中華人民共和国
簡体字: 中华人民共和国
中華人民共和国の国旗 中華人民共和国の国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌义勇军进行曲(中国語)
義勇軍進行曲
中華人民共和国の位置
公用語 中国語普通話
首都 北京
最大の都市 上海市(市区人口による)
重慶市(行政人口による)[注 1]
政府
党総書記[注 2]習近平
国家主席 習近平
国務院総理 李克強
全人代常務委員長栗戦書
全国政協主席汪 洋
党書記処常務書記王滬寧
党中規委書記趙楽際
国務院常務副総理韓 正
国家副主席王岐山[注 3]
面積
総計 9,634,057km23位
水面積率 2.8%
人口
総計(2016年 13億8271万[1]人(1位
人口密度 145人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2017年 82兆7211億[2]人民元
GDP (MER)
合計(2017年 12兆6872億[2]ドル(2位
GDP (PPP)
合計(2014年18兆088億[3]ドル(1位
1人あたり 13,224[3]ドル
建国
人民共和国成立1949年10月1日
通貨 人民元 (CNY)
時間帯 UTC +8(DST:なし)
ISO 3166-1 CN / CHN
ccTLD .cn
国際電話番号 86
  1. ^ 中国における「行政区分としての市」(直轄市、または地級市)と「市区」の違いについては、中華人民共和国の都市を参照のこと。
  2. ^ 中国共産党が中華人民共和国を指導していくことが謳われているため、総書記は共産党と国家の最高指導者とされる。
  3. ^ 王岐山副主席の序列は韓正副首相に次ぐ第8位。
註1: 人口、及び各種GDPの数値には、香港、マカオ、及び台湾地区を含まない。
註2: 中華人民共和国と、面積順位第3位とされるがアメリカ合衆国の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがある。
中華人民共和国
各種表記
繁体字 中華人民共和國
簡体字 中华人民共和国
拼音 Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó
注音符号 ㄓㄨㄥㄏㄨㄚˊ ㄖㄣˊㄇㄧㄣˊ ㄍㄨㄥˋㄏㄜˊㄍㄨㄛˊ
発音: チョンホワ ジェンミン コンホークオ
広東語拼音 Zung1Waa4 Jan4Man4 Gung6Wo4Gwok3
広東語発音: ツンワー ヤンマン コンウォークオック
日本語読み: ちゅうかじんみんきょうわこく
英文 People's Republic of China
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中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、簡体字: 中华人民共和国繁体字: 中華人民共和國英語: People's Republic of China, PRC)、通称中国(ちゅうごく、英語: China)は、東アジアに位置する主権国家

首都北京市を政庁所在地とし、13億8千万人以上の人口で世界一人口が多い国でもある。

中華人民共和国憲法第一条で社会主義国家であることを明言しており、政治は中国共産党指導的地位を有するヘゲモニー政党制を採用している[4]

概要

中華人民共和国は、中華民国統治下中国1921年に結党された中国共産党が、ソビエト連邦の支援を受けながら国共合作抗日戦争八路軍新四軍)・国共内戦を経て国民政府台湾島へ放逐[5]し、1949年10月1日に北京市で建国式典(中華人民共和国開国大典中国語版)を開催したことで成立した。

同国は憲法前文で、孫文が指揮する辛亥革命中華民国創立の意義は認めつつ、中華民国が帝国主義封建主義に反対する任務を達成できなかった為に、中国の諸民族人民を率いる中国共産党が新民主主義革命によって官僚資本主義の支配(蒋介石政権)を覆し、同国を建国したとしている。そのため同国は、中国旧来の政治的実体である中華民国が1955年大陳島撤退)以降も引き続き残存している台湾[6]台湾島澎湖諸島金門島馬祖島及びその他島々[7])も「中華人民共和国の神聖な領土の一部」とみなし、台湾を実効支配下に置くこと(祖国統一中国語版)を「台湾の同胞を含む全中国人民の神聖な責務」であると憲法前文で規定している。同国は国共内戦の延長で1954年に「台湾解放宣言」[8]を出し、第一次台湾海峡危機(1954年~1955年)と金門砲戦1958年1979年)を起こしたが武力による台湾占領には至らなかった。同国は2010年代に入ると一つの中国による台湾問題の解決を「(自国の)核心的利益の一つ」と規定するようになり、基本的には九二共識の合意に基づいた平和的な中国統一中国語版を目指しているが、一方で人民解放軍の武力による台湾制圧の可能性も指摘されている[9]

