空襲の主力となったB-29戦略爆撃機による爆弾投下
米軍の空爆予告の伝単
1945年(昭和20年)8月1日に広島や長崎その他33都市に投下された。裏面には軍施設への攻撃予告と避難指示、日本国民を軍事政権から解放する旨の文章が記載。

日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、太平洋戦争中に連合国軍が日本各都市に対して行った爆撃である。1944年昭和19年)末から本格的な戦略爆撃となり、長期間の大規模な無差別爆撃も実施された。

経過

戦略爆撃の実施前

日中戦争支那事変)中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾台北松山基地ソ連空軍志願隊中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害。

1938年(昭和13年)5月20日に中国軍B-10爆撃機が九州に侵入、爆弾ではないが反戦ビラを投下。その後、日本軍は同年12月から重慶爆撃を開始。

第二次世界大戦における日本本土の初空襲は1942年(昭和17年)4月18日ドーリットル空襲で、航空母艦「ホーネット」から陸上機の16機のB-25中型爆撃機を発進、東京川崎名古屋四日市神戸などへ空爆。その後、日本軍6月9月アメリカ本土空襲

1943年(昭和18年)11月25日に台湾に対する新竹空襲

戦略爆撃の準備

1941年11月、マーシャル参謀本部長は秘密記者会見で、フィリピン基地から日本都市を焼夷爆撃する構想を述べる[1]

日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注したが、真珠湾攻撃で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1600機の生産を命じた[2]。しかし、実現まで2年を要した[2]

ドイツ軍が焼夷弾によるロンドン爆撃をおこなうと、米空軍は焼夷弾の開発にふみきり[3]、1942年には投下後ばらばらになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつ小型焼夷弾M69が開発された[2]。M69を開発した国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長でスタンダード・オイル社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだ」と主張した[2]

1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこし、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された[2]

1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用に関しても言及していた[4]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[5]

1943年2月に、日本都市の建築特性に適した爆撃戦略を練るためにアーノルドは、作戦分析委員会COAに目標の検討を依頼しており[6]、COAから1944年10月10日付で「極東における経済目標に関する追加報告書」が提出され、第一目標を航空産業、第二目標を都市工業地域、第三目標を機雷の空中投下による航行妨害としており、第二目標は本州六都市に対する焼夷攻撃であり、9月のCOA会議では六都市の住民58万4000人を殺した時に起こる完全な混乱状態の可能性が論じられた。戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンは心理的効果を主張し、日本の子供は火事に対する恐怖を刷り込まれているので焼夷弾はパニックと結びつきやすいので、地域爆撃を全面支持し、「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ」と提案した。アーノルドはこの追加報告書を採択した[7]

1943年8月、米英首脳がカナダケベックケベック会談を行い、中国を基地とするB-29の28機ずつの10編隊(逐次20編隊に増強)から始め、ドイツ降伏から12か月以内に日本を屈服させることを目標にしたセッティング・サン計画がアメリカから提案された[8]。米陸軍のジョセフ・スティルウェルは兵站の支援が困難と考え、セッティング・サン計画の代案として、桂林―長沙に沿う数基地を前進基地とし、カルカッタ地区を駐留飛行場とするツヮイライト計画を提出した。1943年10月13日、航空本部長ヘンリー・アーノルドはツヮイライト計画の改訂案をルーズベルト米大統領に提出。前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と予定した。大統領はこれを承認し、11月10日に英国と中国から飛行場の確保を取り付け、この計画は日本の早期持続爆撃を目的としたマッターホルン作戦として発足した[9]

戦略爆撃の実施後

1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして中国の成都の基地から行われた(八幡空襲)。成都からの爆撃はB-29航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料輸送の困難のため出撃回数も限られていた。このためにアメリカはマリアナ諸島を攻略、大規模な航空基地を建設すると日本本土の大半が攻撃目標となった。空母搭載機による日本本土への攻撃も、沖縄に対する1944年10月10日の十・十空襲、1945年2月の関東地区空襲(ジャンボリー作戦)などが行われた。

