファーレン条約はスヘルデ川を閉鎖してアントウェルペンを機能不全にしてしまったからである。南部が爪に火を灯しているあいだに、これ以上ないカトリック勢力のルイ14世が、オランダ侵略戦争フォンテーヌブローの勅令を試練として北部へ突きつけた。

オーストリア再び

スペイン・ハプスブルク朝の断絶により生じたスペイン継承戦争1701年 - 1714年)の結果、ラシュタット条約でスペイン領南ネーデルランドがオーストリアに割譲され、オーストリア領ネーデルラントが成立する。1715年はカトリックの厄年であった。ルイ14世が死んで、墺土戦争が起こった。そしてオーストリアは屈辱的な「障壁条約」を英蘭に飲まされた。これは、オランダをフランスから守るために、フランスがユトレヒト条約で切り取っていったベルギー領などを奪回し防壁となすという軍事同盟であった。これにより南ネーデルラントは歳入から50万エキュを天引きされた。その金は英蘭両軍の維持費用に充当された。酷いことに、この条約はスヘルデ川閉鎖に釘を刺した。オーストリアの弱体化を意図していたことは明確であった。1723年、カール6世オーストリア東インド会社英語版を認可した。このアントウェルペン資本によるベンチャー企業はインドや中国まで行った。しかし英仏蘭を相手に権益を争うことができずに1727年に解散した。仕方なしに余力資本がプロイセン王国スウェーデンの企業へ流れた。

1740年オーストリア継承戦争ではフランスが再度ベルギーを占領した。しかしアーヘンの和約によりマリア・テレジアに返された。ボッタ・アドルノ(Antoniotto Botta Adorno)、コーベンツル(Johann Karl Philipp von Cobenzl)、スタレンベルク(Georg Adam, Prince of Starhemberg)の三人がベルギーを全面的に復興させた。このときの人口増加率は欧州で最高を記録した。

1778年と1784年の二度にわたり、カール・テオドールが、自身の領国バイエルン選帝侯領をオーストリア領ネーデルラントと交換しようと画策した。これは、1778年の方がバイエルン継承戦争の結果として、また1784年の方はウッツシュナイダーらによる反発で、いずれも失敗した。ウッツシュナイダーらはマクシミリアン・フォン・モンジュラと「啓明団」に所属していたが、領土交換を阻もうとするとき脱退して、古巣の啓明団を攻撃し公職から追放した。 1789年にハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対してブラバント革命が起こり、1790年には独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた。ベルギー(およびルクセンブルク)は、オーストリア領ネーデルラントとして再びハプスブルク家の支配下に戻った。

フランス革命戦争勃発後、ジャコバン派がフランス革命国民義勇軍を主導したが、その国民義勇軍の将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線で、ロベスピエール恐怖政治中の1793年10月、オーストリア軍を殲滅した。翌1794年6月、ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線でオーストリア軍を殲滅した。この後、フランス革命総裁政府のフランス軍は南ネーデルランドを占領した。総裁政府の軍司令官ナポレオン将軍(当時28歳、第一統領就任以前)とオーストリアは、1797年10月にカンポ・フォルミオ条約を結んだ。南ネーデルランドはその中で、リエージュ司教領と共にフランスに併合された。

独立と永世中立国化

ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダと共にネーデルラント連合王国として再編された。また、同年にルクセンブルク大公国はネーデルラント連合王国の一部ながらドイツ連邦に加盟した。1830年にネーデルラント国王ウィレム1世の支配に対して独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。この年にランベール銀行(現グループ・ブリュッセル・ランバート)が創設された。

同年に制定された憲法は、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これはカトリックのベルギーが、外から迎えるプロテスタントの国王、ザクセン=コーブルク=ゴータ家レオポルド1世(在位:1831年 - 1865年)に対抗するためのものであった。レオポルドは、ナポレオン戦争中はロシア帝国軍の傭兵士官として戦い、戦争後の1816年にイギリスに帰化して摂政王太子(のちの国王ジョージ4世)の王女シャーロットの婿になったこともあった。また、1837年に即位することになる女王ヴィクトリアの母はレオポルドの姉であった。なお、1837年はベルギー総合会社ロスチャイルドと共同でフランス=ベルギー石炭水運会社Société charbonnière et de navigation franco-belge を設立した年でもあった。

