しまざき わかこ
島崎 和歌子
Yosakoi Performers at Kochi Yosakoi Matsuri 2008 53.jpg
高知よさこい祭りのパレードに参加中の島崎和歌子。
プロフィール
愛称 和歌ちゃん
ワッコさん
和歌子
和歌姉
姉さん
生年月日 1973年3月2日
現年齢 45歳
出身地 日本の旗 日本 高知県南国市
血液型 O
毛髪の色 茶色
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重 156 cm / kg
靴のサイズ 23.5 cm
活動
デビュー 1989年5月5日
ジャンル アイドル歌謡曲J-POP
他の活動 歌手、女優
事務所 ゴールデンミュージックプロモーション
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島崎 和歌子(しまざき わかこ、1973年3月2日 - )は、日本歌手、タレント女優司会者。90年代アイドル。高知県南国市出身。血液型O型。所属芸能事務所は、ゴールデンミュージックプロモーション愛称は、「和歌ちゃん」「ワッコさん」「和歌子」「和歌姉」「姉さん」本名は「しまき わかこ」と読む[1]明治大学付属中野高校定時制中退。

略歴

1973年、高知県南国市で生まれた。名前は父親が酒井和歌子にちなんで名付けた。生家は裏が山で、窓を開ければカブトムシが侵入し、知人宅を訪ねれば道中にイノシシが出没するという自然豊かな環境にあった[2]。幼い頃は極めて人見知りが強く、来客があると泣き出す子供だったという[3]。幼稚園では同じ園に通う竹馬の上手な男児に恋愛感情を抱くが、自分も竹馬の技術を習得して男児の歓心を買うまでの積極性はなく、特に進展はなかった[3]。南国市立岡豊小学校入学後は近所の男児と遊ぶようになり[3]、夏には川へ行き半裸で水泳に興じる[2]など、快活な少女に成長した。後に同小学校が100周年を迎えた際には、卒業生として記念行事に出席、トークショーを行い、恩師やかつての級友と再会している[4][5]

南国市立北陵中学校では卓球部に所属[6]、レギュラーとして県大会にも出場した[7]。このころ卓球部の先輩から電話で交際を申し込まれるが、周囲は中学生の男女交際など論外という土地柄であり、両親に長時間説諭される[8]。自身もこうした価値観に影響され、「彼氏とキスした」と話す級友には「ふしだらで、許せない」と、嫌悪感を抱いていた。またバレンタインデーには相手がおらず、女生徒同士でチョコレートの交換会を行っていた[9]。1987年夏、大過なく過ぎていく人生に疑問を抱き、「何か思い出に残る大きなアクシデントが欲しい」と思い立って[8][11]ロッテ CMアイドルはキミだ!」に応募。中山美穂50/50を歌い、グランプリは相川恵里に奪われたものの準優勝、芸能事務所ゴールデンミュージックプロモーション社長の市村義文にスカウトされる。父親は猛反対したが[12]、これを押し切って芸能界入りを決めた。

1989年、同年1月、フジテレビ系列で放送されたテレビドラマ『こまらせないで!』で女優デビュー。主演の荻野目洋子を虐める気が強い高校生役を演じる。同年5月5日ポリドールから「弱っちゃうんだ」でアイドル歌手デビュー。同期歌手デビューに田村英里子深津絵里中山忍星野由妃マルシア千葉美加川越美和などがいる。同年7月には、小沢なつきの降板により打ち切りとなった『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』の後番組として急遽制作が決定した『魔法少女ちゅうかないぱねま!』のヒロインに抜擢され、幼年層の支持を得た。また、デビュー2年目の1990年には東宝映画『スキ!』で映画初出演にして主演に抜擢される。本放送終了後22年後の2012年5月14日の『世界まる見え!テレビ特捜部』にゲスト出演した際にいぱねまの変身ポーズを披露した。上京当初は高層ビルの高さと数の多さ、テレビのチャンネルの多さに驚かされ、休日にはテレビばかり見ていたという[8]。一方で高知で島崎が出演する番組が放送されておらず、郷里での認知は充分ではなかった。高知ばかりではなく、業界全般の状況が「アイドル冬の時代」と呼ばれるほど悪化しており、アイドルとして活動する場は徐々に減少しつつあった。

