永山則夫連続射殺事件
正式名称 警察庁広域重要指定第108号事件
場所 日本の旗 日本
東京都港区芝公園東京プリンスホテル(第1の事件)
京都府京都市東山区祇園町北側八坂神社境内(第2の事件)
北海道函館市(第3の事件)
愛知県名古屋市(第4の事件)
日付

1968年昭和43年)

10月11日(東京都港区の事件)
10月14日(京都市の事件)
10月26日(函館市の事件)
11月5日(名古屋市の事件)
概要 当時19歳の少年による、拳銃を使用した連続殺人事件
武器 拳銃
死亡者 男性4人(以下、年齢はいずれも当時。27歳男性、69歳男性、31歳男性、22歳男性)
犯人 永山則夫(犯行当時19歳の少年)
対処 逮捕起訴
刑事訴訟 死刑少年死刑囚執行済み
影響 本事件の刑事裁判で、最高裁判所が死刑適用基準として、1983年に示した傍論「永山基準」は、後に死刑適用の是非が争われる刑事裁判にて、最高裁判所判例として用いられている。
管轄 警察庁代々木警察署東京地方検察庁
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最高裁判所判例
事件名 窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件
事件番号 昭和56年(あ)第1505号
1983年(昭和58年)7月8日
判例集 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第37巻6号609頁
裁判要旨
  1. 死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。
  2. 犯行時少年であった者でも、18歳以上であり、犯行の態様も残虐であることなどから、無期懲役とした原判決を破棄した事例。
第二小法廷
裁判長 大橋進
陪席裁判官 木下忠良塩野宜慶宮崎梧一牧圭次
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑法9条、199条、240条
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永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年昭和43年)10月から11月にかけて、東京都港区京都府京都市東山区北海道函館市愛知県名古屋市の4都道府県において、各犯行当時19歳の少年だった永山則夫が相次いで起こした、拳銃による連続殺人事件である。警察庁による名称は「警察庁広域重要指定第108号事件」である。

事件の概要

犯行当時19歳の永山則夫(1990年に死刑確定、1997年に少年死刑囚として死刑執行)がアメリカ海軍横須賀海軍施設神奈川県横須賀市)に侵入し、後に凶器として使用される拳銃を盗んだ[注 1]。永山はこの拳銃を用い、社会への復讐のため、短期間のうちに4人を射殺した。なお、被害者の年齢はいずれも当時のものである。

第1の殺人事件
1968年10月11日東京都港区芝公園東京プリンスホテルで、綜合警備保障(現愛称:ALSOK)に勤務する27歳のガードマンに対し2発撃って射殺した。
第2の殺人事件
1968年10月14日京都府京都市東山区祇園町北側八坂神社で、境内を巡回していた69歳の守衛に対し6発撃って射殺した。
第3の殺人事件
1968年10月26日北海道函館市で、31歳のタクシー運転手に対し2発撃って射殺した。
第4の殺人事件
1968年

犯行の1か月後、永山は拳銃を横浜市の寺「大聖院」の境内に埋め、中野区都立家政駅近くにアパートを借り、歌舞伎町の大衆マンモスバー「スカイコンパ」とジャズ喫茶「ビレッジバンガード」で働きながら潜伏していた。

1969年(昭和44年)4月7日、永山は一連の犯行に使用した拳銃を持って千駄ヶ谷の専門学校「一橋スクール・オブ・ビズネス」に金銭目的で侵入した所を、機械警備の警報で駆けつけた日本警備保障(現・セコム)警備隊員に発見されるが、発砲して隊員が怯んだ隙に逃走した。しかし、警視庁緊急配備を発令し、数時間後、永山は警戒中の代々木警察署のパトカーに発見され逮捕された[注 2]

刑事裁判

永山は犯行当時19歳の少年だったが、犯行累積の抑止と逮捕のために指名手配されたこともあり、当初から実名報道がなされる[注 3]

10年を費やした第一審・東京地方裁判所での審理の結果、1979年7月10日付で死刑判決を受けた[1]

しかし、永山はこれを不服として東京高等裁判所控訴した。東京高裁(船田三雄裁判長)は1981年8月21日の控訴審判決公判で、心境の変化(下記参照)家庭環境・生育状況が劣悪であったこと、配偶者を得たこと、犯行時未成年であったことなどから、永山の更生を期して酌量減軽をし、第一審・死刑判決を破棄して無期懲役判決を言い渡した[1]

