さがけん
佐賀県
Yoshinogari-iseki zenkei.JPG
佐賀県旗
佐賀県旗
佐賀県紋章
佐賀県紋章
シンボルマーク
シンボルマーク
日本の旗 日本
地方 九州地方
団体コード 41000-4
ISO 3166-2:JP JP-41
面積 2,440.68km2
総人口 819,110
推計人口、2018年10月1日)
人口密度 336人/km2
隣接都道府県 福岡県長崎県
県の木 クスノキ
県の花 クスの花
県の鳥 カササギ(カチガラス)
県の歌 県歌「佐賀県民の歌
さが・ふるさとの歌「栄の国から
佐賀県準県歌「風はみらい色
佐賀県庁
知事 山口祥義
法人番号 1000020410004
所在地 840-8570
佐賀県佐賀市城内一丁目1番59号
北緯33度14分57.9秒東経130度17分58.5秒座標: 北緯33度14分57.9秒 東経130度17分58.5秒
佐賀県庁
外部リンク 佐賀県
佐賀県の位置

佐賀県行政区画図

― 市 / ― 町

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佐賀県(さがけん)は、日本九州地方の北西部にあるである。県庁所在地佐賀市

唐津伊万里有田などは古くから陶磁器の産地として有名。玄界灘有明海の2つの海に接する。令制国肥前国東部に相当する。明治府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。九州地方の中で最も経済規模が小さい。

地理・地域

日本の中では西部(西日本)あるいは南部(南日本)に位置しており、九州地方の中では北部(北部九州)または西部(西九州)に位置している。人口面積共に九州7県の中では最も少なく、また人口・面積ともに全都道府県中42番目である。しかし人口密度は全都道府県中16番目と中位にあり、九州でも2番目に高い。

県内の地域区分は佐賀藩唐津藩に二分されていた歴史的経緯から、唐津市を中心とした北部(北西部)と佐賀市を中心とした南部(南東部)に分ける2区分が最もよく用いられる。より細かく分ける場合は、北部・東部・西部の3区分や三神・佐城・杵藤・唐松・伊西の5区分が用いられる。

県名の認知度調査においては2002年(平成14年)の調査結果では(小学校4年生~小学6年生対象)第44位、2004年(平成16年)の調査結果では(中学生対象)で第30位となっている[1]

地勢

県の形は凹凸のある逆三角形に近い。北西部はリアス式海岸砂浜玄界灘、南東部は干潟干拓地有明海という、海岸の様子が全く異なる2つの海に接している。有明海沿岸から筑後川沿いには県の面積の3割を占める佐賀平野が広がり、玄界灘から佐賀平野西部までは杵島丘陵などの丘陵地帯である。北東部に脊振山地、南西部に多良岳山系といういずれも1,000m級の山地があって丘陵地帯を挟んでいる。

人口が多いのは佐賀市(約24万人)、唐津市(約13万人)、鳥栖市(約7万人)など。県面積の3分の1を占める南東部の佐賀平野に県人口の半数である40万人が暮らしている一方、玄界灘沿岸や杵島丘陵の盆地にも人口集積があって、平地に偏っていることを除けば人口分布に大きな偏りはない。総人口に占める DID(人口集中地区)人口の比率が28.4%(2005年国勢調査)と島根県に次いで47都道府県中2番目に低く、人口が都市に偏らず比較的分散している傾向にある。土地利用の特徴として耕地が県面積の39%に上り国内平均の2倍と高い割合である一方、森林・荒地は同49%と国内平均の7割に留まっていて、相対的に平野の割合が高いという地形の影響が現れている。

県北東部を東西に連なる脊振山地は、唐津市浜玉町から鳥栖市までその稜線が福岡県との県境になっている。鳥栖市で山脈は途切れるが、その延長線には福岡県の耳納山地が延びている。鳥栖市・基山町は隣接する久留米市とともに山地の合間にあり、北の福岡平野と南の筑紫平野を結ぶ道路網・鉄道網の分岐点となっている。交通の要所かつ工業地域で福岡都市圏ベッドタウンでもあるため、住宅開発が進んでおり人口減少が続く県内では例外的に人口増加率が高い。山地は南方に広がっていて、県中央部に位置する天山まで連なっている。

