広島東洋カープ
会社名 株式会社広島東洋カープ
創設年度 1950年
ロゴデザイン
Hiroshima carp insignia.png
所属リーグ

セントラル・リーグ

歴代チーム名
  • 広島カープ(1950年 - 1967年
  • 広島東洋カープ(1968年 - 現在)
本拠地
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)
広島県広島市南区
MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima(March 21, 2016).JPG
収容人員 33,000人
(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
獲得タイトル
日本一(3回)
リーグ優勝(8回)
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(7回)(太字は勝利した年)
クライマックスシリーズ(4回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝3敗

球団組織
オーナー 松田元
(代行)松田一宏
運営母体 松田家(マツダ創業者一族)
監督 緒方孝市
株式会社広島東洋カープ
Hiroshima Toyo Carp Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
732-8501
広島市南区南蟹屋二丁目3番1号
マツダスタジアム
設立 1956年1月[1]
業種 サービス業
法人番号 3240001009427
事業内容 プロ野球興行事業等
代表者 松田元代表取締役社長
資本金 3億2400万円(2017年12月31日現在)[2]
純利益 12億9700万円(2017年12月期)[2]
純資産 76億9500万円(2017年12月31日現在)[2]
総資産 119億2800万円(2017年12月31日現在)[2]
従業員数 120人(2009年12月時点)
決算期 12月31日
主要株主 松田家関連(42.7%)
* 松田元 20.4%
* 松田弘 12.2%
* 松田勢津子 10.1%
マツダ関連(34.2%)
* マツダ 34.2%
球団子会社(18.5%)
* カルピオ 18.5%
(2005年現在)[3]
主要子会社 カルピオ(完全子会社)
関係する人物 松田恒次松田耕平
外部リンク http://www.carp.co.jp/
特記事項:1949年6月創業。勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男でアンフィニ広島社長。
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広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英語: Hiroshima Toyo Carp)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。

広島県保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島専用球場(本拠地)としている。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。

概要

特定の親会社を持たない市民球団を源流としており[注 1]、他球団と比較して特異な歴史を有する[5][6][7][8][9][10][11]。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[12] 親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない[13]。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する[14]。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する[15][16][17][18][19]

