まつした こうのすけ
松下 幸之助
Konosuke Matsushita 01.jpg
松下幸之助(1960年代初期頃)
生誕 (1894-11-27) 1894年11月27日
和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)
死没 (1989-04-27) 1989年4月27日(94歳没)
大阪府守口市
国籍 日本の旗 日本
職業 創業者松下電器産業, 実業家発明家
配偶者 むめの
子供 幸子(長女)
親戚 松下正治(実業家、幸子の夫)
松下正幸(パナソニック副会長、孫)
松下弘幸(レーシングドライバー、孫) 代表取締役会長 スウィフト・エンジニアリング, スウィフト・エックスアイ
井植歳男三洋電機創業者、むめの弟)

松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年明治27年〉11月27日 - 1989年平成元年〉4月27日)は、日本実業家発明家著述家

パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。

その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。

経歴

生い立ち

1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。

1899年頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。しかし父には商才がなく店を畳んだ。幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。後、奉公先を五代自転車に移した。この経験は後にパナレーサー社設立のきっかけになった。自転車屋奉公時代、来店客に度々タバコを買いに行かされた。その際、いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた[1]。しかしこれが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いはやめる。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようになった。

大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。1913年に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学した。1917年、大阪電灯を依願退職した。

会社創業

大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。しかし、新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。

事業拡大に伴い、1918年大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925年から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。1929年松下電器製作所への改称と同時に『綱領・信条』を設定した。

門真移転

1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。また、事業拡大のため土地が広い門真市に本社・工場を移転した。当時、門真市から枚方市にかけての地域は大阪市内から見て鬼門に当たるとして開発が遅れていたが、東北に細長く延びる日本地図を指して「日本列島はほとんどが鬼門だ」と述べて断行した。1935年には松下電器産業株式会社として法人化した。

第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力する。1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作。試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から[注 1]惨憺たる失敗に終わった。

戦後ただちにGHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁した。一方で1946年11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する。 [2]

社長復帰後

続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮、人員大量整理、賃金抑制を断行し、危機を乗り切った。この経営手法を当時のマスコミが揶揄して物品税の滞納王などと報道された。

1948年、趣味の株式投資の影響でナショナル証券を設立したが、この分野で大成するには至らなかった。

1950年以降、長者番付で10回全国1位を記録(1955年 - 1959年、1961年 - 1963年1968年1984年)。また40年連続で全国100位以内に登場した。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000億円の資産を築いたと推定される。

1951年、テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工業として分社化、1997年4月松下電器に統合)。

1954年には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した[注 2]

1957年には自ら巡回しての自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させた。以後、自社製品の地道な拡販交渉を続ける幸之助の姿勢に共感した系列電器店が「ナショナルショップ」網へ次々新規参入。こうした「松下幸之助に対する小売店スタッフの強い忠誠心」がナショナルショップを(ピーク時に約2万7千店を誇る)国内最大の系列電器店ネットワークへと成長させる原動力となった[注 3]

1960年に初の和歌山市名誉市民に選定される。同年、浅草寺東京都台東区)の雷門大提灯は、100年近く仮設状態のままになっていたところ、幸之助が私財を寄進して現在の形に再建された。提灯の「雷門」の下加輪には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく刻んだ一際目立つプレートが貼られている。

会長就任後

1961年会長に就任し、第一線を退くが、ヒット商品欠如が岩戸景気後の反動不況と相俟って赤字に転落する。

当時ソ連の副首相であったミコヤンと食事を共にした際、「自分は工場で家庭電気器具を作ることで、婦人解放をした」というと、感心したミコヤンは握手を求めたという。

1964年には門真市で初の名誉市民に推挙される。また、家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内功と30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発した。社内外の引き締め目的で熱海ニューフジヤホテルを借り切り、全国の販社・代理店と直談判する機会を設けたものの、新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して紛糾し、丸3日間にわたって逆に吊し上げられた(全国販売会社代理店社長懇談会、いわゆる「熱海会談」)。このため「共存共栄」と自筆した色紙を配布して沈静化を図る一方、営業本部長代行を兼務し、トップセールスとしての現場復帰を余儀なくされた。

1965年第16回NHK紅白歌合戦に審査員として出場した。

1967年7月、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して、公正取引委員会は松下電工を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けた。これを拒否したため消費者から批判を浴びた。

1970年にはナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立する。後に中村邦夫が立ち上げる「スーパープロショップ(現:スーパーパナソニックショップ)」の母体となった[注 4]

同年、日本万国博覧会(大阪万博)に松下電器館を出展する。「5000年後に開封する」として話題になったタイムカプセルには、全国の小中学生の手紙や当時の物品を納めて、博覧会終了後に大阪城公園に埋蔵された[注 5]。酷暑にもかかわらず、入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に日陰がないことに気付き、「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示した。これが会場外でも宣伝になって、松下館はさらに人気を呼んだ。またタイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布し、販売強化に繋げた。

1971年、慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館が竣工された。

晩年

1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1974年には奈良県明日香村の名誉村民となる。1974年から1983年まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務め、後に松下正幸も第8代会長を務めた[3]1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとした。

1989年4月27日午前10時6分に気管支肺炎のため、松下記念病院守口市)において死去した。享年94。法名は光雲院釋眞幸。死亡時遺産総額は約2450億円で、日本で最高とされている。