脊振山地の南麓は緩やかな洪積台地からなる細長い丘陵地帯で、それより南側には幅の広い平坦な沖積平野である佐賀平野が東西に広がっていて県の東部から中央部を占める。佐賀平野は筑紫平野の西半分を指す別名で、古くより穀類の生産が多い穀倉地帯である。筑紫平野の中央を縦断する筑後川が福岡県筑後地方筑後平野)との境である。平坦な低地が内陸まで広がり大小多数の河川が流れるため20世紀半ばまで洪水被害が頻発していたが、治水が進んだことにより現在は被害が大きく抑えられている。佐賀平野の南には有明海があり、遠浅の広い干潟が広がり干潟独特の生物相がみられる。沿岸には江戸時代以降の干拓により造成された地域が分布している。県内の干拓面積は江戸時代から累計100km2前後に達しており、佐賀平野の1割・県面積の4%程度に達する。

北西部は日本海東シナ海の接続水域である玄界灘に面する。海に突き出た東松浦半島(上場台地)や北松浦半島玄武岩で構成された溶岩台地であり、温暖で部分的に照葉樹林も分布する。リアス式海岸半島離島が点在、唐津湾伊万里湾には砂浜が分布する。この一帯の海岸沿いは玄海国定公園に指定され、唐津城呼子などの海沿いの観光地がある。

玄界灘沿岸の河口低地より南側、県南西部には杵島丘陵が広がり、長崎県との県境をなす多良岳山系へと続く。杵島丘陵には芳ノ谷層(始新世)や佐世保層群(漸新世後期)の石炭を含む層(挟炭層)があり、かつて炭鉱として栄えたが閉山により急速な地域衰退と人口減少を経験した。また、有田泉山で陶石が採れたことをきっかけに創始された伊万里焼有田焼)は、県を代表するブランドである。武雄温泉や嬉野温泉などの温泉街も点在する。

多良岳が活動していない火山であるほかは、県内に火山はない。地震の被害を受けることは少ないが、梅雨などの大雨による洪水台風の被害は多い。また、森林面積の3割強を占める自然林二次林のほとんどが常緑広葉樹林で、玄界灘沿岸部には照葉樹林も見られる。残りの7割弱はスギヒノキを中心とする人工林で、森林面積に占める人工林率66%(2002年)は日本の都道府県の中で最も高い。

国内最大の干潟を有する有明海鹿島市 七浦海岸)
県内の主要地形・自然公園
県の領域
隣接する都道府県
  • Flag of Fukuoka Prefecture.svg福岡県
  • Flag of Nagasaki Prefecture.svg長崎県
  • 佐賀県は、日本の中では比較的気候が温暖であるが、冬の寒さは緯度の割りには厳しく、東京よりも寒い。2016年1月25日には県内全観測地点で真冬日を観測した。日本を広域的に見た場合、県内全域が太平洋側気候に入るが、北部の玄界灘沿岸部は曇が多いが、降水量の面で日本海側気候とは明確に異なる。台風の通過・被害が多いが、九州のほかの県と比べると少ない方である。県内の気候は大きく3つに分かれる。