計測方法によるが、同国は陸地面積では世界第2位[10]総面積では世界第3位又は第4位である。同国の地形は、乾燥した北の森林ステップゴビ砂漠タクラマカン砂漠から、多湿な南の亜熱帯の森林まで広大かつ多様である。ヒマラヤ山脈カラコルム山脈パミール高原天山山脈により、同国は及び中央アジアから切り離されている。長さ世界第3位長江及び同世界第6位黄河は、チベット高原から人口密度の高い東の沿岸地域に流れ、古代には黄河文明長江文明を興してきた。同国の太平洋に沿った海岸線は14,500kmの長さで、渤海黄海東シナ海南シナ海に囲まれている。同国の国土は、22省級行政区、5自治区、北京市・天津市上海市重慶市の4直轄市、大部分が自治的な香港マカオの2特別行政区によって構成されている。

中国は、繁栄と衰退の繰り返しだと考えられる過去2000年間の大部分で世界最大かつ最も複雑な経済を有した[11][12]。1978年における改革開放の導入以来、外資流入の勢いが増してゆき、産業構造が政策から転換して、中国は世界で最も成長率が高い主要経済大国の1つになった(#経済)。2016年時点で、同国は名目GDP及び貿易輸入額のいずれにおいても世界第2位であり(2014年には国際通貨基金世界銀行CIAワールドファクトブックによると購買力平価は世界最大のGDPとなった[13][14][15])、購買力平価GDPと貿易輸出額は世界一位である[16]。同国は核保有国に認められ、世界第2位の防衛予算世界最大の常備軍を有する。中華人民共和国は1971年以来国際連合加盟国であり、中華民国の後任として安全保障理事会常任理事国である。中国は多数の公式及び非公式の多国間機構加盟国であり、WTOAPECBRICs上海協力機構BCIMG20がこれに該当する。中国はアジアの地域大国であり、多数の解説者により潜在的な超大国として特徴付けられてきた[17][18]。なお2017年7月現在、中華人民共和国の世界遺産イタリアについで52件ある。国内には文化遺産が22件、自然遺産が4件、複合遺産が4件存在する。

国名

現在の公式国名は、中華人民共和国 (簡体字: 中华人民共和国; 拼音: Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó) Zh-Zhonghua renmin gongheguo.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]である。一般国名は、中国 (簡体字: 中国; 拼音: Zhōngguó) 及び中華 (簡体字: 中华; 拼音: Zhōnghuá) である。

「中国」という言葉は、紀元前6世紀書経詩経で既に記述されており、中華帝国以前の時代には華夏族四夷と区別するため、文化的概念として頻繁に用いられた。その後、中華帝国の変遷と共に様々な古文書で用いられる「中国」の意味も変化して行ったが、近代的な主権国家全体の名称として用いられるようになったは19世紀半ばからである(詳細は「中国」の項目参照のこと)。

中国と同義で用いられる支那は、帝国主義のイメージと結びついて中華人民共和国では侮蔑的な呼称と認識されているが、その原型が古くから印欧語族の諸国で用いられてきたために派生形が多く残っている。たとえば英名の"China"は、サンスクリット語Cīna (चीन) を由来とするペルシア語Chīn (چین)が由来と考えられる[19]。"China"という言葉は、ポルトガルの探検家Duarte Barbosaの日誌において1516年に初めて記録された[20]。1555年、同日誌はイングランドにおいて翻訳及び出版された[21]。17世紀にマルティノ・マルティニにより提唱された伝統的理論では、Cīnaにおいて中国最西の国である"Qin" () が由来である[22]。また、Cīnaマハーバーラタ (紀元前5世紀) 及びマヌ法典 (紀元前2世紀) を含む初期のヒンドゥー教の聖典において用いられていた[23][24]

歴史

中国の歴史
元謀藍田北京原人
神話伝説三皇五帝
黄河長江遼河文明
西周
東周 春秋
戦国
前漢
後漢
三国
西晋
東晋 十六国
南北朝 北魏
西魏 東魏
北周 北斉
 
