やまがたけん
山形県
Precincts of Gassan jinja.JPG
山形県の旗 山形県章
山形県旗 山形県章
日本の旗 日本
地方 東北地方
団体コード 06000-3
ISO 3166-2:JP JP-06
面積 9,325.15km2
(境界未定部分あり)
総人口 1,089,806
推計人口、2018年10月1日)
人口密度 117人/km2
隣接都道府県 宮城県秋田県福島県新潟県
県の木 サクランボ
県の花 ベニバナ
県の鳥 オシドリ
他のシンボル 県の魚:サクラマス
県の獣:カモシカ
県民の歌:最上川
山形県庁
知事 吉村美栄子
法人番号 5000020060003
所在地 990-8570
山形県山形市松波2丁目8番1号
北緯38度14分25.6秒東経140度21分48.8秒
山形県庁
外部リンク 山形県
山形県の位置

山形県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキポータル 日本の都道府県/山形県
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山形県の地形図

山形県(やまがたけん)は、日本東北地方南西部の県。日本海に面する。県庁所在地山形市

地理・地域

広袤(こうぼう)

重心
北緯38度26分58秒東経140度05分58秒

北端
北緯39度12分31秒東経139度33分02秒
人口重心
北緯38度25分06.93秒東経140度09分33.79秒
西端
北緯39度11分09秒東経139度31分13秒
山形県庁舎所在地
北緯38度14分26秒東経140度21分48秒
東端
北緯38度46分09秒東経140度38分48秒
 
南端
北緯37度44分02秒東経140度07分33秒
 

地形

県の東側一帯で宮城県との境に奥羽山脈、県の西部に朝日連峰がそびえているように、県域の大半 (85%) を山地が占め、総面積に対する森林の割合は 75% 、農業用地の割合は15%である。県の中央には最上川が流れる。県民の多くがこの川の流域に住んでいるため、「母なる川」とも呼ばれている。北西側の日本海上には県唯一の離島、飛島がある。

歴史

古代

今から約3万年前頃(後期旧石器時代)に大型哺乳動物(ナウマンゾウオオツノシカヘラジカなど)を狩猟する人々が山形に現れた。その時代の遺跡として最上川(真木遺跡朝日町、明神山遺跡寒河江市)や荒川(荒川遺跡小国町)・赤川などの主要河川やその支流の河岸段丘上に100カ所以上見つかっている。それらの遺跡からは、槍先に使う斜軸尖頭器や木の枝や骨に溝を付けそこに埋め込み利器とした石刃などの狩猟用道具が多く発見されている。

縄文時代の遺跡も数多く確認されているが、三崎山遺跡(飽海郡遊佐町)では大陸との交易によって入手したとみられる約3000年前の青銅刀子が出土している[3]。日本国内での出土例としては最も古い部類に入る。日本海の海運によって弥生文化の伝搬も早期にもたらされたが、弥生後期には続縄文文化が県内を南下し、寒冷化による村落の水没とも相まって最上川流域では稲作が衰退した[4]

山形県で古墳文化が到来した時期は、思いのほか早く(海上の日本海側の交易ルートは新潟の糸魚川産の翡翠などの例もあるように古代から拓けていたため)、米沢盆地内の米沢市摘山古墳や南陽市蒲生田山2 - 4号墳は、4世紀前半には造営されていた。そして、県内最大、東北5番目の大きさを誇る前方後円墳稲荷森古墳(全長96m、南陽市)が出現したのは375 - 400年の頃であった[5]

当初、庄内地方は越後国の、置賜・村山・最上地方は陸奥国の一部であったが、越後国からの要請があり、和銅元年(708年出羽(でわ)郡が置かれた。出羽は初め「いでは」と読み「出端」の意味で、越後の国からみて北端に出ていたことから命名されたらしい。さらに翌年、出羽柵が設置された。出羽郡の範囲は、ほぼ最上川より以南の庄内地方を指していたらしいが、位置についての説は色々あって確定していない。和銅5年9月23日(712年10月27日)[6]、出羽国建国が奏上され、元明天皇から裁可されて、同年(10月)に陸奥の国から最上置賜の2郡を分けて出羽郡に合併し、出羽国が設けられ、庄内に国府が置かれた(城輪柵[7]仁和2年(886年)最上郡が2郡に分割され、北が村山郡、南が最上郡となる。この頃には羽州街道も整備されている。県名は、山の近くという意味の町名、山方に由来すると言う。

時期・規模については諸説あるが、最上川中流域(寒河江市・天童市・河北町・東根市・村山市)に藻が湖という湖があったといい、行基・円仁らによって川道開削が行われ、縮小消滅したという伝承が残る[8]。また「最上」の語源になったともいう。

中世

平安時代山形県地域には数多くの荘園が見られ、その多くは摂関家荘園であった。後期になると奥州藤原氏が荘園を管理したが、その滅亡と共に地頭請の武士たちが入部した(武藤氏(庄内大泉荘)、大江氏長井荘寒河江荘)、里見氏成生荘)など)。南北朝時代には陸奥国奥州探題斯波氏が分派して山形に勢力を扶植し、地名を採って最上氏と称した。また、室町時代初期に陸奥国伊達郡を拠点としていた伊達氏が置賜地方に侵攻し、長井氏領を支配下においた。

戦国時代最上郡(現・村山地方)の最上氏、置賜郡の伊達氏天文の乱の後、本拠を伊達郡から米沢に移した)、庄内の大宝寺氏が割拠した。最上氏は最上義光、伊達氏は伊達政宗の名将が登場し、一大版図を築いた。豊臣秀吉奥州仕置と米沢への上杉氏の転封により、関ヶ原の戦いにおいては、会津・上杉軍と山形・最上氏との間で激戦が繰り広げられた。(長谷堂城の戦い

近世

江戸時代初期に最上氏が改易となると、山形藩鳥居忠政が入り、その縁戚関係として庄内藩酒井忠勝新庄藩戸沢政盛上山藩松平重忠が入った。その他、米沢藩米沢新田藩、(出羽)松山藩(→松嶺)、天童藩長瀞藩の各藩と20万石に及ぶ天領があった。明治時代の地方区分では、羽前国全域と、羽後国飽海郡が、現在の山形県に相当する。

河道整備や舟運の発達により最上川が主要な輸送ルートとなり、流域では商業が発展し上方の文化が移入した。