    佐賀市を中心とした南部の平野部
    夏に降水量が多く、冬は少ない。年間を通しても降水量1800mm程度である。気温は熊本市などの盆地に近い傾向で、1日の気温差が大きい傾向にあり、夏は暑さが厳しく猛暑日、熱帯夜が多い。平野部は海抜が低いため水害(洪水)が多いほか、有明海から吹き付ける塩分を含んだしぶきが塩害を発生させることも多い。また、内陸のため冬季を中心に乾燥しやすい。
    唐津市、伊万里市などの北部の玄界灘沿岸
    夏も降水量が多いが、冬も季節風の影響で降水量が比較的多く降雪も年に数回記録される。海洋性気候を呈し、1日の気温差が小さい傾向にあり、猛暑日や冬日は少ない。
    嬉野市嬉野地区、佐賀市三瀬地区などの山間部
    三瀬地区で年間降水量約2400mmとなっており、全体的に降水量は多く、特に夏に多い。1年の気温差、1日の気温差がともに大きい。冬は県内では特に低温となり、雪やの日数も多い。平年の天山の初冠雪は12月4日[2]
    佐賀
    伊万里
    嬉野
    左記:1981-2010平年値
    佐賀県内各地の平年値(統計期間:1971年昭和46年) - 2000年平成12年)、出典:気象庁・気象統計情報
    平年値
    (月単位)
    北部 南部
    唐津市
    枝去木
    唐津 伊万里 佐賀 佐賀市
    川副
    白石 嬉野
    平均
    気温
    (°C)
    最暖月 25.4
    (8月)
    26.7
    (8月)
    27.4
    (8月)
    27.1
    (8月)
    26.1
    (8月)
    最寒月 5.3
    (1月)
    5.1
    (1月)
    5.2
    (1月)
    4.7
    (1月)
    4.1
    (1月)
    降水量
    (mm)
    最多月 324.3
    (7月)
    389.3
    (6月)
    362.8
    (6月)
    369.7
    (6月)
    446.8
    (6月)
    最少月 56.5
    (12月)
    53.9
    (12月)
    42.4
    (12月)
    43.0
    (12月)
    50.9
    (12月)

    自治体

    地域区分

    現在佐賀県内には10610、併せて20市町がある。2004年(平成16年)12月時点では7市8郡38町4村の計49市町村だったが、市町村合併により、最後の合併が行われた2007年(平成19年)10月1日に現在の数となって市町村数は半分以下に減少した。合併ですでになくなった市町村については、佐賀県の廃止市町村一覧を参照のこと。

    なお、2006年(平成18年)3月20日に脊振村が神埼市になったのを最後に、佐賀県内の村は全て消滅した。佐賀県では、江北町が「まち」としている他は、「町」はすべて「ちょう」と読む。

    都道府県別の面積順位が42位と小さな県であり県全体を一つの地域とすることも多いが、大きく分ければ佐賀平野を中心とした南部と東松浦半島を中心にした北部に分けられる。また、さらに細かい区分では佐城(佐賀市・小城市・多久市)三神(鳥栖市・神埼市・三養基郡・神埼郡)杵藤(武雄市・鹿島市・嬉野市・杵島郡・藤津郡)唐松(唐津市・東松浦郡)伊西(伊万里市・西松浦郡)の5地区に分けることが多い。

    県内自治体の一覧と諸元
    市町村
    コード
    市町村 面積 (km2) 人口(人) 人口密度
    (人/km2
    41201 佐賀市 - 431.84 234,342 543
    41202 唐津市 - 487.59 119,208 244
    41203 鳥栖市 - 71.72 74,137 1,034
    41204 多久市 - 96.96 18,880 195
    41205 伊万里市 - 255.25 53,955 211
    41206 武雄市 - 195.40 48,261 247
    41207 鹿島市 - 112.12 28,561 255
    41208 小城市 - 95.81 43,717 456
    41209 嬉野市 - 126.41 26,349 208
    41210 神埼市 - 125.13 31,306 250
    41327 吉野ヶ里町 神埼郡 43.99 16,338 371
    41341 基山町 三養基郡 22.15 17,371 784
    41345 上峰町 三養基郡 12.80 9,364 732
    41346 みやき町 三養基郡 51.92 25,229 486
    41387 玄海町 東松浦郡 35.92 5,518 154
    41401 有田町 西松浦郡 65.85 19,563 297
    41423 大町町 杵島郡 11.50 6,397 556
    41424 江北町 杵島郡 24.49 9,519 389
    41425 白石町 杵島郡 99.56 22,802 229
    41441 太良町 藤津郡 74.30 8,293 112
    面積は2014年10月1日時点の国土地理院全国都道府県市区町村別面積調』による。なお、※は境界未定のある市町。人口は2018年10月1日時点の推計人口
    広域市町村圏
    • 佐賀地区広域市町村圏 - 佐賀市、多久市、小城市、神埼市
    • 唐津・東松浦広域市町村圏 - 唐津市、玄海町
    • 鳥栖地区広域市町村圏 - 鳥栖市、上峰町、基山町、吉野ヶ里町、みやき町
    • 伊万里・北松地域広域市町村圏 - 伊万里市、有田町
    • 杵藤地区広域市町村圏 - 武雄市、鹿島市、嬉野市、白石町、大町町、江北町、太良町
    地方拠点都市地域
    • 佐賀地方拠点都市地域 - 佐賀市、多久市、小城市、神埼市
    • 唐津・東松浦地方拠点都市地域 - 唐津市、玄海町