1991年、『オールスター感謝祭』および『クイズ!当たって25%』の司会を務め(後述)、以降はアイドルから、徐々にバラエティーにシフトしていった。1997年の『わいわいティータイム』では肥満気味であることを認め、番組の企画としてダイエットに挑戦するなど[13][14]、仕事の内容も以前とは変質していった。歌手活動も続けており、1991年3月には平成3年3月3日午後3時33分の「3並び開演」となった東京公演など、6箇所を巡る全国ツアー「みんなに会いたい! WAKAKO SUN SUN」を開催した[15]。1993年、20歳を迎えて発売したシングル『HのあとにはI(愛)がある』では臍を露出した衣装で挑発的なタイトルの曲を歌い[16]、1994年発表のアルバム『ブルージィ・バケーション』では一転して大人びた雰囲気でまとめるなど[17]、従来のイメージの転換を図ったが、このアルバムを最後にいったん歌手活動に区切りをつけ、企画物を除いて楽曲を発表することはなくなった。歌手活動の中断はプロダクション社長の判断によるもので、本人も売り上げ不振を認め同意したという[18]

2001年バウハウスより写真集『wakako』を発売(宮澤正明撮影)、セミヌードを披露。写真集発売にちなんでデビュー以来初となる握手会を実施した[19]。写真集は『オールスター感謝祭』で参加賞として提供されたが、出演者からの評判は悪かった。

2003年にはクラブDJのトシユキゴトウ (Toshiyuki Goto) とクラブで抱擁や接吻を繰り返していた、と『週刊女性』で報じられた[20][21]。この件については、接吻は酔いの中で挨拶のような意図で行ったものとし、交際を否定した[22]。事件は活動分野が類似し、長く未婚を続けていた磯野貴理子が結婚を発表した直後であったことから注目を集めた。

現在では、お笑いタレント、特に出川哲朗上島竜兵ダチョウ倶楽部)をはじめとしたリアクション芸人と仕事をすることが多い。

2008年にはデビュー20周年を記念してベストアルバム『島崎和歌子 20th anniversary BOX』を発売、サンシャインシティ噴水広場で開催された20周年記念イベントではデビュー曲『弱っちゃうんだ』を17年ぶりに披露した[23]。2009年には自らが主演するドラマ『オーバー30』の主題歌『Happy Life 〜明日に向かって〜』を発売、島崎和歌子名義では16年ぶりとなる楽曲となった[24]。この曲のレコーディングにあたりボイストレーニングに通い[25]、過去の楽曲における地声に近い歌声とは全く異なる歌声を披露した。C/W世界で一番熱い夏」(プリンセス・プリンセスカバー曲)でも稀に見るハイトーンボイスを誇示した。『オーバー30』では専業主婦役を演じる一方で実生活では独身であることに注目が集まったが「焦りはない」と明言した[26]

2011年以降は、美容に関係した活動が増加している。『週刊女性』で美容関係の連載を持つほか[27]、2012年には美容書『美人』を発売、記念イベントではマツコ・デラックスが「無駄にキレイ」と評した[28]

