昭和天皇
昭和天皇
1928年(昭和3年)、即位礼

在位期間
1926年12月25日 - 1989年1月7日
大正15年/昭和元年12月25日午前1時26分 - 昭和64年1月7日午前6時33分
即位礼 即位礼紫宸殿の儀
1928年(昭和3年)11月10日
京都御所
大嘗祭 1928年(昭和3年)11月14日15日
京都御苑大嘗宮
元号 昭和 : 1926年 - 1989年
追号 昭和天皇
1989年(平成元年)1月13日[1]追号勅定
内閣総理大臣
先代 大正天皇
次代 今上天皇

在位期間
1921年11月25日 - 1926年12月25日
大正10年11月25日 - 大正15年12月25日
天皇 大正天皇
内閣総理大臣

誕生 1901年明治34年)
4月29日22時10分
日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区
(現・東京都港区赤坂)、青山御所
崩御 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分(宝算87)
日本の旗 日本 東京都千代田区吹上御苑 吹上御所
大喪儀 葬場殿の儀
大喪の礼
1989年(平成元年)2月24日
新宿御苑葬場殿
陵所 武蔵野陵東京都八王子市長房町
裕仁
1901年(明治34年)5月5日命名
別称 昭和帝
先帝陛下
称号 迪宮(みちのみや)
若竹
元服 1919年(大正8年)5月7日
父親 大正天皇
母親 貞明皇后
皇后 香淳皇后(良子女王)
1924年(大正13年)1月26日大婚
子女
皇居 宮城・皇居
栄典 大勲位菊花章頸飾
Order Chrysantemum Sash.svg
学歴 学習院初等科卒業
副業 生物学者
親署 昭和天皇の親署
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昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 1](在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。

幼少時の称号迪宮(みちのみや)・裕仁(ひろひと)。お印若竹(わかたけ)。

概要

歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)最も長寿(宝算87)である。

大日本帝国憲法が規定する「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」する立憲君主制における天皇として日本の降伏において連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに大きく関与した。

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴かつ日本国民統合の象徴第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。

またヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究する生物学研究者でもあった。

生涯

少年時代

旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
お印に選ばれた若竹

1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と皇太子妃・節子(後に立后して貞明皇后)の第一男子(後に、第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生。身長は168(約51cm)、体重800(3000g)。その後、翌年の7月末に匐行し、8月初めに摑まり立ち、11月中旬には自分で立ち11月末には何歩か歩んでいる[2]

明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補をいくつか挙げさせて選定し出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。称号は「迪宮」「謙宮」の二候補の中から、諱は「裕仁」「雍仁」「穆仁」の三候補の中からそれぞれ選んでいる。「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧(允(まことに)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば謨明(ぼめい、民衆のこと)は諧(とも)に弼(たす)けむ)」「恵迪吉従逆凶(迪に恵(したが)へば吉にして、逆に従へば凶なり)」に、「裕」は『易経』の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕(これ、兄弟の綽綽にして裕あり)」、『書経』の「好問則裕自用則小(問ふを好めば則ち裕に、自ら用(こころ)みれば則ち小なり)」、『礼記』の「寛裕者仁之作也(寛裕であらば仁の作すなり)」に取材している[3]。同じ日には宮中賢所皇霊殿神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている[4][注釈 2]

生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官川村純義海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村伯・死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)と共に沼津御用邸に移った。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典陸軍大将)に教育された。

皇太子時代

1919年(大正8年)4月、陸軍歩兵大尉の正衣を着用して撮影された18歳の裕仁親王

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所立太子礼を行い、正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランスベルギーオランダイタリアヨーロッパ5か国を歴訪。1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世(現:エリザベス2世女王の祖父)から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された[5]。同年11月25日、20歳で摂政に就任し[6]摂政宮(せっしょうみや)と称した。

日本統治時代の台湾台湾総督府に到着した摂政時の皇太子を出迎える騎兵隊(1923年4月)

1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で樺太を視察。10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子・照宮成子内親王(後の盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生。

即位

1928年(昭和3年)、即位の礼
1928年(昭和3年)、即位の礼
1928年(昭和3年)、即位の礼
切手に描かれた昭和天皇の大嘗宮

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和改元[注釈 3]1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う[注釈 4]。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所即位の大礼を挙行。11月14日・15日、京都御所に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(後の鷹司和子)が誕生した。