当初1944年(昭和19年)11月、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将は1944年11月23日から出撃命令を出し、初空襲は1944年11月24日となったが、マリアナ基地の未完と悪天候で戦果が上がらなかった[10]。東京、名古屋に対する爆撃で主目標を中島飛行機、三菱重工、第2目標を市街地とする爆撃の命令を行いつつも、11月29日には、東京工業地域を第一目標とした最初のレーダー照準による夜間爆撃が行われ、1945年1月3日には名古屋のドッグ地帯と市街地を第一目標とした昼間爆撃を実施している。これらの爆撃でハンセルは焼夷弾による無差別爆撃をテストしており、大規模な無差別爆撃の準備を進めていた[11]

アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[12]。また、ルメイは、中国大陸で作戦中の1944年12月、漢口大空襲でB-29と焼夷弾による大規模な都市空襲を実行して市街地に大損害を与えた経験があった。ルメイはすでにハンセルによって準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが[13]、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更、理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手を外し爆弾を200キロ増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更、これに乗員は恐怖したが、B29の損害は軽微だった[14]。3月10日の東京大空襲から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。

1945年4月7日以降は硫黄島配備のアメリカ陸軍のP-51P-47などの戦闘機も空襲に参加、B-29爆撃隊の護衛にあたり、地上施設の攻撃も行った[15]。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地として重要だった。[15]。また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害(飢餓作戦[16]。なお、空襲以外の日本本土への攻撃として、釜石艦砲射撃室蘭艦砲射撃のような艦砲射撃も行われており、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊された。

1945年(昭和20年)5月31日には台北大空襲が行われた。

原爆投下

マリアナ基地にいた原爆投下を任務とする第509混成部隊は、1945年7月20日、東京空襲に初めて参加した。目的は、日本人に単機による高空からの一発の爆弾投下に慣れさせるためであった。以降、広島、京都、小倉は原爆のため爆撃を禁止されたが、他は自由に爆撃させた[17]

1945年8月、広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下が実行された。

原爆投下目標の選定については、ハリー・S・トルーマン大統領が、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標から東京と京都は除くようヘンリー・スティムソン陸軍長官に指示し、原爆投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎と決定されたとする説[18]、原爆投下作戦命令書を立案した第509混成部隊長ポール・ティベッツ大佐が細目を決める際、第21爆撃集団司令官カーチス・ルメイ中将が「京都は大した軍事的目標ではない。神社みたいなものがいっぱいあるだけだ。それに普通の市民を爆撃してみたって何の役にも立ちはしない―引き合わんよ」と反対して軍事施設の多い広島への投下を支持したためとする説[19]などがある。

京都が大規模空襲を免れた経緯については、文化財保護の目的で作成されたウォーナーリストによって京都の大規模空襲が避けられたという説があるが、実際には初期の段階で原爆投下目標都市として京都が計画されていた上に、小規模ながら西陣地区などの京都空襲も行われており、文化財保護の為に京都を空襲しなかったという説は根拠性が乏しい。

ポツダム宣言受諾後にも既に開始していた空襲は継続され、8月15日の空襲を予告したビラも投下されていたが[20]。、玉音放送を妨害しないため15日未明の土崎空襲終了を最後に爆撃は終了した。

戦後

終戦後、日本本土空襲について米国戦略爆撃調査団によって報告書が作成されまとめられた。サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したことで、無差別爆撃を含む日本本土空襲に関する補償も行われることはなかった。 しかし、連合国軍による無差別爆撃による民間人の大量虐殺に関しては戦時国際法違反であることが指摘されている[21]。国外でも、アレクサンドル・パノフ(元駐日ロシア大使)が「米国は、日本国民に対して少なからぬ重大な戦争犯罪を行いました。1945年3月10日の東京大空襲では一日で10万人以上の民間人が亡くなり、大阪、名古屋、その他の都市もそうした空襲に見舞われ、1945年8月の6日と9日の広島と長崎への原爆投下ですべてが終わりましたが、地表から消されたそれらの都市は、事実上、何ら軍事的意義を有してはいないのでした」と述べている[22]

空襲の方法

攻撃は、ボーイングB-29に代表される戦略爆撃機による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などから飛来する機体による爆撃や機銃掃射も行われた。また、航空戦力によってだけではなく、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃された所もある。