1839年、オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これはプロテスタント国家オランダにとって、カトリック国家フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。しかし、オーストリアとの経済関係まで分断する効果はなかった。後の三国同盟結成期にベルギーは確かにカトリック勢力圏であった。

新興のベルギー王家は、イギリスやフランスと関係が深かった。レオポルド1世の後妻にはフランス国王ルイ・フイリップの王女ルイーズ・マリーが迎えられ、その間の息子レオポルド2世が王位を継いだ(在位:1865年 - 1909年)。彼とイギリス女王ヴィクトリア、その王配アルバートとは従姉弟の関係にあたる。次代の国王アルベール1世(在位:1909年 - 1934年)の治世で、ベルギーは第一次世界大戦に遭遇したが、その際、アルベール1世がドイツ軍に徹底抗戦したのはこのような関係が一因であった[23]

つまりベルギーの経済関係はカトリックであったが、王族関係がプロテスタントでねじれていた。

独立以降

ベルギーは大陸ヨーロッパで最も早く産業革命が始まった。その勢いは外資企業が支えた。フランス由来ではソシエテ・ジェネラルオタンゲ、ドイツ由来のシャフハウゼン、そして当時グローバルなロスチャイルドが、独立まもないベルギーの資本調達に携わった[24]。1846年、チャールズ・ホイートストンウィリアム・クック電信敷設を許可した。1850年頃から政府は彼らの回線を買収していった。政府は鉄道に沿って回線網を拡大し、1851年には商業利用が認可された[25]。一方、1840年代にドイツ関税同盟加入に失敗しながらも同盟の鉄関税を50%引き下げることに成功していたため、1850年には同盟鉄輸入量の2/3すなわち7万6千トンを供給した。リエージュシャルルロワなどにおける石炭の産出が増加し、製鉄や機械工業が発達した。そしてこの年にベルギー国立銀行ができた。1857年、フランスと相互に、相手国法人を内国企業と原則的に対等とする協定が結ばれた。さらに同様の協定が英仏間で1862年に締結された。1865年、ベルギーはラテン通貨同盟の原加盟国となり、資本の自由化は加速した。すなわち、普仏戦争におけるベルギーは表向き中立を貫いたが、実はラテン通貨同盟を主導するフランス資本に支配されていた。

述べたように英仏と経済的に結びついていたベルギーであったが、三国同盟の結成からドイツ帝国がベルギーの利権に参加してくるようになり、アフリカ分割を主催するまでにもなった。これに対抗して露仏同盟が結ばれると、各国の膨大な資本がベルギーを経由して、およそ10年間ロシアに投下され続けた。合衆国資本も誘致された(#植民地支配)。

第一次世界大戦ではドイツ軍によってほぼ全土を占領された。戦後はドイツの脅威に対抗するためフランスと軍事協定を結んだ。すなわち産業資本家のヴァンデルや金融資本家のシュネーデルが働きかけた。実際にルール占領などでは共同で軍事行動を起こしていたが、1936年にはこれを破棄して中立政策へと回帰した。そのため第二次世界大戦では再びドイツ軍によって国土を占領された。ロンドンに亡命政権が立てられたが、国内に残った国王レオポルド3世は亡命政府の意向を無視してドイツに降伏し、立憲君主制下にある国王の権限を逸脱するものとして戦後に問題視されることとなった。

1926年にラテン通貨同盟を脱退する一方、ルクセンブルクとの通貨同盟は維持した(ルクセンブルク・フラン#歴史)。

第二次世界大戦後のベルギーは、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体参加以来、ヨーロッパ統合において中心的な役割を果たしてきた。首相としてヨーロッパ統合を推進したポール=アンリ・スパーク欧州連合の父の一人に数えられている。ベルギーが参加してから後、共同体は数回の外債を発行している。1958年7月(4500万ドル)、1960年10月(3800万ドル)、1962年4月(2500万ドル)に関するかぎり、大口引受はクーン・ローブラザード、ファースト・ボストン(現クレディ・スイスロックフェラー系)であった。この頃共同体と発行額が同規模のベルギー債は幹事のモルガン・スタンレーなどが引き受けていた。