    都市圏

    県内の都市を中心市とする都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷

    1980年 1990年 1995年 2000年 2005年 2010年
    佐賀 都市圏
    366499人
    佐賀 都市圏
    374637人
    佐賀 都市圏
    379865人
    佐賀 都市圏
    410326人
    佐賀 都市圏
    413320人
    佐賀 都市圏
    405062人
    唐津 都市圏
    138271人
    唐津 都市圏
    131376人
    唐津 都市圏
    138829人
    唐津 都市圏
    135305人
    唐津 都市圏
    137854人
    唐津 都市圏
    133305人
    伊万里 都市圏
    74066人
    伊万里 都市圏
    74180人
    伊万里 都市圏
    73483人
    伊万里 都市圏
    71913人
    鳥栖 都市圏
    110769人
    鳥栖 都市圏
    113086人
    - - 鳥栖 都市圏
    66494人
    鳥栖 都市圏
    69790人
    伊万里 都市圏
    70666人
    伊万里 都市圏
    78090人
    出典:金本, 2015年12月時点の公表値[3]による。
    県内自治体が福岡県の自治体を中心市とする福岡都市圏久留米都市圏に含まれていた年度もあるが、この表からは除外した。

歴史

県名の由来

県名である「佐賀」は、1871年(明治4年)の廃藩置県の際県庁所在地となった佐賀郡から採られた。古来は「佐嘉」と「佐賀」両方の表記が見られたが、1870年(明治3年)に「佐賀」に統一された。古い「佐嘉」の表記は佐嘉神社などに残されている。

佐賀郡の由来は諸説あり、『肥前国風土記』における楠樹にまつわる「栄の国」伝説や同じく風土記の賢女(さかしめ)伝説によるものがしばしば挙げられる。クスノキは、県内各地に名木が所在し「県の木」に指定されるなど縁が深い。また、傾斜地を指す「坂(さか)」、潮汐作用などで水が逆流する「逆(さか)」、砂丘地を指す「洲処(すが)」の転訛説などもある。

古代

復元された吉野ヶ里遺跡の環濠集落

旧石器時代の遺構がいくつか発見されている。多久市の三年山遺跡茶園原遺跡などでは、近くの鬼ノ鼻山産のサヌカイトを用いた狩猟に特化した尖頭型の石器が出土している。伊万里市の腰岳遺跡群黒曜石の産地で、ここから旧石器時代後期 - 縄文時代に産出された黒曜石が本州 - 沖縄 - 朝鮮半島南部にまで広がっていることが確認されている。また佐賀市の東名遺跡では縄文時代前期にあたる7,000年前の網籠、木製装身具、貝塚等の生活遺構がまとまって出土している。

県北西部の玄界灘に面した地域は福岡県北西部と並んで、大陸方面から伝来した稲作の日本における発祥地域とされ、宇木汲田遺跡では縄文時代晩期の炭化籾、菜畑遺跡では縄文時代晩期の炭化米や水田跡が見つかっている。

魏志倭人伝』に見える「末廬国(まつらのくに)」が現在の唐津地方にあったとされ、大陸由来の青銅器銅器が多数出土する遺跡が点在する。また、吉野ヶ里町神埼市の丘陵地帯には弥生時代の大規模環濠集落である吉野ヶ里遺跡があり、その近辺にも九州北部に特徴的な甕棺墓が多く見つかっている。