1931年(昭和6年)1月、宮内省(現:宮内庁)・文部省(現:文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(後の池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。1933年(昭和8年)12月23日、自身の五人目の子にして待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し、歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝溥儀朝最後の皇帝)を東京駅に迎える。11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。

日中戦争と第二次世界大戦

昭和天皇御前の大本営会議の様子
(1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)

1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。

1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、太平洋戦争(開戦4日後の同年12月12日の閣議決定による当時の呼称:大東亜戦争)が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に良子皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日ラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。

9月27日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため、駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また同年には、神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。

「象徴天皇」として

1956年(昭和31年)11月、国家元首国賓としては戦後初となるエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世を迎えての宮中晩餐会にのぞむ昭和天皇と香淳皇后
1983年(昭和58年)11月9日、国賓として来日したアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン夫妻を赤坂迎賓館に迎えての歓迎式典にのぞむ昭和天皇

1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。

1946年(昭和21年)11月3日大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正するということを示す裁可とその公布文である上諭により、日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。

1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男・皇太子明仁親王への譲位、当時まだ年齢的にも幼く未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟の秩父宮雍仁親王結核を患い病弱状態にあったため、次弟の高松宮宣仁親王摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇畝傍山陵、自身の祖父である明治天皇伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリスオランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた[7]

1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として、東京都立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日、同日は平成期における国民の祝日の一つ、天皇誕生日、旧:天長節)から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。

1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され[注釈 5]神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

晩年

昭和天皇の大喪の礼・葬場殿の儀
1989年(平成元年)2月24日

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中に嘔吐症状で中座する。8月以降になると何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著に。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ「腸閉塞」と判明。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。

しかし1988年(昭和63年)になると体重はさらに激減。8月15日全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席に。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。

9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが高熱が続くため急遽中止に。その翌9月19日の午後10時頃、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。その後も吐血・下血を繰り返しマスコミ陣はこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道しさらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

十二指腸乳頭周囲腫瘍腺癌[注釈 6]のため長く療養していたが、1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御。宝算87。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。午前7時55分に宮内庁長官・藤森昭一と内閣官房長官小渕恵三(後の内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表。その直後、内閣総理大臣竹下登(当時)が「大行天皇[注釈 7]崩御に際しての謹話を発表。

1989年(平成元年)1月31日、今上天皇(明仁)が、在位中の元号から採り昭和天皇追号した[8]2月24日新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが副葬品として共に納められたとされる[9]