 
五代十国
北宋 西夏
南宋
北元
後金  
 
満洲 中華民国
 
中華人民共和国 中華民国
台湾
中国の歴史年表
中国朝鮮関係史
Portal:中国

中華民国からの連続

古代から続く中国の歴史は、政治経済の両面から中華人民共和国のあり方を規定している。文化中国文化の近代化は

中国は、王朝が1842年アヘン戦争で敗北(南京条約を締結)したのを機に、従来の華夷秩序に基づく世界が崩壊し、西洋列強が中心となる近代世界の一部に組み込まれた。相次ぐ不平等条約で次第に列強の半植民地的な状況になった中国では、洋務運動等の近代化を目指す取り組みの末に辛亥革命が発生して1912年中華民国が創立された。

中華民国創立後、北洋軍閥が実権を握る北京政府へ反発した孫文第二革命護国戦争護法運動を起こすが、いずれも失敗に終わった。その後、軍閥時代五四運動を契機として中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大すると、1919年10月に中国国民党を結党した孫文はソ連に接近し、一方で1921年7月に陳独秀毛沢東らは中国共産党を結党した。両者はコミンテルンの指導によって第一次国共合作を行い、北京政変を機に平和的な全国統治の流れが生まれたが、孫文の死後によってとん挫した。

孫文の死後、国共両党が連携して北伐を開始したが、1927年4月に南京国民政府を樹立した蒋介石上海クーデターを起こすと両党の連携は解消され、中国共産党は非合法な存在となった。合作解消後、中国共産党は南昌蜂起を皮切りに武装蜂起を展開し、一時期は中華ソビエト共和国を樹立したが、国民革命軍の掃討戦に敗れて長征を実施し、1936年以降は延安を拠点とした。1936年西安事件を機に南京国民政府の攻撃が衰え、1937年日中戦争が勃発すると、中国共産党は国民政府と第二次国共合作を行い、紅軍の一部が八路軍新四軍として国民革命軍に編入された。

日中戦争終結後、双十協定が結ばれたものの、1946年には再び国共が内戦状態となった。内戦中に南京国民政府がアメリカからの援助打ち切りと失政で弱体化すると、中国人民解放軍中華民国軍の主戦力を三大戦役中国語版で殲滅することに成功し、1949年4月の首都・南京占領で中国共産党は南京国民政府に対する勝利を決定的なものとした。その後、中国共産党は中華民国に代わる「新しい中国国家」樹立の為の準備を進め、同年9月に初の中国人民政治協商会議を開いて「新中国」樹立に係る諸事項を決定し、同年10月1日中華人民共和国開国大典中国語版を開催して毛沢東が「新中国」たる中華人民共和国の樹立を宣言した。

中華人民共和国樹立の時点で、蒋介石率いる中華民国政府は未だ中国大陸華南三省と西南部三省の多数の地域を統治していた。だが、中国人民解放軍の攻勢によって同年12月に国民党進駐中であった台湾に逃れ、人民解放軍は翌1950年5月までに福建省浙江省[25]の一部島嶼を除く中国大陸と海南島をした。ただし、台湾に政府機能を移転した中華民国政府は1950年以降も台湾国民政府として存続し、台湾とその他島嶼からなる地域(台湾地区)は2018年現在に至るまで中華民国政府の実効支配下にある。

経済面において、1842年1949年の清・中華民国時代の中国では外資が中国の近代化を推進した。19世紀末には香港上海銀行露清銀行インドシナ銀行といった欧州資本が進出してきたが、20世紀に入ると門戸開放政策によってアメリカ資本も参入してきた。このアメリカ資本とは、例えば第一次世界大戦中やってきたフランク・ヴァンダーリップ(Frank A. Vanderlip)やJPモルガンのAIC(American International Corporation)、または第二次世界大戦直後に上陸したアメリカン・インターナショナル・グループである。一方、四大家族が中華民国と中華人民共和国を政治と経済の中枢で関係させ、アメリカのチャイナ・ロビーが台湾に働きかけた。今日の中華人民共和国がグローバル化した背景である。

毛沢東時代

1949年、天安門にて中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東

中華人民共和国は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代1949年 - 1978年)と鄧小平時代以降(1978年 - )の2つの時代に分類することができる。

毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。中華人民共和国の建国後、毛沢東は毛沢東思想に基づき、中国共産党を軸にした世界革命路線を推進した。1951年にはソ連から旅順港大連港南満州鉄道が返還される[26]1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍を阻止した。このような力は必ずしも政治だけのものではなかった。三反五反運動が体制を浄化することに成功したことも忘れてはならない。中華人民共和国は、毛沢東の指導の下で大躍進政策核開発を行った。1959年のチベット蜂起を鎮圧し、1962年にはインドと武力衝突した(中印国境紛争)。