また、古墳時代初期の建造の前方後円墳である唐津市の久里双水古墳をはじめ、東松浦地区や佐賀平野北部には幅広い年代の古墳が分布している。665年には基山町と福岡県筑紫野市の境に古代山城の一つである基肄城が築かれ、防人を招集して大宰府防衛線の一角を担った。また同じ頃、武雄市のおつぼ山神籠石帯隈山神籠石などの山城と考えられる遺構も成立している。この頃(7世紀末まで)までには令制国として、今の長崎県本土と佐賀県全域を領域とする肥前国が成立した。

平安時代後期には神埼荘長島荘などの荘園が形成されるようになる。

中世・近世・近代

名護屋城の配置図

鎌倉時代から室町時代にかけて、百以上の氏族が地頭として配置されていたと考えられている。その中でも規模が大きかったのが、九州千葉氏高木氏綾部氏松浦氏少弐氏波多氏後藤氏などであった。また、玄界灘沿岸は松浦党の影響力も強かった。この頃の代表的遺構としては、南北朝時代に建造された大きな環濠を特徴とする平城である、神埼市の姉川城がある。

戦国時代に入ると龍造寺氏が一気に勢力を伸ばし、肥前・肥後北部・筑後・筑前南部まで領地を広げた。しかし、戦国末期には島津氏の攻勢が強まり、沖田畷の戦いによって龍造寺隆信が没するとその勢いを失い領地を少しずつ狭めていく。ただ、豊臣政権による1587年天正15年)の九州国分によって、現在の佐賀県内のほとんどが龍造寺氏の領下に入り版図が決まります。

1591年(天正19年)には東松浦半島に名護屋城が築かれ、文禄・慶長の役の拠点とされた。同城は両戦役の後役目を終え、一部が唐津城築城時に利用されるなどして数年で解体された。一方龍造寺領内では隆信の没後鍋島直茂が国政の代行を行うようになって徐々に勢力を増し、1607年(慶長12年)には龍造寺氏の支配領をほぼすべて鍋島氏が継承して佐賀藩主となった。この前後に両一族の確執があり、鍋島藩の化け猫騒動の話を生み出したともいわれている。一方、唐津藩では波多氏が改易されて寺沢氏に換わり、唐津藩の初代藩主となった。

唐津城

江戸時代には、佐賀藩、その支藩である蓮池藩、鹿島藩、小城藩の3藩、および、唐津藩が置かれていた。そのほか、現在の鳥栖市・基山町付近に対馬府中藩の田代領、唐津市浜玉町付近に同藩浜崎領があり、それぞれ対馬府中藩の飛地となっていた。また、現在の唐津市浜玉町海岸部や唐津市南東部などが幕府直轄領となっていた。

佐賀藩およびその支藩は鍋島氏とその庶流家、龍造寺氏の分家などによる支配が続き、政治的には比較的安定していた。しかし、長崎の警備費用がかさむなどして財政は当初から厳しく、享保の大飢饉1828年(文政11年)のシーボルト台風による甚大な被害はそれに拍車を掛けた。ただ、広大な有明海の干拓によって農地を拡大できるという地の利を生かして江戸時代初期から盛んに干拓を行ったことで、1840年代には約67万石と、200年前の2倍近くにまで石高を伸ばすことに成功している。また、19世紀中頃に入って鍋島直正は財政の建て直しに努め、役人の削減、伊万里焼石炭といった特産品の保護育成に努めた。また、地理的に長崎に近いことや長崎警備を担当していた関係などから海外の情報の入手が比較的容易であったため、反射炉蒸気機関車模型といった先進的な科学技術の実験・研究も進んでいた。

一方の唐津藩は寺沢氏が島原の乱の影響を受けて改易され、その後も領主が大久保氏大給松平氏土井氏水野氏小笠原氏と目まぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。寺沢広高松浦川の改修を行うなどしたが、その後水野忠任の代の1771年(明和8年)には虹の松原一揆が起こるなどした。

佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。明治維新期に活躍した大隈重信副島種臣大木喬任江藤新平佐野常民島義勇の6人に、彼らを育てつつ幕末期に活躍した鍋島直正を加えて『佐賀の七賢人』と称することがある。幕末時に薩長土志士たちが中心であった明治新政府は、戊辰戦争半ばから肥前有志を仲間入りさせ「薩長土肥」体制としたため肥前出身者も明治政府の主要官職を占め続けていたが、藩閥打倒を叫ぶ民権派の影響などもあり大正以降は薩長土同様に藩閥的な勢力ではなくなった。