エピソード

  • トヨタ自動車中興の祖・石田退三を師と仰ぎ、尊敬していた[4]
  • 創業地の大阪市大開に思い入れがあり、本籍を大阪市大開から動かさなかった。
  • 東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次と親交があり、東洋工業が実用化に成功したロータリーエンジンを評価して、マツダ・コスモスポーツの顧客第一号となった。
  • スバル・360に発売前から興味を示し、顧客第一号であった[5]
  • コンピュータについて、1960年の暮れに米IBMと特許使用許諾契約を結んだ日本側15社のうちの一社に松下電器産業が含まれ[6]日本電子計算機にも参加する[7]など、初期参入企業の一社であったが(実機「MADIC」の研究開発製造は松下通信工業(現パナソニック モバイルコミュニケーションズ))、1964年10月に撤退を表明した。この件について、同年の減収減益で、コンピュータの研究への資本投入に販社からの不満が渦巻いていたとする文献[8]もある。幸之助がこの時「コンピュータとは何をするものか」という問いを発し、それに対して幸之助の満足するような答えが得られなかったために撤退を決断したという話がある[9]。これを失策とみるか、英断とみるかは意見が分かれる(たとえばシャープも、コンピュータは基礎研究のみに止めている。シャープの場合、応用といえる電卓に転じて成功した)[注 6]
  • 1965年に古希(70歳)を迎えた後、グループの総帥になると、ある従業員に「どうやってこのように大きな成功を収めることができたのですか」と尋ねられた。それに対して松下は「私は天からの3つの恵みを受けて生まれた。家が貧しかったこと、体が弱かったこと、小学校までしか進学出来なかったこと。」と答えている[10]
  • 米『タイム』誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は戦前に登場した日本郵船各務鎌吉[11]
  • 終生紀州弁で通した。晩年は声量が落ち、筆頭秘書が通訳を務めた。
  • 朝型人間で、朝6時くらいにあちこちに電話をして打ち合わせをすることも多かった。社内だけではなく、社外の人にも早朝に電話をして驚かれたこともあるという。
  • 郷里の和歌山市に、友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑(同郷である湯川秀樹揮毫)と、幸之助がポケットマネーで寄付した和歌山市立松下体育館や、和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)内の茶室「紅松庵」がある。
  • 東京ディズニーシーインディ・ジョーンズ・アドベンチャーのキューライン(queue - 並ぶ列)に展示中の、インディ博士の作業卓上の新聞には、幸之助の顔写真が載っている。これはパナソニックが同アトラクションのスポンサーであるためである。
  • 大阪府門真市に所在するパナソニックミュージアム内に、松下幸之助の銅像「松下幸之助翁寿像」が建立されているが、この像は労働組合に理解を示していた幸之助に感謝する形で、松下電器労組が贈呈したものである。
  • 自分に対して厳しい松下は交通渋滞が原因で会議に間に合わなかった際、社内処分として自らの給与を10%を減給した(1カ月間)。
  • 200年かけて日本の山を2割切り崩し75000平方kmの土地を平らにした上、その土砂で四国程の面積の島を作ろうと考えていた[12]
  • 幸之助は辯天宗の信者。「松下電器産業株式会社」の敷地の中に、下天龍王社という祠(ほこら)が鎮座している。国道1号に面した、守口市の「本社」の方ではなく、国道を挟んでその南側にある「松下電子部品」(現社名=パナソニックエレクトロニックデバイス株式会社)の方である。
  • 晩年、雑誌の取材で「何かひとつ夢を叶えるとしたら何を望みますか?」と質問されたところ「今の全財産を渡すからもう一度二十歳に戻して欲しい。それが出来たら私はもう一度今と同じだけの財産を築いてみせる。」と答えたという。
  • 文部科学省の中学校向け道徳教育教材『私たちの道徳』の「礼儀の意義を理解し適切な言動を」という学習指導要領の項目の中で人物コラムとして取り上げられた。
  • 昭和40年代の初めに、業務用の大型炊飯器の試作品が完成し、技術者たちが本社の重役会議に臨んだ。操作や水洗いも簡単になった画期的な新製品だったが、重役陣の反応はいま一つ。やがて昼になり、弁当が配られた。そこには試作品で炊いたご飯が用意された。そのご飯をおかわりした人が、一人だけいた。それが創業者の松下幸之助だった。「この炊飯器のご飯、おいしいな。もう一杯おかわりを」と。食が細いはずの松下氏だったが、その一言は、技術者たちにとって、たまらなくうれしいものだったという。[13]
  • 前日に市販された新製品の評判を、社の幹部に尋ねた際、「一週間ほどしたら評判がわかるでしょう」との答だった。すると松下幸之助は「あかん!きのう発売されて、なんで今日わからんのや。商品について回れ」と叱責した。さらに「販売店を訪ね、売る人の立場から意見を聞いてみるのが本当や」「悠長に、一週間も市場の反応を待っていては商売にならん」と続けた。[14]
  • 幸之助が社員の一人に「幽霊は、なぜ怖いかわかるか」と聞いたことがある。社員が「足がないからです」と答えると、「そうや。足がないということは、それが何者やら実体がわからないから怖いのや。経営でも、実体が見えないと怖いで。何が起こるかわからないから」と応じた。松下氏は「見えないものを見えるようにするのが経営だ」とした。そのためには「自分でわかるまで考えよ」「現場に出よ」と勧めたという。[15]
  • 自分は失敗をしたことがないと断言をしている。その自信は「意の如く、事が運ばないことを失敗というのなら、それは今までにずいぶんあった。しかし、私はいつも禍転じて福とするようにしているので、その意味では失敗をしたことはない」とのこと。また「失敗した所で止めるから失敗になる。成功するところまで続ければ成功になる。」という発言は有名である。

栄典・栄誉