1949年の中華人民共和国成立後、「向ソ一辺倒」の下で中ソ両国は友好関係を保っていたが、1956年フルシチョフ第一書記によるスターリン批判後、西側諸国との平和共存路線を図るソ連と自由主義世界との妥協を拒否する中華人民共和国との間で中ソ対立が生じ、中国を支持したエンヴェル・ホッジャが指導するアルバニアと共にソ連から世界の共産主義運動の主導権を奪おうとし、1969年には両国の国境地帯に位置した珍宝島/ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争が勃発した。また、内政では大躍進政策の失敗によって失脚していた毛沢東が、1966年より経済の立て直しを巡る対立からプロレタリア文化大革命(文革)を発動し、官僚化した中国共産党を打倒しようと呼びかけた毛沢東の訴えに紅衛兵が呼応したため、「造反有理」、「革命無罪」の呼号の下、宗教関係者などの「反革命」派と目された人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱状態となった。内モンゴルの先住民族に対しては内モンゴル人民革命党粛清事件などの粛清を行った[27]

外交では1971年の第26回国際連合総会にて採択されたアルバニア決議の結果、それまで国際連合常任理事国だった中華民国に代わって国連安全保障理事会常任理事国となった。また、ソ連との関係では中ソ対立が継続していたため、1972年2月21日リチャード・ニクソン大統領訪中を契機にソビエトと対立するアメリカ合衆国との関係が緩和され、同年9月29日には日本田中角栄首相と日中国交正常化を果たし、ソ連の影響から離れて資本主義諸国との関係を改善した。以後、西側諸国から経済支援を受け、国際社会に強い影響力を持つことに成功した。1974年には南シナ海に侵攻し、当時の南ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。文化大革命は1976年の毛沢東の死と共に終結した。その後、「二つのすべて」を掲げた華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月の第11期3中全会鄧小平が実権を掌握した。

鄧小平時代

1978年より始まる鄧小平時代以降の中華人民共和国は、鄧小平理論に基づいて政治体制は中国共産党による一党体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた(中国特色社会主義中国語版)。中ソ対立の文脈の中で、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争によってカンプチア救国民族統一戦線ベトナム人民軍民主カンプチアに侵攻し、1979年1月に中国が支援するカンボジアポル・ポト政権を打倒すると、1979年2月には親中派の民主カンプチアを打倒した親ソ派のベトナムに侵攻した(中越戦争)。その後もソ連派のベトナムとの関係は悪く、1984年には再びベトナムと中越国境紛争を戦い、1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。

1980年代以来の経済の改革開放の進展により、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年六四天安門事件での対応などはその一例である。当時のソビエト連邦(ソ連)ではミハイル・ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカにより、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとされていたが、鄧小平の自由化は、経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で民主化要求の大規模な政治運動である六四天安門事件が起こる。なお、フランス流学歴のある鄧小平は、包玉剛を通じて香港上海銀行と関係していた。

江沢民から胡錦濤

天安門事件から江沢民が台頭した。1992年、それまで「従業員と企業が保険料を社会統括基金に全額上納していた」年金制度を改め、上納先に個人口座が加えられた[28]。1998年に投資信託制度が開始された[29]。2001年に国内の資産運用会社は社会保障基金の運用管理業務を認められた[29]。2002年、中国は適格海外機関投資家に対して上海・深圳市場でのA株売買を認めた。2005年、資産運用会社は企業年金の運用管理業を認められた[29]。2006年、適格海外機関投資家の国内証券市場投資がルール化された。2007-8年、資産運用会社は投信運用管理業務と一般法人投資顧問業を認められた[29]。2009年現在、適格海外機関投資家のトップ10は、首位からUBSシティグループフォルティスグループクレディ・スイス日興アセットマネジメントドイツ銀行モルガン・スタンレーHSBC野村證券INGグループである[30]。全部で85機関が認定されており(同年7月現在)、アビバのような保険会社もふくまれている。中国の人口、すなわち年金市場は、国家支配を脱却したまでは良かったが、適格海外機関投資家をふくむ資産運用会社が大衆貯蓄をシャドー・バンキング・システムに振り向ける構造へ変わった。人口の高齢化は企業の抱える年金債務を増やしたので、官民挙げて一人っ子政策を緩和し保険料収入の増加に努めている。