1871年の大規模府県統合時、旧肥前国の範囲は伊万里県(佐賀県)と長崎県に二分された。このような処分は全国でも2例だけで、他は旧武蔵国埼玉県東京都神奈川県北東部)である。これには、日米修好通商条約で開港の対象となった5港を管轄する県の領域をできるだけ狭く収める目的があったとされている。現在の佐賀県が成立するまで、明治初期には統廃合が繰り返され、1876年(明治9年)には全県が他県に併合される事態も起きた。全県併合の背景には、1874年の佐賀の乱への処分の意味があったと言われている。併合後の根強い復県運動によって、7年後の1883年(明治16年)に佐賀県が復活する[4]

佐賀県成立までの沿革

明治時代には殖産興業の一環として杵島や唐津一帯の炭鉱では機械の導入による増産が進められ、鉄道の建設がそれを後押しした。1889年(明治22年)12月11日に現在の鹿児島本線にあたり県内区間を含む博多 - 千歳川(現在は廃止)間が開業。1891年(明治24年)8月20日には鳥栖 - 佐賀間、1895年(明治28年)5月5日には武雄まで、1897年(明治30年)7月10日に長崎県佐世保市早岐までそれぞれ延伸して現在の長崎本線佐世保線に当たるルートができた。また1898年(明治31年)8月7日九州鉄道西九州線有田 - 伊万里間に当たるルートが開業、1898年12月1日から1903年(明治36年)12月14日にかけて順次現在の唐津線に当たるルートが開業した。1916年(大正15年)には佐賀市に佐賀紡績(後の大和紡績佐賀工場)が設立、1920年には従業員1,500の工場へと拡大するなど、近代化により製造業が発展した。一方では、各地で労働環境の問題なども生じるようになった。

農村では近代化は顕著ではなかったが、1922年の電気灌漑導入をきっかけとして品種改良肥料導入が急速に普及したことでは大幅な増産となり、1933年(昭和8年) - 1935年(昭和10年)には1反(10a)当たり収量日本一を記録、「佐賀段階」と呼ばれ、主産業であった農業の発展とともに人口も増加した。

現代

県内の都市は工業集積が進んでおらず米軍の攻撃の優先順位が低かった上に、太平洋戦争末期の空襲の被害は県内最大の攻撃目標である県都佐賀市への誤爆も重なり近県に比べて少なかったが、戦災を免れた故に都市基盤が旧態依然で戦後の発展も著しいものではなかった。商業の発展があったものの、従事者や生産額ともに依然として第一次産業の比率が比較的高い農業県であった。この頃災害復旧費などの財政支出増加から県財政が悪化し1956年度から財政再建団体に転落、財政再建策としての大規模な教職員削減を背景に佐教組事件が発生するなどしている。1960年代には、治水・灌漑の進展と集落協働による農法改善を原動力とした「新佐賀段階」が起こり、1967年に10a当り収量542kg(全国平均403kg)を記録するなど、農業は発展を見た[5]

しかし、1960年代後半より減反が進んだことで米中心の農業は打撃を受け、加えて炭鉱の閉鎖が加速し、多久・杵島・東松浦などの旧炭鉱地域を中心として、高度経済成長期に急速な過疎化が進んだ。これに対して1970年代以降、農業は米だけではない野菜や果実などへの多品目化に移行し、また佐賀平野では二毛作による麦の生産が浸透して農業の維持を図った。工業では、高速道路の整備以降は高速周辺での工場誘致が各地で起こった。これによって、鳥栖市を中心とした県北東部では集積した製造業が基幹産業へと成長した。1990年代からは半導体自動車部品産業が割合を高めている。

沿革

佐賀城(鯱の門)。1602年築城、1874年佐賀の乱の際に戦闘が行われ建物の大半が失われた。
佐賀線のディーゼルカーと筑後川橋梁(筑後川昇開橋