植民地支配

1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取され、コンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。コンゴの植民地化以降、アントウェルペンには世界からダイヤモンド原石の約70%が送られるようになり、当地の伝統技術でカット・研磨された。コンゴ自由国は1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配された。

1906年、ジョン・モルガンジョン・ロックフェラーだけでなく、鉱山王ダニエル・グッゲンハイム(Daniel Guggenheim)にタバコ王トーマス・ライアン(Thomas Fortune Ryan)を加えた四人を、レオポルド2世がブリュッセルへ招待し、彼の植民地企業の株式を共同保有するよう誘った。ライアンとグッゲンハイムは、ダイヤモンド開発を担うフォルミニエール(Forminière)に1/4ずつ参加した。モルガン・ギャランティ・トラストは、誘致からしばらくして、「ベルギー領コンゴ政府における伝統的な財政支援者」となった。ロックフェラー・グループもベルギー所有の植民地企業へ資本参加した。[26][27]

1908年には、セシル・ローズが生前から要求していた鉄道の延長に関する交渉も再開されていた。暫定合意の結果、ブロークンヒルからカタンガ州に延伸する目的でローデシア=カタンガ接続鉄道鉱物会社が設立された。カタンガは1906年からユニオン・ミニエールが大規模に採掘していた。同年設立のジェネラル・キャリアは現在でも操業している。

第一次世界大戦では、1914年にドイツ帝国により中立を犯されて占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダブルンジを獲得した。

第二次世界大戦で、コンゴのウランマンハッタン計画に寄与した。フランス領コンゴでも同様であった[28]

1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの対応はコンゴ動乱モブツ体制の確立など、コンゴの不安定化を大きく助長した。1958年4月にベルギー領コンゴの発行した1500万ドルの外債は、幹事のディロン・リード(150)を筆頭に、ラザード(60)、ゴールドマン・サックス(60)、メリル・リンチ(60)など40社が引受けた(括弧内は単位万ドルの引受額)。

1986年、イギリスとの間に初の国際光海底ケーブルが敷設された。現在、首都ブリュッセル欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」に当たる性格を帯びている。ブリュッセルは2014年、ビジネス、人材、文化、政治、識字率などを総合評価した世界都市ランキングにおいて、特に「政治的関与」が高く評価され、世界11位の都市と評価された[29]

政治

連邦議会議事堂

ベルギーは国民的立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。

連邦議会両院制である。上院である元老院は、地域議会及び言語共同体議会を通じた間接選挙で選出される50議席と、間接選挙議員によって指名される10議席、国王の子女に割当てられる3議席からなる。下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。

連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。もしも、この後に下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。

1995年3月23日にホロコースト否認を公式見解として非合法化する法律を制定している。しかし国内にはVrij Historisch Onderzoe​​k(ドイツ語版) のような否認主義組織も存在する。

政治空白

前回の総選挙は2010年6月に行われ、12の政党が議席を獲得した。しかし北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航を極め、正式な政権が541日も存在しないという事態となった[30]。これは正式な政権が存在しない世界最長記録である[31]。この政治空白の間の首相職は、総選挙で敗退したキリスト教民主フランデレン党イヴ・ルテルムが引き続き暫定的に務めた。

2011年11月26日、新政権樹立の連立協議で、主要6政党が2012年予算案で合意に達した。当時の国王アルベール2世は、ワロン系社会党エリオ・ディルポ党首に組閣を指示[32]。12月5日、ディルポを新首相に任命し[33][34]、政権は12月6日に発足した。

主な政党

自由党、社会党、キリスト教民主党、環境政党がオランダ語系(フラマン系)とフランス語系(ワロン系)に分離するなど、地域で政党が分かれているのがベルギーの政党の特徴である。

オランダ語系政党
フランス語系政党