米軍の戦時情報局は、戦況の正確な情報を持たない一般日本国民に対して「リーフレット心理作戦」を実行した。宣伝ビラをB29から撒くという方法で工作は行われ、米軍は1945年2月から終戦まで計460万部のビラを投下、[23]「大本営発表の虚実を暴いたもの」「軍閥が諸悪の根源であり天皇は関係ない」「空襲の日時、場所の予告」が主な内容だった。空襲の場所と日時をビラで事前に予告し、実際にB29が空襲することはビラの信用性を大いに高めた。特に7月28-29日の第12回中小都市空襲では、青森、大垣、一宮、宇和島、津、宇治山田に空襲予告ビラが一斉に投下され、その24時間後に大空襲があった。この大規模ビラ投下は8月1日、8月5日にも実行された他、原爆投下のニュースもビラでされた[24]。日本国民の中には、ビラの内容以上にビラの上等な紙質に衝撃を受ける者もいた[25]

日本の対策

操縦席側面にB-29を模った撃墜マークを多数描いた陸軍飛行第244戦隊の三式戦「飛燕」
本土防空戦で陸軍主力高射砲となった九九式八糎高射砲

日本の本土防空の基本案が初めて具体的に成文化されたのは1921年9月の「陸海軍航空任務分担協定」であり、1923年の「航空機以外ノ防空機関ヲ以テスル帝国重要地点陸海軍防空任務分担協定」であった。内容は、陸軍が重要都市、工業地帯を主体とする国土全般を受け持ち、海軍は軍港、要港や主な港湾など関係施設に対する局地防空を担当する。基本的には終戦までこの方針が保たれている[26]

陸軍は早くも1922年に東京、大阪に防衛司令部を置き、高射砲や照空灯部隊を指揮させる要地防衛部隊の編制を定めた。しかし、防空司令部が置かれるのは戦時のみで範囲も東京、大阪近辺のみ、他は各師団の管轄にゆだねるものだった。後に範囲は拡大され、1937年の日中戦争勃発で、防衛司令部は常設部隊に変わった。戦時の動員で戦力を強化する予定ではあったが、当時の常備高射砲部隊は七個中隊、二八門で、さらに航空部隊は付属しておらず、必要な時に一部を要地防衛に参加させる予定であった[27]。海軍の陸上担当区域は限られ、本土近海の防衛が主だが、鎮守府を中心に本土を4つの区に分けており、戦力は旧式艦が当てられ、防空は基地航空兵力を用いる決まりだが、戦時には大半が進攻作戦で不在になる体制だった[28]。1937年4月5日に防空法が制定されており、改正を重ね、防空壕の建設や空襲時には疎開などの民間防衛が実施された。

1942年夏頃から陸軍の防空組織は強化され始めた。4月下旬、朝鮮軍管区にも防空実施が命じられ、本土全域防空体制に移行する[29]。5月に第一航空軍が新設され、続いて、第十八飛行団司令部、第十九飛行団司令部が設けられ、12月には防空戦闘機隊はすべて三個中隊を持ち、また司偵隊も専属の中隊に規模が大きくなり、防空の三個飛行団の合計は270機に増強されていた。8月には陸軍飛行学校も数機の戦闘機で防空に参加する体制になり、高射砲も強化され、装備砲数は4.5倍の増加が決定した[30]。従来、旧式化した九七式戦闘機を主力としていたが、4月から「屠龍」の配備を促進した[31]。海軍の内戦部隊所属の航空戦力は各鎮守府、警備府直属の航空隊だけであったが、1943年1月第五十航空戦隊が新設され、内戦部隊に協力することになり、内地に帰還中の航空戦隊も錬成のかたわら哨戒、索敵に当たった[32]。海軍は支那事変の経験から邀撃機の必要性を1938年頃から感じており、これが局地戦闘機の開発につながり、1939年9月に「雷電」の開発が始まり、後に「紫電」の開発も始まったが、局地戦闘機の開発は遅れ、1943年半ばに使用できた戦闘機は、従来の零式艦上戦闘機だけであった[33]

北九州被爆とサイパン陥落を受けた日本は防空組織を大型化した。1944年7月17日、陸軍は防衛総司令官の隷下戦力を三個飛行師団に増強。海軍では初の防空戦闘機部隊の「第三〇二海軍航空隊」と、内戦部隊に所属する呉航空隊、佐世保航空隊のうちの戦闘機隊を、作戦時に限って防衛総司令官の指揮下に入れるように定めた。部分的にではあるが、防空において初めて陸海の指揮系統が一元化した[34]