球団の歴史

球団創設から1974年まで

セ・リーグ優勝記念碑(旧広島市民球場横「勝鯉の森」内)
撮影当時は2016年以降の成績が未刻印
旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー〈現ソフトバンク〉)撮影
1949年
正力松太郎二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[10][11][20]。広島は戦前から広島商広陵高呉港高といった名門校があり、鶴岡一人白石勝巳藤村富美男などの名選手が輩出した野球どころという下地があった[8][10][21][22][23]
正力の二リーグ構想が公に出た4月から[10][24][25]、4ヶ月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[26]。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[26][27]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 2]、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員谷川昇金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した[27]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[11]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[10]、山口に助力を要請され[28]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[11][29]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[26]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[26]。ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[26]
9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した[26]。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[25][26]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 3]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[25][30][26]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 4]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[20]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンス監督石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[20][26]、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代カープ監督に石本の就任が決定した[10][26][31]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[26]、チーム作りは石本に一任した[32]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[26]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[8]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[8]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[32]。本拠地は広島総合球場とした。
核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 5]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹と改称して松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[26]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章ら23人を入団選手として発表した[26]
1950年
1月15日、寒風吹きすさび、砂塵が舞い上がる西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)のただの野原でチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人が押し寄せた[5][27]。カープ選手紹介の前に、カープ創設に努力したお偉方の祝辞が3時間以上続いた[26]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着していなかったので石本監督が一番有名であった[26]。選手は総勢20人にも満たない。当初遠目にながめていた人たちも選手がお披露目のキャッチボールを始めるとその周囲をグルリと取り囲んだ。続いてトスバッティングを演じたところ、大受け。こうして熱烈歓迎を受けて、空前絶後の"貧乏チーム"が誕生した[26]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ[34]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[7]。16日から合宿に入り合宿所は、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を借りた[20][27]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[27]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[27]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[11]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[10][27][29]
3月10日福岡市平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5対6で敗れている[30]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺さんたんたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[35]。さらに勝率3割に到達できなかったチームは両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。
この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[34]。そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[32]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ[20]
こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった[36]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、2軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた[20]
6月25日、セリーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた2軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注 6]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。セリーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[20]
12月7日、カープ選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。
1951年
年明け早々、セリーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、二年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"一年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[36]
球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたが「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[38]
こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[20]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[35]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[10][35]。「ついにその瞬間がきた」、合宿所でこのニュースを聞いたカープ選手の中には涙を流す者さえいた[35]。しかし役員会に遅れて参加した石本監督らの説得で合併方針は撤回され、ファンに協力を求め危機打開を図ることになった。何とか3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に無事出発。しかし今度は旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[20]
石本監督は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え[35][39][40]3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表、広島県民の心を動かした[35][41]。こうした動きに連盟も折れ、3月23日鈴木竜二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定し[30]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[35]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対阪神戦となった[30]
石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[8][35]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[7][29][31]。また石本や白石は試合後に選手を連れてあっちの町内、こっちの町内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした[11][32][34][42][43]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地広島総合球場前での酒樽の中にカンパする「樽募金」も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[43]。カープはこの年130万円の黒字を計上し、球界のみならず日本中を驚かせた[35]。この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[10]
しかし、シーズン途中に前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめ、巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[44]
12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する。これは当時、12月15日までに球団は選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に里帰りしていた長谷川には、期日までに書類が届かなかったことに端を発する。だが翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている[30]
1952年
開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた[20][45]。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており[注 7]、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった[20][45]
こうして迎えた1952年シーズン、開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた[注 8]長谷川良平杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。
なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。
10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)[46]
1953年
松竹から赤嶺昌志一派小鶴誠金山次郎三村勲)が集団で移籍した。小鶴は3月1日の午前2時48分に広島駅に到着したが、既に200人のファンが待ち構えており、小鶴をトランペットで盛大に祝っている。小鶴・金山に続いて外国人選手を獲得するため、後援会は更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三銭村健四)・光吉勉が入団した。6月19日に銭村らは広島入りしたが、その際に盛大なパレードが挙行され、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。
さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。
なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。
また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
1954年
この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。
この頃になると、給料の遅配はなくなったように球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり[注 9]、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった[47]
新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオマリリン・モンロー夫妻が2月11日広島入りし、広島に4日間滞在[48][49]。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し[48]広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問[50][51]。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビーブラウン、フランク・オドール広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った[7][48][49][50][52]
シーズンは、開幕試合の4月3日中日戦から7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。
1955年
この年から、助監督に門前真佐人、2軍監督に野崎泰一が就任する。
2月28日、カープ産みの親、谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら、脳出血のため急逝する。
3月11日、入団したばかりの日系2世平山智が広島入りし、市内パレードに10万人が押し寄せる。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。
また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口豪はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場 (初代)の設計図を公表している。
その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。
なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」、「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。
1956年
開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。
5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。
7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場 (初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する。
1957年
1月14日、地元10社が広島市民球場の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。
7月22日、広島市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前にして、緊張のため選手が皆固くなってしまい1-15で大敗している。
シーズンは、白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。
1958年
広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅森永勝治小坂佳隆鵜狩道夫拝藤宣雄大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」とうたわれた長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。
また、1950年の灰島元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。
シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日小鶴誠がチーム若返り策により引退を表明する。
1959年
この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。
2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。
5月7日の対阪神タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成[53]
シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った大和田明は、樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。
1960年
1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。
この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。
1962年
門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。
前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。
1963年
門前に代わる新監督として小鶴誠を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長:伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が就任し、白石勝巳が再び監督となる。
1964年
5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の王貞治を抑え込む作戦として白石監督考案の王シフトが初めて使われる[53]
1965年
5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり[53]、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。
1966年
6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。
1968年
東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。根本陸夫が監督に就任。根本はトレードでベテランの山内一弘を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった[54]
阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。外木場義郎安仁屋宗八両投手、野手では山内の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録[注 10]。なおシーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。
1969年
前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄山本浩二YK砲水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。
シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から上田利治コーチが退団している。
1970年1971年
2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行の松田耕平が就任[55]
1972年
開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。
1973年
別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。
1974年
チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。
1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。