習近平の時代

2012年11月15日 - 習近平中国共産党中央委員会総書記中央軍事委員会主席に選ばれる。

地理

国土の外観

中国の地形を示す合成衛星画像

中華人民共和国はアジア大陸の東部、太平洋の西海岸に位置し、国土は9,634,057km²とロシアカナダに次ぐ面積であり、世界第3の大きさである[31]。領土は北は漠河以北の黒竜江(アムール川)の中軸線から、南は南沙諸島の一部まで。東は黒竜江とウスリー川の合流する地点から、西はパミール高原まで広がっている。主要河川として黄河長江があり、それぞれ黄河文明長江文明を育んだ自然の恵みでもある。陸地の国境線は2万2800キロで、東は朝鮮民主主義人民共和国、北はモンゴル、北東はロシア、北西はカザフスタンキルギスタンタジキスタン、西と南西はアフガニスタンパキスタンインドネパールブータン、南はミャンマーラオスベトナムと接している。

東部と東南部は韓国日本フィリピンブルネイマレーシアインドネシアと海を挟んで接している。海岸線は約1万8000キロで、中国大陸の東部は渤海黄海東シナ海に、南部は南シナ海に臨んでいる。海域には5,400の島が点在する。これらの島嶼では南沙諸島西沙諸島台湾、フィリピンのミスチーフ環礁、マレーシアのラヤンラヤン島の領有権も主張している。その一部は既に武力支配され、周辺国から反感を買い警戒されている。島嶼以外ではチベットウイグルの独立問題の他、インドアクサイチンアルナーチャル・プラデーシュ州の領有も主張している。

交通機関

中国の交通は運河と海路を長大な歴史にわたり活用し発展してきた。満州は現代史の一定期間だけ自転車天国だったかもしれないが、中国全体の交通事情をそのように想像するのは大きな誤解となる。中華人民共和国の鉄道の一部は列強による中国分割の途中に敷設されたものがある。国有化されても影響は残るものである。それはロシアの鉄道にフランス資本が注入されたケースに共通する。中国にもフランス資本は直接・間接に導入された。自動車道も鉄道沿線に網を張った。中国の国道は経済格差を反映し東部で密に整備されている。中華人民共和国の高速道路は外資がなだれこんだ2003年から整備が進んだ。


チベット自治区・青海省その他のチベット東部

民国期(1912年-1949年)のチベットは、アムド地方(=青海省,甘粛省の西南部など )を抑える馬一族回族政権、カム地方の東部(=西康省を抑える劉文輝政権、中央チベット(=西蔵,ウー・ツアン地方とカム地方西部)を抑えるガンデンポタンなどが割拠する状況であった。馬歩芳は人民解放軍に逐われて1949年8月に地盤の甘粛青海を放棄し、重慶香港経由でサウジアラビアに亡命、劉文輝は、「建国」後の1949年12月に中華人民共和国に投降した。

1950年に中国政府は人民解放軍を中央チベットに向けて派兵、チャムド戦役を経て同年中にカム地方西部を制圧、翌1951年、残るウーツァン地方も制圧、ガンデンポタンとの間にいわゆる「十七ヶ条協定」を締結(「西蔵和平解放」)、この協定のもと、ガンデンポタンは「西蔵地方政府」と位置付けられた。

この協定では、「西蔵には改革を強制しない」と規定されていたが、「西蔵」の外部(=ガンデンポタンの管轄外)に設置された青海省甘粛省甘南州四川省ガパ州(=アムド地方)、四川省のカンゼ州・雲南省のデチェン州(=カム地方の東部)などでは「民主改革」とよばれる土地制度をはじめとする各種の社会制度改革が1955年より開始された。世襲の領主制、一部名望家による大規模な土地所有、牧畜群所有などに対する改革は民衆の歓迎をうけたが、寺院財産に手が付けられるに及び中国統治への反感は一挙にたかまり、1956年より、アムド地方・カム地方における一斉蜂起がはじまった。この蜂起により、中国の統治機構は一時的に青海省その他のチベット東部地方各地から一層されたが、中国人民解放軍による反撃がただちに開始され、チベット東部地方の旧指導層や民衆は、難民となって、ガンデンポタンのもとまだ平穏をたもっていた「西蔵」に逃げ込んだ。