B-29が北九州に来襲したことで対策が急務となった。高高度を飛行するB-29の迎撃には高高度戦闘機が必要であり、陸軍では2000馬力エンジンの「疾風」が1945年に入ってから使用されるようになったが、高高度性能は他機より良い程度で依然厳しい状態だった。そこで高高度性能を持つ百式司偵を武装し、これも防空に使用した[35]。夜間邀撃は従来の昼夜兼任から「屠龍」などによる専任部隊が設けられた[36]。海軍では、零戦はカタログ値では1万メートル以上上がれるが、実際は陸軍機と同様に高高度では活動が困難であった。局地戦闘機は、「雷電」も最初は高高度性能が厳しかったが、プロペラの改善で高度1万メートルを可能にし、「紫電」は空戦性能に優れていたので対戦闘機に回された[37]。しかし護衛のP-51は高度1万メートルでも運動性が低下せず安定して703 km/hを発揮することから、護衛戦闘機を振り切る高速な局地戦闘機として震電の開発が行われたが間に合わなかった。

1944年には軍防空、民防空の強化充実が図られ、「東京航空要塞」が確立されていたとする主張もある[38][39]。しかし、敵の大規模な空襲に対し、首都近辺では高射砲の砲弾不足も見られた[40]

大戦後期に新型の高射算定具や要地防空用に電波標定機(陸軍開発の射撃レーダー)・防空指揮通信機・特種指揮電話機などが配備されていたため、射撃精度は従来より向上していたが、高射砲も性能不足・門数不足・電波標定機不足によりドイツのような強力な迎撃を行うことは難しかった。重高射砲である五式十五糎高射砲も開発されたが、2門が製造され末期に配備されたにとどまる。先進兵器の開発も進められ、ドイツの技術供与でロケット戦闘機「秋水」や陸軍のジェット戦闘機キ201「火龍」ビームライディング地対空誘導弾奮龍の試作や計画がされたが終戦に間に合わなかった。

対空砲火の不足によりP-51が爆撃機を離れ機銃掃射で飛行場を襲撃することも増えたため、航空機や飛行場を様々な手段で隠す手法が用いられた。滑走路を畦道や水田に偽装したり、普段は車輪を付けた住宅の張りぼてや樹木を滑走路に置き離着陸時に動かすなどの手法が考案されたが、これらは偵察写真で判明しておりあまり効果が無かった[41]

被害

空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ[42]。被災面積は約1億9,100万(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した[42]。その他、多くの国宝重要文化財が焼失した。米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとしている[43]

都道府県別被害数

※広島と長崎は原爆被害を含む。沖縄の被害については沖縄戦を参照のこと。東京都の被害市町村数は23区を含む。

都道府県名 被害市町村数 死者数 行方不明者数 負傷者数 損失家屋数
北海道 52 1,210 20 - -
青森県 5 1,772 - 890 17,863
秋田県 2 94 8 - -
岩手県 5 616 10 664 4,850
宮城県 11 1,118 82 1,936 11,603
山形県 6 42 - 37 -
福島県 8 661 66 412 2,730
茨城県 7 3,299 60 3,190 14,952
栃木県 9 612 - 1,181 10,835
群馬県 15 1,237 - 1,538 15,052
千葉県 12 1,448 44 1,909 14,181
埼玉県 10 392 8 955 3,797
東京都 29 116,959 6,034 109,567 770,090
神奈川県 9 9,197 - 16,202 146,493
静岡県 15 6,539 10 9,808 96,774
新潟県 2 1,467 - 472 15,123
山梨県 2 1,181 - 885 17,364
長野県 4 52 - 46 106
富山県 2 2,300 - 3,801 22,490
石川県 3 27 - 25 -
福井県 2 1,809 14 1,907 26,966
岐阜県 3 1,191 23 1,071 33,963
愛知県 26 13,359 231 15,565 168,119
滋賀県 4 45 7 79 -
奈良県 12 31 - 122 -
三重県 8 5,612 3,749 3,749 32,837
和歌山県 12 1,830 5 5,255 30,276
大阪府 15 15,784 - 28,347 364,422
京都府 7 215 - 270 -
兵庫県 10 12,427 - 21,619 212,968
岡山県 3 1,773 127 1,114 23,800
広島県 3 262,425 14,394 46,672 101,628
鳥取県 3 61 9 312 -
島根県 1 38 - 16 -
山口県 9 3,493 161 3,878 23,106
香川県 1 1,369 186 1,034 -
徳島県 3 1,710 450 1,210 -
愛媛県 5 546 - 2,219 21,552
高知県 1 647 43 1,055 12,237
福岡県 4 5,776 - 5,011 62,048
佐賀県 3 138 - 192 -
長崎県 10 75,380 48 2,219 50,079
熊本県 11 869 - - 11,657
大分県 7 710 16 521 2,486
宮崎県 8 646 - 559 -
鹿児島県 51 4,601 48 2,219 -