年譜

1916年、立太子された皇太子裕仁親王(当時)の姿を見ようと宮城前広場に集まる日本国民
1921年、5月15日ロンドン近郊のクロウフォードで、英国首相ロイド・ジョージらと
1925年11月、良子妃と成子内親王と
1938年(昭和13年)1月、陸軍始観兵式において「白雪」号にまたがり帝国陸軍将兵の閲兵を行う昭和天皇
1946年(昭和21年)11月3日日本国憲法に署名
  • 1928年(昭和3年)6月4日張作霖爆殺事件
  • 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行う。12月、御大典記念観兵式。
  • 1929年(昭和4年)神島和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。
  • 1931年(昭和6年)9月18日柳条湖事件満州事変
  • 1933年(昭和8年)12月23日、第五子・第一皇子継宮明仁親王が誕生する。
  • 1935年(昭和10年)天皇機関説事件
  • 1935年(昭和10年)4月、来日した満州国皇帝愛新覚羅溥儀東京駅に迎える。
  • 1936年(昭和11年)2月26日 - 2月29日二・二六事件
  • 1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件日中戦争支那事変)。
  • 1940年(昭和15年)11月10日、宮城外苑皇居前広場)において挙行された「紀元二千六百年式典」および、翌11月11日、同会場におけて挙行された「紀元二千六百年奉祝会」に皇后良子(香淳皇后)と共に出席。
  • 1941年(昭和16年)12月8日、対英米開戦。太平洋戦争大東亜戦争)勃発。
  • 1945年(昭和20年)8月15日(正午)臣民に対して自身が音読し録音された「終戦の詔書」を通じてラジオ放送において「戦争終結」を告げた(玉音放送)。
  • 1946年(昭和21年)1月1日、「新日本建設に関する詔書」を渙発する。
  • 1952年(昭和27年)4月28日サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖国神社をそれぞれ親拝。
  • 1958年(昭和33年)「慶應義塾大学創立百年記念式典」にて「おことば」を述べる。
  • 1959年(昭和34年)長男・皇太子明仁親王正田美智子が成婚。
  • 1962年(昭和37年)南紀白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)にて、30年前に訪問した神島を眺めつつ、熊楠を偲ぶ御製「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
  • 1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后と共にイギリスオランダなど欧州諸国を歴訪する。
  • 1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、皇后と共にアメリカを訪問する。
  • 1981年(昭和56年)皇居新年一般参賀において、参集した国民に対して初めて「お言葉」を述べる。
  • 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術
  • 1988年(昭和63年)8月15日日本武道館での「全国戦没者追悼式」に出席、これが公の場への最後の出席となる。
  • 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍腺がん)のため崩御(宝算87歳)。香淳皇后は皇太后に、長男・皇太子明仁親王が践祚し「第125代天皇」となる。
  • 1989年(平成元年)1月31日追号が「昭和天皇」と定められ、皇居で「奉告の儀」が行われる。
  • 1989年(平成元年)2月24日新宿御苑において「大喪の礼」が行われ東京都八王子市武蔵野陵に埋葬される。日本国憲法と(現行の)皇室典範に基づき葬られた最初の天皇である。
  • 昭和天皇 父:
    大正天皇
    祖父:
    明治天皇
    曾祖父:
    孝明天皇
    曾祖母:
    中山慶子
    祖母:
    柳原愛子
    曾祖父:
    柳原光愛
    曾祖母:
    長谷川歌野
    母:
    貞明皇后
    祖父:
    九条道孝
    曾祖父:
    九条尚忠
    曾祖母:
    唐橋姪子
    祖母:
    野間幾子
    曾祖父:
    野間頼興[13]
    曾祖母:
    不詳

    系図

    1936年(昭和11年)、
    昭和天皇一家
    1941年(昭和16年)12月7日太平洋戦争大東亜戦争)開戦前日の天皇一家
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    122
    読み 生年 没年 御称号 続柄 備考
    成子 しげこ 1925年〈大正14年〉
    12月6日
    1961年〈昭和36年〉
    7月23日(満35歳没)
    てるのみや
    照宮
    第一皇女 盛厚王(東久邇宮家)と結婚
    戦後皇籍離脱
    祐子 さちこ 1927年〈昭和2年〉
    9月10日
    1928年〈昭和3年〉
    3月8日(満0歳没)
    ひさのみや
    久宮
    第二皇女
    和子 かずこ 1929年〈昭和4年〉
    9月30日
    1989年〈平成元年〉
    5月26日(満59歳没)
    たかのみや
    孝宮
    第三皇女 鷹司平通と結婚
    皇籍離脱
    厚子 あつこ 1931年〈昭和6年〉
    3月7日(87歳)
    よりのみや
    順宮
    第四皇女 池田隆政と結婚
    皇籍離脱
    明仁 あきひと 1933年〈昭和8年〉
    12月23日(85歳)
    つぐのみや
    継宮
    第一皇子 第125代天皇
    正仁 まさひと 1935年〈昭和10年〉
    11月28日(83歳)
    よしのみや
    義宮
    第二皇子 常陸宮当主
    貴子 たかこ 1939年〈昭和14年〉
    3月2日(79歳)
    すがのみや
    清宮
    第五皇女 島津久永と結婚
    皇籍離脱

    主な出来事

    乃木希典殉死

    1912年明治45年)7月30日の祖父・明治天皇の崩御後、同年9月13日に陸軍大将・乃木希典が同夫人乃木静子と共に殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。

    乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になった後も記者会見の中で度々紹介している[14][15][16]。迪宮はこの他にも乃木の教えを守り、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった[17]。迪宮は乃木を「院長閣下」と呼び尊敬していた。これは明治天皇がそう呼ぶように言いつけたもので、ある人が「乃木大将」と呼んだ時には「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したとの逸話も残っている[要出典]

    1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意と共に自ら写本した『中朝事実』を与えた[17]。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子はその翌日に、養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、彼の辞世の歌にも接して涙を流した[18]

    宮中某重大事件

    「御婚約御変更無し」と報じる東京朝日新聞(大正10年2月11日)

