ポルトガル共和国
República Portuguesa
República Pertuesa
ポルトガルの国旗 ポルトガルの国章
国旗 国章

国の標語:なし

国歌A Portuguesa(ポルトガル語)
ポルトガルの歌

ポルトガルの位置

公用語 ポルトガル語ミランダ語
首都 リスボン
最大の都市 リスボン
政府

大統領 マルセロ・レベロ・デ・ソウザ
首相 アントニオ・コスタ

面積

総計 91,985km2109位
水面積率 0.5%

人口

総計(2009年 約10,640,000人(75位
人口密度 114人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年 1,661億[1]ユーロ (€)
GDP (MER)

合計(2008年 2,444億[1]ドル(33位
GDP (PPP)

合計(2008年2,359億[1]ドル(40位
1人あたり 22,189[1]ドル
独立

レオン王国より独立1128年
ポルトガル王国成立1139年
レオン王国国王が承認1143年
ローマ教皇が承認1179年
通貨 ユーロ (€) (EUR) [2][3]
時間帯 UTC ±0(DST:+1)[4]
ISO 3166-1 PT / PRT
ccTLD .pt
国際電話番号 351

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 1999年以前の通貨はエスクード
  3. ^ ポルトガルのユーロ硬貨も参照。
  4. ^ アソーレス諸島はUTC-1(DST: ±0)。

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesaミランダ語: República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペイン国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島マデイラ諸島を領有している。首都はリスボン

ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国日本など東アジアとの接触を持った。

国名

正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa[ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ]レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal [puɾtuˈɣaɫ]プルトゥガル)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。

日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル漢字表記葡萄牙で、 と略される。 英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese

歴史

先史時代とローマ化

現在から35,000年前にはクロマニョン人ピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川英語版ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。

紀元前201年第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人英語版ヴィリアトゥス英語版の指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアガラエキア英語版に再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。

ゲルマン諸王国とイスラームの侵入

紀元560年のイベリア半島の勢力図。スエヴィ王国西ゴート王国が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州。

ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人スエヴィ王国を建国し、西ゴート人西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年ウマイヤ朝イスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。

キリスト教勢力のペラーヨアストゥリアス王国を建国し、722年コバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年アストゥリアス王国アルフォンソ3世ガリシア方面からポルトゥ・カーレ英語版を解放し、ヴィマラ・ペレス英語版を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。

ポルトガル王国の盛衰

ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年オーリッケの戦いムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約英語版が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。

ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年コインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約ポルトガル語版が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語文章語となった。

ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年アヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。

16世紀ポルトガルの領土拡張。

ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコ西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。

1492年グラナダ戦争スペイン語版英語版に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年ヴァスコ・ダ・ガマインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。

以後ブラジルは1516年マデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年ディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋制海権を確保してマラッカホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年1543年には日本へもやってきた[2]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年にはからマカオの居留権を得た。

こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世1578年アルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年アヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。

スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年カタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[3]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年ネーデルラント連邦共和国オランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部英語版オランダオランダ領ブラジル英語版を成立(オランダ・ポルトガル戦争英語版)させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。

1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年ハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ英語版(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年コンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーンザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。

1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレスポルトガル語版を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国マドリード条約英語版を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。

広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年イギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年ブラジル南東部ミナスが発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。

1755年リスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。

1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年フランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。

近代のポルトガル

19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域。

ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年ポルト自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争ポルトガル語版の末に1822年ジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。

ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年ブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でロタティヴィズモポルトガル語版と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義カシキズモポルトガル語版: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。

また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋ポルトガル領アンゴラインド洋ポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図ポルトガル語版」構想が打ち出されたが、1890年アフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビアマラウイジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した[4]。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年マカオの統治権をより獲得している。

共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制

共和制革命の寓意画。

1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年ドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年シドニオ・パイスクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく第一次世界大戦が終結した後も政治不安は続いた。

幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領の下で財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された[5]

対外的にはナチス党政権下のドイツファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。

第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード英語版将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年エンリケ・ガルヴァン英語版退役大尉が指導するイベリア解放革命運動スペイン語版によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。

アンゴラに展開するポルトガル軍脱植民地化時代にもポルトガルはアフリカの植民地維持のために戦争を続け、植民地とポルトガル双方に大きな傷跡を残す激しいゲリラ戦争が繰り広げられた。

一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴアディウダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻英語版)、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニアビサウ独立戦争が始まり、モザンビークも1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。

サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相俟って1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランスルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。

1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り[6]、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動ポルトガル語版」が結成された。翌1974年3月に大尉運動は全軍を包括する「国軍運動英語版」(MFA)に再編された。

カーネーション革命以降

「自由の日、4月25日万歳」、カーネーション革命を記念する壁画。

1974年4月25日未明、国軍運動英語版(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血の内にカーネーション革命が達成された。革命後共産党社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE英語版が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ英語版将軍は革命を抑制する方針を採ったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス英語版、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ英語版と結んだコスタ・ゴメス英語版将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かった。この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシア東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオもまた中華人民共和国から軍事侵攻を仄めかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけはポルトガル植民地として残った)、レトルナードスポルトガル語版と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。

1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ英語版モタ・ピント英語版ピンタシルゴと三つの内閣が成立したが、何れも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ英語版が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派社会党右派社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァの下で1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。

1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権の下では1998年リスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年ポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが形式的にも中華人民共和国に返還され、実質上植民地を全て手放した。2002年に名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールインドネシアの占領・実効支配から独立を果たした。こうして1415年大航海時代の始まりとともに生まれたポルトガル帝国は、21世紀の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。

政治

大統領府、ベレン宮殿

大統領元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日カーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。

一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。

憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。

統治機構

政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(一回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制共和国議会からなる立法府、及び国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。

大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出等の権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。

最近の政治状況

軍事

ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍22,400人、海軍14,104人、空軍8,900人。他に国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。

2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。

国際関係

ポルトガルが外交使節を派遣している諸国の一覧図。

NATOOECDEFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとって最も重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。

旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。

EUとブラジル以外ではアンゴラモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。

2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張している為、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係は概ね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。

日本との関係