損失家屋数、死者数は[44]より。 負傷、行方不明者数は[45]より。 被害市町村数は[46]より。

合計死者数

東京大空襲による死者

調査団体、研究者、新聞社各紙によって数値のばらつきがあり、最少の約24万から最大の100万人の説が存在する。 また、負傷者も30万人程度という説もある[47]

死傷者数(単位:人)
調査団体 合計 調査年数
米国戦略爆撃調査団 252,769 1947年(昭和22年)
経済安定本部 299,485 1949年(昭和24年)
戦災都市連盟 509,734 1956年(昭和31年)
第一復員省 238,549 1957年(昭和32年)
建設省戦災復興史 336,738 1957年(昭和31年)
東京新聞 558,863 1994年(平成6年)
田中利幸 100万[21] 2009年(平成21年)
日本経済新聞 死者33万人、負傷者43万人 2011年(平成23年)
空襲を受ける東京市街(1945年5月25日
焼け野原となった東京市街

米軍機数、空襲被害は資料により大きな違いがある。

東京

  • 1942年(昭和17年)4月18日 - ドーリットル空襲
  • 1944年(昭和19年)11月24日 - マリアナ諸島のB29による初空襲。B29・111機が出撃し、途中故障で引き返した機を除き88機が爆撃に参加。中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)が目標。 東京はこれ以後106回の空襲を受けた。11月27日には中島飛行機武蔵製作所2回目の空襲。中島飛行機武蔵製作所は初回から最後の翌年の4月12日まで11回空爆される。
  • 1945年(昭和20年)2月16日 - 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲(ジャンボリー作戦)。関東の航空基地と軍需工場が標的。(ドイツでは2月13日からドレスデン爆撃)
  • 3月10日 - 東京大空襲(下町大空襲)。死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸。
  • 4月13日 - 城北大空襲。B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
  • 4月15日 - 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
  • 5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
  • 5月25日 - 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。

名古屋

1944年(昭和19年)12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。

  • 1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
  • 3月19日 死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
  • 5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
  • 6月9日 熱田空襲 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
  • 空襲後の大阪市街

    大阪は1945年(昭和20年)2月26日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。

    • 1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
      • 6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
      • 6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
      • 7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
      • 神戸は1945年(昭和20年)1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。

        • 1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
        • 5月11日 B29・92機。死者1093名。負傷者924人。
        • 京都は1945年(昭和20年)1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて死者302人、負傷者561人の被害を出した(京都空襲)。

          • 1945年1月16日 死者41人
          • 3月19日
          • 4月16日
          • 4月22日
          • 5月11日 京都御所へ空襲。
            • 1945年(昭和20年)5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787人。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千-1万人にのぼることが確実と考えられている。
            • 神奈川県下の空襲は合計52回。 罹災者64万4044名、焼失14万3963戸の被害。横浜は内25回(上記の大空襲を含む)

            主要地方都市

            便宜上、本土ではない地域(外地)の空襲も記述する。

            1943年以前

            • 1938年2月23日 台湾の台北松山基地ソ連空軍志願隊中華民国空軍が空襲。民間人に若干の被害。
            • 1938年5月20日 中国軍B-10爆撃機が九州に侵入して反戦ビラを投下。
            • 1942年3月4日 東京府に属する南鳥島をアメリカ海軍艦載機が空襲。以後、同島はたびたび空襲を受ける。
            • 1943年11月25日
              十・十空襲に遭う那覇市街
              • 6月15日 八幡空襲 中国の成都の基地から初めてB29が本土を空襲した。
              • 10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての米艦載機による空襲(フィリピン進攻の準備作戦)。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
              • 10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。
              • 11月21日 熊本初空襲

              1945年3月

              • 3月1日 台南初空襲 日本統治時代台湾台南市
              • 3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
              • 3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
              • 3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
              • 3月27日 小倉大空襲

              1945年4月