人物・エピソード

  • 好物は豚足で、3時のおやつとして日常的に食べている。本人曰く「コリコリした食感がいいのよねぇ」とのこと。子供の頃、豚足がなく、チョコレートがおやつであったりするとがっかりしていた[29]。豚足でコラーゲンを多量に摂取していることから、年齢は女子高生並の美肌であるという。
  • デビュー前、特に中学生時代はスレンダーかつ美少女であったといわれる[29]
  • 小・中学生時期は大人しく、むしろ人見知りをする性格で、担任の先生が心配するくらいであった。
  • 実家は兼業農家で、母親が喫茶店経営。「田舎にありがちな、お客さんが農作業帰りの常連さんばかり」な喫茶店であり、都会のおしゃれなカフェのウェイトレスに憧れていた[29]
  • 大の酒豪で、20代の頃は毎日のように飲んでいた(ただ、30代後半になった頃には飲むのは週一回程度となったという)。飲み仲間には大久保佳代子バービーいとうあさこら女芸人も多い。しかし酒癖は悪く、朝になっても飲み続ける、飲む相手を帰さないなど、数々の芸能人が被害に遭っている(出川哲朗は、自分の股間をつかまれたとも話している)。ダチョウ倶楽部上島竜兵は酒の席で泥酔した島崎に腹を噛まれ、その時に付いた傷が1年間癒えることはなかった。このようなエピソードから「ミニアッコ」また「アッコさん(和田アキ子)」ならぬ「ワッコさん」と命名された[30][31]
  • 20代後半まで処女説がながれていた。本人もネタとして話していたことがあった[8]
  • キュリー夫人エマニエル夫人を混同していたことがあった[8]
  • 布袋寅泰のファンであると公言していた[32]
  • 出演した映画『ふたり』の主題歌「草の想い」は、主演であった石田ひかり中島朋子、そして大林宣彦が歌ったもの以外に、劇中で島崎が歌っている。これは、現在までどのアルバムにも入っていない。
  • 3人兄弟の長女で、妹と弟がいる。
  • 2005年7月から地元である高知県の観光特使をつとめている。
  • 2012年10月にジュニア野菜ソムリエを取得した。
  • 趣味は料理、読書、作詞、ビーズアクセサリー、ガーデニング(ハーブ栽培)、カラオケ、散歩、ゴルフ。

オールスター感謝祭

始まりはアイドルとして売り出し中の1990年から1991年に放送されていたTBSテレビ深夜バラエティ番組『青春!島田学校』にレギュラー出演したことであり、これがTBS初レギュラー、島田紳助との初対面及び共演であった。後に『オールスター感謝祭』の初代プロデューサーとなる加藤嘉一[33]が担当していたこともあり、18歳ながらその進行力が評価され、加藤や紳助の意向により1991年秋から『オールスター感謝祭』とレギュラー版である『クイズ!当たって25%』に紳助と共に司会に大抜擢されることとなった。

『25%』は半年で終了したが、1992年以降も『感謝祭』は毎年春・秋の改編期の特別番組として放送されており、紳助が2011年8月に芸能界を引退し降板するまで20年に渡りコンビを組んだ。

長時間の司会を担当するのは初めてであり、当初は問題の読み上げが中心のアシスタント色が強かったが、現在では事実上の進行役を兼ねている。字幕上でも紳助および後任の今田耕司[34]とともに「総合司会」との肩書きが付けられている[35]

過去に和歌子が司会者席から退席したのは4回(1999年3月27日・2014年3月29日・2014年10月4日・2015年4月4日)のみである。

Risky

1999年春の『感謝祭』において、番組16回目記念と称して紳助の発案、主導の元(紳助本人が番組内で発言)本人には何の意思確認や承諾もなしに、『24時間テレビ』の「サライ」に倣い、主題歌CD制作を放送中に50000枚完成させるという企画が強行された。番組進行中に突然紳助から「お前です!」と騙され[36]、わけも解らぬままエイベックスへと向かい、番組終了前にジャケット撮影やレコーディングを全て行った。制作にかかった4時間28分はギネスブックにも載った。また、放送の翌日から約1か月間のスケジュールがRiskyに関するイベントで埋められていた。その中のひとつで、CD購入者全員に本人の携帯電話番号が書かれたコースターがプレゼントされるという、前代未聞の企画が行なわれた。翌日からは公私を問わずひっきりなしに電話がかかり、仕事にならなかった(本人談)。この携帯番号がいつまで有効であったかは本人およびCD購入者にも全く知らされていなかった。本放送終了後の1999年6月に「感謝祭」の再編集版が再放送され、最後の30分間でRisky企画を追跡するコーナーが放送された。

翌1999年秋の『感謝祭』の冒頭で、紳助と本人が「CDは5万枚少々売れたものの、多くは事務所が買い取った」と思われる発言をしている。

歌手名の由来は、作詞担当の秋元康曰く「この企画自体あまりにもリスキーだから」とのことで、キーパッドによるアンケートで即決した。因みにもう1つの候補は「Thanksgiving Day」(感謝祭)であった。

出演

現在のレギュラー番組