    1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。

    しかし11月に、元老山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。山縣は西園寺公望首相原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、1921年(大正10年)2月10日に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。

    事件の責任を取って、宮内大臣中村雄次郎は辞任し、山縣は枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意の内に病気により死去した。

    婚礼の儀の延期と関東大震災

    1924年(大正14年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と良子妃

    1923年(大正12年)9月1日発生の関東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行啓する予定であったが、当時の内閣総理大臣加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。後に昭和天皇はこの時を振り返り、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている[19]

    地震における東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。

    後年の振り返りで、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。

    田中義一首相を叱責

    満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。

    田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣牧野伸顕の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人右翼国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。

    この事件で、天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。

    なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。

    昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は「牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため」と、原武史は「地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による」と論じている。

    「天皇機関説」事件

    1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、時の当事者たる昭和天皇自身は侍従武官長本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動を巡って昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。

    二・二六事件

    1936年(昭和11年)2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる[20]。このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。

    この時の発言について、後の1945年(昭和20年)第二次世界大戦における日本の降伏による戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に長男・皇太子明仁親王(後、平成期の今上天皇)が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により任官を取り止めさせている。また、長男皇太子の教育係として陸軍の軍人を就けることを特に拒否している。

    なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者といわれることもある真崎甚三郎の息子で外務省宮内庁での勤務経歴もある真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。

    太平洋戦争(第二次世界大戦)

    開戦

    1941年(昭和16年)9月6日御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。

    御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇日露戦争開戦の際に詠んだ御製である

    四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ
    (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

    という短歌を詠み上げた。

    また米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告の中の「豈朕カ志ナラムヤ」の一文は天皇本人が書き入れたといわれる。

    なお、対米開戦直前の1941年(昭和16年)12月6日フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領より直接、昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」という親電が送られていた[21]

    しかし、この親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前であった。国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も阻止されてしまう。元大日本帝国陸軍参謀本部通信課・戸村盛男は「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下(昭和天皇)も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」と後に証言している。こうして、親電が肝心の天皇の手元に届いたのは真珠湾攻撃のわずか20分前であった。

    『昭和天皇独白録』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は開戦には「消極的」であったといわれている。ただし、『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

    日本共産党中央委員長も務めた田中清玄は、後に転向して「天皇制皇室)護持」を強く主張する「尊皇家」になった。敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(後の一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ。」と回答している。

    戦争指導

    1943年(昭和18年)6月24日戦艦武蔵行幸した昭和天皇(中央)

    開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、太平洋アメリカ西海岸沿岸からインド洋マダガスカルに至るまで、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示等もしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受け敗北を喫した例がある。

    また、昭和天皇はときに、軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。その時の理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。

    これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引く上に、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。

    和平に向けて

    日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸軍・梅津美治郎参謀総長および海軍・及川古志郎軍令部総長と閣僚(当時小磯内閣小磯國昭首相)の召集を勧めている[注釈 8]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[注釈 9]

    その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた元首相近衛文麿上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は、「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[23][24]

    長崎に原子爆弾が投下された8月9日に、連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[注釈 10]。昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日正午、自身が音読し録音された「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」がラジオを通じて玉音放送として放送され、終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[25][26][27]

    象徴天皇への転換

    マッカーサーとの会見写真

    マッカーサーとの会見(1945年9月27日)
    広島を訪れ歓迎を受ける昭和天皇(1947年

    イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇はGHQ総司令官のダグラス・マッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。

    また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた。天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。  さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という。(『マッカーサー回想記』

    (マッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも厳しく批判されていた。しかし、この時は上ボタンを閉め天皇陛下を車まで見送ったという。)

    人間宣言

    1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(正式名称:新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ、通称:人間宣言)が官報により発布された。「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであること」を明確にするため、詔書の冒頭においてかつて自身の祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」を掲げている[28][29]

    このことを後年振り返り、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、「日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった」といった趣旨のようなことを発言している[28][30][31]

    この詔書は「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない[32]

    天皇イメージの転換

    天皇御服を着用し伊勢神宮へ終戦報告に向かう昭和天皇(1945年11月12日)

    戦前の天皇は一般国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服軍服姿がほとんどで、現人神大元帥という立場を非常に強調していた。

    ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

    さらに、連合国による占領下では、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制皇室)擁護派に近づくとともに、一人称として「」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。

    スポーツ観戦

    相撲

    1913年(大正2年)頃、傅育官と相撲に興じる裕仁親王(12歳)

    皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館天覧相撲に赴いている。

    特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間富士桜霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った[33]

    武道

    1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道柔道弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。

    野球

    1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球巨人阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが、1966年(昭和41年)11月8日日米野球ドジャース戦を観戦している。

    靖国神社親拝

    昭和天皇は、終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社親拝していたが、1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった[34]。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣を行っている。

    昭和天皇 靖国神社親拝(1934年
    1. 1945年昭和20年)8月20日(昭和天皇行幸)
    2. 1945年(昭和20年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)
    3. 1952年(昭和27年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
    4. 1954年(昭和29年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
    5. 1957年(昭和32年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
    6. 1959年(昭和34年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
    7. 1964年(昭和39年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸)
    8. 1965年(昭和40年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)
    9. 1969年(昭和44年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸)
    10. 1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)

    昭和天皇が靖国神社親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀憲法違反である、とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では定説となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えた後も、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している[35]

    「崩御」前後

    内閣

    来るべく天皇崩御に備え、内閣は新元号(平成)の名称を検討しており、マスコミに「(内定していた)平成」の名称をスクープされぬよう徹底していた。

    記帳

    1988年(昭和63年)以降、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。

    各地の記帳所、記帳所の設置された場所は以下の通り。

    • 皇居前記帳所
    • 千葉県民記帳所
    • 葉山御用邸通用門記帳所
    • 名古屋熱田神宮境内記帳所
    • 京都御所前記帳所
    • 福岡市庁舎内記帳所
    • 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
      • 同町は
        「自粛」ムード
        1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した[36]。具体的な行動としては、以下のようなものが行われ、「自粛」は、同年の世相語となった[37]。このほか、目立つような物価の上昇(インフレーション)は見られなかった。
        服喪
        崩御後、政府の閣議決定により崩御当日を含め自治体には6日間・民間には2日間弔意を示すよう協力が要望された[47]。その結果、各地での弔旗掲揚などの服喪以外に、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行われた。
        その後も自粛の動き自体は続いた。テレビ番組では歌舞音曲を控えることからベストサウンドが再放送等で差し替えられるなどの影響が出た。
        この後、2月24日大喪の礼では、再び企業・商店・レジャー施設が臨時休業した。民間での自粛・服喪の動きはこれを以って終息に向かった。
        殉死
        昭和天皇の崩御後は、確認されているだけで数名の

        昭和天皇が高齢となった1980年代頃(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。

        1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が一時中断・繰り下げあるいは途中打ち切り・中止されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言からであることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった[注釈 14]。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった[注釈 15]

        1月7日・8日およびそれ以後のマスコミの動き

        NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送。6時36分18秒から10時までの「危篤報道から崩御報道」[注釈 16]と14時34分30秒から14時59分までの「新元号発表」[注釈 17]はNHKのテレビ・ラジオ全波[注釈 18]で報道特別番組が放送された。1989年(平成元年)1月8日0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、『N響アワー』は曲目変更をした上で放送された[54][注釈 19]

        7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」[注釈 20]と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。

        1989年(昭和64年)1月7日の危篤報道(6時35分発表)[注釈 21]以降翌1月8日まで、NHK(総合)、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち・生涯、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった

        NHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、テレビ朝日は8日には、ゴールデンアワー時の放送について当初の内容を変更し、田原総一朗の司会による「天皇制はどうあるべきか」という番組に変更した。2日目を過ぎた後もフジテレビが『森田一義アワー 笑っていいとも!』を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編『友達の輪スペシャル』に差し替えて放送するなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。

    外遊

    皇太子時代

    1921年(大正10年)、イギリスのオックスフォード大学でボートレースを見物する皇太子
    同年5月19日、スコットランド エディンバラを訪問

    皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスフランスベルギーイタリアバチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧[注釈 22]であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。

    裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦「香取」が用いられ、横浜を出発し、那覇香港シンガポールコロンボスエズカイロジブラルタルと航海し、二か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスの首都ロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会談した。この夜をジョージ5世は、「慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いた」と語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館ロンドン塔イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ[55]ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与された[56]。19日から20日にかけては、スコットランドエディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与された。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない。」と感嘆したという[56]

    イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和天皇は「この外遊が非常に印象的であった」と述べている。

    即位後

    米国大統領リチャード・ニクソン夫妻と昭和天皇、香淳皇后1971年(昭和46年)9月27日、アメリカ合衆国アラスカ州アンカレッジにて
    1975年(昭和50年)10月2日、訪米した天皇・皇后と米国大統領フォード夫妻

    1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダスイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。なおこの際はお召し艦を使用した前回と違い日本航空ダグラス DC-8の特別機を使用した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地内のアラスカ地区軍司令官邸でワシントンD.C.から訪れたアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンと会談、実質的にアメリカも訪問している。なお、この昭和天皇とニクソンとの会談は当初の予定に無く、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、外務大臣福田赳夫は会談を推進する駐米大使・牛場信彦に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、天皇との会談を、ニクソンの訪中で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないかと福田が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである[58][59]

    当初の訪問地であり、王室同士の交流も深いデンマークベルギー、またフランスでは国を挙げて温かく歓迎され、フランスでは、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で再会、しばし歓談している。しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマシンガポールインドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、このことを恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。

    1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である[注釈 23]。このときはアメリカ空軍に加え海兵隊沿岸警備隊の5軍をもって観閲儀仗を行っている。訪米に前後し、日本国内では反米的な左翼組織東アジア反日武装戦線などによるテロが相次いだ。

    天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.ロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日のフォードとの公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという。)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成される「パールハーバー生存者協会」が「天皇歓迎決議」を採択している。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。

    ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、「戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞」などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。帰国当日に二種類の記念切手・切手シートが発行され、この訪米が一大事業であったことを物語っている。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。

    今上天皇と比較してもごく僅かで、外国訪問は3回であった。

    行幸

    皇太子時代、台湾台南第一中学校行啓(1923年(大正12年))
    1947年(昭和22年)、石川県で開催の国民体育大会の折、山中温泉栢野大杉を見上げる昭和天皇。あまりの大きさに暫く言葉もなく見上げたという

    戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。1923年(大正12年)には台湾台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。

    戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。このときの巡幸では、三井三池炭鉱の地下1,000mもの地底深くや、満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先での逸話、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。なお、当時の宮内次官・加藤進は、天皇が東京大空襲直後に東京・下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、後の全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないか、と推測している[60]

    また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会1972年(昭和47年)の札幌オリンピックバブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には、大きな影響を与えたと見られている。

    全国46都道府県を巡幸するも、沖縄県巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後も長らくアメリカ軍の占領下であったうえ、返還後も1975年(昭和50年)の長男・皇太子明仁親王訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができなかった。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていたが、自ら訪沖することが不可能と判明したため皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して、「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(当時)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。

    その死の床にあっても、「もう、ダメか」と自身の病状よりも沖縄巡幸を行えなかったことを嘆いていた[61]

    逸話

    皇太子時代

    • 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた[62]
      • 学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
    • 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(この提案に学友が従ったかどうかは不明)。
    • 皇太子時代にイギリスを訪問した時、ロンドン地下鉄に初めて乗車した。この時改札切符駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。
    • この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで5人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
    • 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。