1959年に「農奴制革」に反発したチベット人貴族・僧侶「農奴制革」が蜂起(=「チベット動乱」)した。しかし中国軍の強力な反撃により弾圧され、ダライ・ラマ14世は多数の元貴族と共にインドへ脱出して、亡命政府を樹立した。現在ダライ・ラマ率いるチベット亡命政府が中国共産党に対してチベットの独立を要求している。 2008年3月14日には、チベット自治区ラサで、中国政府に対する僧侶を含む多数の一般市民の抗議行動が激化し、中心部の商店街から出火、武装警察(中国人民武装警察部隊)などが鎮圧に当たり多数の死傷者が出た。チベット亡命政府によると確認されただけで死者は少なくとも80人はいると発表された[32]。それと同時に世界各国の中国大使館前でも中国政府への抗議活動が繰り広げられた[33]

アメリカのバラク・オバマ大統領は、チベット仏教の最高指導者の一つであるダライ・ラマ14世と4回にわたって会談を行っており、2016年6月15日には中国外務省がチベットの分離独立を後押しするダライ・ラマ14世の主張に正統性を与えかねないとしてアメリカ政府を厳しく批判した[34]。6月26日には、レディ・ガガがダライ・ラマ14世と意見交換をし、中国政府は不快感を表明した[35]

新疆ウイグル自治区 

新疆ウイグル自治区東トルキスタン)の分離・独立を目指す組織勢力が国内外に多数存在しており、アメリカ東トルキスタン亡命政府を樹立するなど活動を行なっている。2009年ウイグル騒乱では、約200人の住民(新華社によると主に漢族)が殺害された[36][37]。ウイグル独立団体の主張によると、2014年7月に発生した暴動でも、ウイグル人が大量に殺害されている[38]当局は情報統制を敷いており事件の真相は不明だが、当局側は59人の射殺を認めている[39][37]。2015年12月1日には、政府系メディアなどが対ウイグル族政策で批判的記事を書いた外国人記者に対して個人攻撃をおこなったことについて、中国外国人記者会が深い懸念を表明した[40](12月26日には、この外国人記者が国外退去処分となった[41])。

2015年7月9日、 タイ政府が中国からの保護を求めて2014年3月に入国した300人以上のウイグル人のうち約100人を中国に強制送還したことが国際問題となった。保護を求めたウイグル人は、タイやマレーシアなどを経由してトルコへ渡ることを目指しており、国連はタイ政府の対応を非難[42]亡命したウイグル人が多く暮らすトルコでは、イスタンブールで抗議デモが発生した。また、米国政府は中国に対して「国際的な人権基準に基づいて適切に対応するよう求める」と牽制した[43]。また、エジプトでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることも問題となっている[44]

政治

国家の統治体制

全国人民代表大会議事堂である北京市の人民大会堂

憲法より上位の存在である中国共産党と憲法を拠り所とするその衛星政党(「民主党派」)以外の政党は認められておらず、国民には結党の自由がない。

立法機関として全国人民代表大会が置かれ、行政機関として、国務院が、司法機関として、最高人民法院最高人民検察院が存在する。法律上は全国人民代表大会に権限が集中する。この他に衛星政党や各団体、各界の代表なども参加する中国人民政治協商会議が存在するが、「国政助言機関」[45]であって法律の制定権などは持っていない。三権分立の相互抑制メカニズムは存在しない(民主集中制)。

実際には国政を動かすのは中国共産党であり、共産党の最高指導集団である中央政治局常務委員会が権力を掌握する構造となっている。最近では法治を重視する政策の下、一定の役割を果すようになってきている。

習近平共産党総書記と李克強国務院総理

2017年10月現在の最高指導グループである第19期中国共産党中央政治局常務委員は以下の通り。

  1. 習近平 - 序列第1位 党総書記国家主席中央軍事委員会主席、国家軍事委員会主席
  2. 李克強 - 序列第2位 国務院総理(首相)
  3. 栗戦書 - 序列第3位 全人代常務委員長(国会議長)
  4. 汪 洋 - 序列第4位 全国政協主席
  5. 王滬寧 - 序列第5位 党中央書記処書記
  6. 趙楽際 - 序列第6位 党中央規律検査委員会書記
  7. 韓 正 - 序列第7位 国務院副総理(副首相)
  8. 王岐山 - 序列第8位 国家副主席

一国二制度

1997年イギリス統治から返還された香港1999年ポルトガル統治から返還されたマカオは、一国二制度(一国両制)の下、特別行政区として高度な自治権を有する。香港基本法により、高度な自治、独自の行政、経済および法制度を持ち、本土の法律は一部を除いて適用されない。間接選挙であるが、行政長官選挙が行われ、立法会では一部議員を直接選挙で選出している。さらに、参加資格を主権国家に限定していない国際組織への加盟や国際会議への参加も可能である。