ルーツ、古葉監督時代

1975年
球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。
しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任[56]。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした[56]
中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(広島市民)では乱闘事件があったものの[7][57]10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷[58]。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した[59]。またこの年は春に山陽新幹線岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている[60]
経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。
1986年
阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが[65]、就任1年目にリーグ優勝を果たす[注 11]。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった。
前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。またこの年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。
1987年
6月13日、衣笠がルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得するも3位に終わる。
1988年
2年連続の3位。正田が2年連続の首位打者。大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞。阿南が監督を退任。同年オフ、山本浩二が監督に就任。

第1次山本監督時代

1994年
新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった紀藤真琴近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲緒方孝市音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二ゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。
1995年
この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。
1996年
チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山崎健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。
1997年
野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々けがでリタイア。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の澤崎俊和、ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得したものの、順位は3位ながら貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。
1998年
新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は9戦全敗に終わった[66]
シーズン後に三村監督が退任、後任は
2001年 - 2005年
山本が8年ぶりに監督として復帰した。しかし、チーム成績は2001年は勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位に終わった[注 13]。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。2002年から2004年まで3年連続の5位。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得している。
2005年に、投手陣再生の切り札として
2006年
ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。
開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。
2007年
キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。
課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。
投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。
2008年
苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった[注 14]
延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。
2009年
この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。
オープン戦の最中に栗原健太WBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。
シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した
(動画) 広島東洋カープの前田健太
2010年
シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。
2011年
東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日にはBクラスが確定。結果は、3年連続の5位。
2012年
[69]

中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で、4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健太がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点[70] もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原健太が離脱するなど故障者が続出し、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す[71]。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し[72]、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れたことで、Bクラスが確定している[73]。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。

2015年
序盤は一時最下位に沈むなどBクラスに低迷、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。
6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成[97]、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった[98]。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの[99]、その後も貯金を作ることはできず9月24日の対巨人戦に敗れたことでリーグ優勝の可能性が消滅した[100]。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、10月7日、勝てばCS進出となる対中日戦(シーズン最終戦)に敗北したことで3年ぶりのBクラス(4位)が確定した[101]。尚、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でこれはセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績で課題の残るシーズンとなった。オフに前田健太が沢村賞を受賞した後[102]ポスティングシステムロサンゼルス・ドジャースへ移籍[103]。今期加入した外国人はクリス・ジョンソンの他はパッとせず全員が退団。このうちマイク・ザガースキーは、2016年途中にDeNAに移籍している。中日を自由契約となったエクトル・ルナを獲得した[104]
2016年
リーグ序盤から首位を走る。交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し[105]。6月以降は首位を独走し、9月10日の対巨人戦に勝利して25年ぶりのリーグ優勝を達成した。クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で日本シリーズ出場権を獲得した。しかし、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し2勝4敗で破れ、32年ぶりの日本一はならなかった。黒田博樹廣瀬純倉義和が現役を引退。
2017年
前々年の2015年がBクラス(4位)であったため当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。その開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)[106]。5月6日の阪神戦で9点リードした状態からの逆転負けを喫した[107]。交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより2位。公式戦は5月に2位となるものの6月以降は首位を独走。9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。なお、2軍も9月26日に鳴尾浜球場で阪神に勝利しウ・リーグ優勝を決めた[108]
2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ含む)で敗退し日本シリーズ進出はならなかった。

所属選手・監督・コーチ

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。青い丸は日本シリーズ優勝を示す