      戦前

      • 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。
      • 晩餐時、御前で東條英機杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」「アメリカの先住民は瞑想するのに煙草を用いる」などと煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒に関しては、5歳の頃正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、悪酔いして寝正月を過ごす破目になり、以後だめになったと伝わっている。
      • 小説でも「天皇の料理番」秋山徳蔵晩餐会のメインディッシュであった料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、招待客の皿について同じミスがなかったかを訊ね、秋山がなかったと答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
      • 学習院在学中に古式泳法小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
        • 対英米開戦後初の敗北を喫したミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、大戦中期のガタルカナルにおける敗北以降、各地で日本軍が連合国軍に押され気味になると言動に余裕がなくなったという。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという[要出典]
        • 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
        • ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官・山本五十六と司令部にも伝わっていた[63]。だが参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず[64]、結果、待ち伏せていた米軍との間で第三次ソロモン海戦が発生する。行啓の際に度々お召し艦を務めた戦艦比叡」を失い、翌日には姉妹艦「霧島」も沈没、天皇の懸念は的中した。
        • 太平洋戦争史上最大の激戦といわれたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も3度も与えている。
        • 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
        • 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。1943年(昭和18年)、第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶のために参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(あきつ丸神州丸など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?」と更なる下問があった。 その時はそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えたという。
        • 戦争中、昭和天皇は靖国神社伊勢神宮などへの親拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治思想家の原武史は、昭和天皇が熱心な祈りを通じて「神力によつて時局をきりぬけやう」[65]とするようになったという。
        • 天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件終戦の時だけであったと語っている(後述)。このことを戦後、徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。
        • 1945年(昭和20年)8月15日には、前日の14日レコードで録音された玉音放送が流され、自身の声で国民に終戦を告げた。この放送における『耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び』の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介され、よく知られている。
        • 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す
          助け合って食糧難を乗り越えるようラジオで呼びかける昭和天皇、1946年(昭和21年)5月
          昭和天皇の全国巡幸、1949年(昭和24年)5月・久留米
          • 終戦後初の年明けの1946年(昭和21年)1月1日、自身の詔書としていわゆる「人間宣言」を発表した。その際、天皇の神聖な地位の拠り所は「日本神話における神の子孫である」ということを否定するつもりもなく、昭和天皇自身は「自分が神の子孫であること」を否定した文章を削除した上で、自身の祖父である明治天皇が示した「五箇条の御誓文」の文言を詔書の冒頭部分に加筆して、自身の意思により「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであること」を明確にしたとされる。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。その31年後、1977年(昭和52年)8月23日の記者会見にて昭和天皇は、「神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだ」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」と振り返り語った[67]
          • 1946年(昭和21年)初春、日本全国の沖縄県を除く46都道府県の巡幸が開始された。当時のイギリス紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と報じた。これに対して、世界史上初めて非君主国(共和制)としての建国由来を持つ王室が存在しないアメリカ人が中心となり組織されたGHQでは「神ではない、ただの猫背の中年男性」、「石の1つも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたものも多かったが、巡幸の様子を見て大いに驚いたとされる。
          • 敗戦から1年が経過した1946年(昭和21年)8月、戦勝国であるアメリカの諸制度が導入されていく中にあって、昭和天皇は敗戦国の国民として打ちひしがれた日本人を励ますため、日本史上において対外戦争の敗北という点で共通した、1282年前に遡る飛鳥時代での白村江の戦い天智2年8月/663年10月)の例を挙げ、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇大化の改新を断行され、その際思い切った制(当時の中国王朝)の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし」と語った[68]。ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を取り上げた。
          • 天皇の余りの影響力に、1946年(昭和21年)12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の日の丸国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民政局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年(昭和23年)からの巡幸再開を許可した。
          • 初の日本社会党政権を成立させた片山哲首相に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、社会主義イデオロギーに基づく急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は「内奏を望む昭和天皇への違和感」を日記に記している[69]
          • 1947年(昭和22年)9月23日、東京都内の天皇側近からGHQを通してアメリカ合衆国国務省に伝送されたいわゆる「天皇メッセージ」によると、「天皇はアメリカ合衆国が沖縄県をはじめ琉球諸島軍事占領し続けることを希望していた」とされる。天皇の意見によると、「その占領は、アメリカ合衆国の利益になり、日本を守ることにもなり、沖縄の主権は、日本に残したまま長期租借という形で行われるべきである」と考えられた。これは「日本本土を守るため、沖縄を切り捨てた」とする見方がある一方、「租借という形で日本の主権を確保しておく」といった見方もある[70]
          • 農地改革後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に「農地改革の成果」と「ダグラス・マッカーサーをどう思うか」について質問した時、マッカーサーを「お雇い外国人」と思いこんだ老人から「陛下も本当に良い人を雇ってくださいました」と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある[注釈 24]