地方行政区分

2017年現在、中華人民共和国の行政区分台湾省を含む23の省、5つの自治区、4つの直轄市、及び2つの特別行政区から成る。中国政府は地方政府独自の旗を禁止しており特別行政区の香港、マカオを除き独自の旗を持っていない。[46]

新疆ウイグル自治区チベット自治区青海省甘粛省四川省雲南省寧夏回族自治区内モンゴル自治区陝西省重慶市貴州省広西チワン族自治区山西省河南省湖北省湖南省広東省海南省河北省黒竜江省吉林省遼寧省北京市天津市山東省江蘇省安徽省上海市浙江省江西省福建省香港特別行政区マカオ特別行政区台湾省 (中華人民共和国)
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国家機関

警察

毛沢東の肖像画が掲げられた天安門における中国人民武装警察部隊員
公安部
武装警察部隊
その他

国際関係

中華人民共和国の外交関係一覧図。緑色で塗られた諸国は中華人民共和国と国交を有し、赤色で塗られた諸国とは国交を有してない。黄土色で塗られた地域は係争地。

中華人民共和国の国際関係において特筆すべきことは、同国政府が中華民国政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であると主張している点である。

中華人民共和国は、冷戦構造の下、建国当初は完全に東側陣営に組み込まれていた(向ソ一辺倒)。しかし、1956年スターリン批判後の中ソ対立で決裂した。このころの中華人民共和国は、アジア・アフリカ会議非同盟運動に関わるなど第三世界と連携した。

東側諸国や第三世界の支持も集めた国際連合総会に於けるアルバニア決議によって国連安保理の常任理事国となって中華民国を国連から追放させることに成功し、さらにアルバニア決議に反対した日米にも接近して1972年ニクソン大統領の中国訪問日中共同声明採択によってアメリカ合衆国と日本を始めとする西側諸国との関係の回復を果たした。

また、3つの世界論を掲げて冷戦下における西側諸国と東側諸国との微妙なバランスをとりつつ、「中国を代表する正当な政府は中華民国ではなく、中華人民共和国である」とする一つの中国政策を東側だけでなく、西側諸国の多くに確認させることも成功を収めた。

1978年から始まる改革開放路線以降、経済面での資本主義諸国との関係も強め、2001年には世界貿易機関(WTO)にも加盟した。近年、APECやASEANプラス3の他、ロシア中央アジア諸国と連携を強化し(上海協力機構、SCO)、また、東南アジア諸国ともASEAN自由貿易地域FTAを締結、さらには中華民国ともFTAを締結するなど、経済活動を絡めた積極的な地域外交を展開している。日本に対しては胡錦涛政権は、対日新思考を打ち出した。

区分としては開発途上国に含まれるため、国際会議等で「開発途上国の代表」と表現されることがある。また開発途上国のため、日本などの先進国から長年に渡り膨大な開発援助を受けているが、一方で他のさらに貧しい国に対して、国際的影響力を確保することを目的として開発援助を行っている。例えば、アフリカ連合本部は中国政府の全額負担で建設された。

急速な経済成長を遂げ、中国人民解放軍の軍備拡張を続ける中華人民共和国に対して、周辺諸国やアメリカは警戒感を持ち(中国脅威論)、また、人権問題・両岸問題・国境問題など、中華人民共和国の国際関係は緊張をはらむ側面もある。

アメリカ

中国はアメリカを最大の諜報活動の対象としているとみられ、国家安全省の他に中国共産党中国人民解放軍、国有企業もその活動に加わることがある。米国政府の国家情報会議のジョエル・ブレナー(Joel F. Brenner)専門官は「米国を標的として活動する140カ国ほどの諜報機関でも、中国が最も活発」と述べた。また中国のスパイ活動研究の権威として知られるデービッド・ワイズは、軍事面でも超大国を目指す中国はアメリカを追い越すために軍事機密を標的にしていると指摘し、近年ではF-35戦闘機の機密や核弾頭の軽量化技術を奪取したと述べた[50]。また、2005年7月、中国人民解放軍の朱成虎少将は、「米国が台湾海峡での武力紛争に介入し中国を攻撃した場合、中国は対米核攻撃に踏み切る用意がある」と発言した[51]