          • 1949年(昭和24年)5月22日佐賀県三養基郡基山町の因通寺への行幸では、ソ連による抑留下で共産主義思想と反天皇制(天皇制廃止論君主制廃止論の一つ)を教え込まれ洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。
          • 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に向かって生活に密着した数多くの質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の「涼しくなってからでいいのでは」との反対を押し切り、「東北の農業は夏にかかっている」という理由での季節時期を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにしたとされる[71]
          • 巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。
          • アメリカ政府からの使節が皇居新宮殿について感想を述べた時、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年(昭和36年)まで、天皇は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて住まいとしていた。
          • 1969年(昭和44年)1月2日に、皇居新宮殿が完成してから初の(1963年(昭和38年)以来の)皇居一般参賀で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これを機に長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公・奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。
          • 皇居の畑で芋掘りをしていた時、日本では滅多に見ることのできない珍しいであるヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情の分からない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。この時のヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
          • イギリスなど君主制を採る国に対しては、比較的新興国の部類に入るイラン帝国なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない1956年(昭和31年)にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満州国皇帝・溥儀以来の大掛かりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった1976年(昭和51年)の中央アフリカ帝国建国に際しても祝電を送っている。
          • 「イングランドの最高勲章」および「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典」においての「騎士団勲章」の最高位とその騎士団の一員の証となる「ガーター勲章」を1929年(昭和4年)に叙勲しているが、1941年(昭和16年)12月の日英開戦と共に剥奪された。戦後、1962年(昭和37年)の秩父宮妃訪英、1969年(昭和44年)のマーガレット王女訪日などで日英の皇室・王室間の友好交流が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ1971年(昭和46年)4月7日イギリス王室は「剥奪された天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発し、これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位に復帰した。剥奪後に復帰した外国君主は騎士団600年余の歴史の中で昭和天皇のみである。ドイツオーストリアイタリアの各国は戦後に王制(君主制)が廃止(共和制へ移行)された為復帰されることは無かった。
          • 1971年(昭和46年)6月佐藤栄作首相がアーミン・マイヤー米国駐日大使と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと蒋介石台湾中華民国政府)を支持する」よう促されたと伝えられていたことが、秘密情報解除されたアメリカ国務省の外交文書で判明。しかし、国連代表権は同年10月国連総会採択され毛沢東主席の中華人民共和国に移行した[72]
          • 1978年(昭和53年)6月、中国の指導者として初めて訪日した中華人民共和国鄧小平中央軍事委員会主席と会見した際、天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪して鄧小平を感激させ[73]、中国政府から天皇の訪中が要請されるようになる[74]
          • 1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官(現在の防衛大臣職に相当)・増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、(自衛隊は)旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった(増原内奏問題)。
          • 生真面目な性格もあり、政争絡みで政治が停滞することを好まなかったことが窺える。『入江相政日記』には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
          • 侍医を務めた伊東貞三は、「伊東…きょうは満月だよ、そこを開けてごらん…きれいだよ」と末期がんであった天皇に言葉をかけられたことを、「とても命の危機が迫っているとは思えない人間離れしたお姿だった」と回想している
            • 戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。ただしこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。甥の一人である寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元は、その「あ、そう」一つとっても、様々なバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」とのこと。この「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、国民に広く親しまれた。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。
            • 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップ(GHQカメラマンディミトリー・ボリアが撮影、時期は1950年(昭和25年)- 1951年(昭和26年)頃)なども写真に残っている。ただし、終戦まで天皇の笑顔を写した写真は、検閲によって一切公開不許可であった[75]
            • 1982年(昭和57年)の園遊会黒柳徹子と歓談した際、黒柳が当時の自著『窓ぎわのトットちゃん』を「国内で470万部売って、英語で外国でも出ることになりました」と説明すると、天皇は「よく売れて」と答えた。あたかも天皇へ自著を自慢しているように映ってしまい、周囲の大爆笑に黒柳は照れ笑いを浮かべながら「(売上を)福祉のために使うことができました」と説明した。このほか、柔道家の山下泰裕が天皇から「(柔道は)骨が折れるだろうね」と声をかけられた際、文字通りに受け取ってしまい「はい、2年前に骨折しましたが、今は良くなって頑張っております」と朗らかに返答したエピソードがある。
            • 1983年(昭和58年)5月、埼玉県行田市埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸。天皇がガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとした時、記者団が一斉にフラッシュをたいてその様子を撮影しようとしたため「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。
            • 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。ところが天皇は「むしろ楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えたという。

            家族・家庭

            大正天皇の4人の皇子たち。左端が裕仁親王
            1926年(大正15年)6月頃、成子内親王に目を細める皇太子夫妻(当時)
            1952年(昭和27年)、皇太子明仁親王(当時)と共に