2015年5月、中国が南沙諸島で建設中の人工島を米偵察機が偵察した[52]。この事件をめぐって、両国は2001年4月に米中両軍機が南シナ海上空で衝突して以来の緊張状態となった。米政府は、スプラトリー諸島(南沙諸島)の12海里以内に米軍機を進入させる可能性を表明しており、中国外務省は「言動を慎むよう求める。私たちは関係地域に対する監視を密にし、必要に応じて適切な措置を取る」と反発した[53]。なお、7月末にマレーシア航空370便墜落事故の残骸の一部が発見された。

以前はパナマは台湾と外交関係があり中国とは国交がなかったが、中国は、米国の「裏庭」ともいわれるカリブ海に出ることを念頭に国交を樹立し、パナマ最大のマルゲリータ島港を99年租借する契約を交わした[54]

中華民国(台湾)

「両岸」とは台湾海峡を挟んだ中国本土台湾の海岸を指しており、そこから「両岸関係」は台湾を実効支配する中華民国と中華人民共和国との関係を指す言葉となっている(二つの中国)。

1946年から激化した国共内戦に勝利した中国共産党1949年に中華人民共和国を中国に建国、同年中に国民政府は、日本が領有権を放棄した後に実効支配した台湾に移った。それ以来、中華人民共和国は中華民国と「中国における正統政府」の座を巡って対立し、両国共に互いの統治する地域の支配権を主張して譲らなかった(台湾問題)。

そのために、中華人民共和国政府は国際連合における「中国」代表権を求めて諸外国に外交的に働きかけた他、「中華民国政府が実効統治している台湾を中華人民共和国の領土」と見なして領有権を主張し、「台湾解放」の名の元に金門島への砲撃を度々行った。その後、冷戦下におけるアメリカとソ連の間の対立や、ソ連と中華人民共和国の対立の激化などの政治バランスの変化に伴い、中華民国が国連の「中国」代表権を喪失して国際的に孤立し、中華人民共和国も改革・開放を推進するようになると、中華人民共和国政府は「一国二制度」といった統一の枠組みの提案や「三通政策」といった穏健的な統一政策を通じて両岸関係の改善を図った。1992年には両国政府関係者が「一国共識、各自表述(「一つの中国」を共通認識とするが、解釈はそれぞれが行う)」の統一原則を確認するまでに至った。

だが、1990年代に入ると、中華民国では李登輝中華民国総統による政治体制の民主化が進められ、それに伴い中華民国では、中華民国とは別個の「台湾」という国家を創り上げる台湾独立運動(台独運動)が活発化し始めた。このような動きに対し、中華人民共和国は総統選挙1996年から実施)における台独派(泛緑連盟)候補者の当選阻止を目指して軍事演習で威嚇するなど強硬姿勢をとった。しかし、いずれの選挙においても阻止するには至らなかった。

このことを教訓としてか、2005年3月14日には中華人民共和国で反国家分裂法が成立した。この法律は中華人民共和国による中華民国の武力併合に法的根拠を与えることを名目とする。こうした経緯で、今日の中華民国と中華人民共和国の関係は、台湾問題として東アジア地域の不安定要素と見る見方も一部で存在する。中華民国にも「台独」に反対する「中国派」の人々(泛藍連盟)が存在している。こうした動きにおいては、中国国民党が有力な存在である。国民党党首・連戦は、2005年4月26日5月3日にかけて中華人民共和国を訪問、共産党党首・胡錦濤と60年ぶりの国共首脳会談を実施した。

2010年に台湾との間で両岸経済協力枠組協議(ECFA)が締結されたが、サービス貿易協定は4年後批准を拒まれた(ひまわり学生運動)。

日本

日中関係史は古代からのものであるが、現在の日本国と中華人民共和国の外交は1972年9月29日の日中共同声明に始まる。その後両国は1978年8月12日、日中平和友好条約を締結した。日本国と中華人民共和国はサンフランシスコ条約に署名していないため日中平和友好条約が両国にとってのはじめての条約締結となる。

両岸関係がシーレーンの安否に関わる。中国産食品の安全性は輸入量と後述の環境汚染と関係して問題となる。

領土問題

中華人民共和国及び近隣諸国間の領土問題を示した地図

インドブータンを除く12カ国(ロシアなど)とは陸上国境の画定が完了しているものの[55]、島嶼部を巡っては中国の海洋進出に伴い、領土問題を複数抱えている。