しかし、これを不服とした検察側が上告した。口頭弁論公判を経て、最高裁判所第二小法廷(大橋進裁判長)は1983年7月8日の上告審判決公判で、控訴審の無期懲役判決を破棄し、審理を東京高裁に差し戻す判決を言い渡した[1]。またこの際、最高裁第二小法廷が傍論として示した死刑適用基準は後に「永山基準」(後述)と呼ばれ、後の刑事裁判でも死刑選択基準として採用されている。

差し戻し控訴審の審理の結果、1987年3月18日、東京高裁(石田穣一裁判長)は、差し戻し前の控訴審・無期懲役判決を破棄し、永山に改めて死刑判決を言い渡した[1]

永山は上告したが、1990年4月17日の第二次上告審判決公判で、最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)は「永山が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、同じ条件下で育った他の兄たちは概ね普通の市民生活を送っており、また上京から3年以上社会生活を送った後に保護観察措置を自ら拒否して逃避した末に連続殺人の犯行を犯していることから、生育環境の劣悪性は4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、永山の上告を棄却する判決を言い渡した[1]。これにより永山の死刑判決が確定した。

第二次世界大戦後に発生した少年犯罪で死刑が確定するのは、昭和に発生した事件では最後となった。その後、1988年に発生した名古屋アベック殺人事件でも主犯格の少年に死刑判決が言い渡されたが、これは控訴審で破棄され、無期懲役判決が確定した。平成に発生した少年事件では2016年現在、市川一家4人殺人事件1992年発生、2001年に死刑確定、2017年に死刑執行)、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件1994年発生、2011年に3名の死刑確定)、光市母子殺害事件1999年発生、2012年に死刑確定)、石巻3人殺傷事件2010年発生、2016年死刑確定。裁判員裁判での死刑判決は初であると同時に初の平成生まれの死刑囚となった)の計4件の事件で、計6人の死刑が確定している。

獄中での心境の変化

第一審頃まで

永山は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。

控訴審頃まで

その後、獄中結婚した妻や作家・井出孫六らの多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方を示した。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えから最終的には真摯な反省・謝罪贖罪を主張するに至った。また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。二審のやり取りの中でもし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。 しかし、差し戻しから死刑確定頃には上記の考えをすべて否定した発言をしていることから減刑を狙った演技であると考えられている。

差し戻しから死刑確定頃

差し戻し審で無期懲役が難しくなると控訴審頃までの主張を翻し一転して1審のような国家権力に対する発言に変わった。また拘置所で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。

死刑執行

永山則夫は死刑囚として東京拘置所に収監されていたが、法務省法務大臣松浦功)の死刑執行命令により、1997年8月1日(没年48歳)に同所で死刑が執行された[1]。親族は遺骨の引取りを拒否し、国選弁護人遠藤誠が引き取った。遺骨は本人の遺志でオホーツク海散骨された[注 4]

精神鑑定

当時、精神犯罪医学者として嘱望されていた精神科医・石川義博による緻密なカウンセリングを長期にわたり八王子医療刑務所で受けており、PTSDに着目した日本初の鑑定書として一審から提出され続けたが、東京地裁は黙殺したものの控訴審の東京高裁では重視され無期刑への減軽判決となった。しかし上告審では再度採用されなかった。 石川は、死刑確定後、いっさいの鑑定依頼を断り、町医者として現在も医療に従事している。

獄中での文筆活動

書籍

永山は父親から育児を放棄され、貧しい中荒れた生活を送り学校教育を受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。1971年に手記「無知の涙」をはじめ多くの文学作品を発表している。後にこれらは「日本」という書籍にまとめられる。

1983年には小説「木橋」で第19回新日本文学賞を受賞するなど創作活動を通して自己の行動を振り返るという、死刑囚としては稀有な存在であった。また、それらの印税を4人の被害者遺族へ支援者を通して渡している(受け取りを拒否した遺族もいる)。

手紙

永山は獄中からたくさんの手紙を書いている。内容は獄中結婚した妻や支援者とのやり取りから本の読者からの悩み相談まで多岐に渡る。また永山は返信する文面を写していたため遺品の中には受け取った手紙と返信した手紙が対になって保管されている。

永山基準

この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の傍論である死刑適用基準を判例と同等に参考にしている場合が多く、永山基準(Nagayama Criteria)と呼ばれその影響力も大きい。1983年7月8日の第1次上告審判決で、最高裁第二小法廷は基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした:

  1. 犯罪の性質
  2. 犯行の動機
  3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
  4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
  5. 遺族の被害感情
  6. 社会的影響
  7. 犯人の年齢
  8. 前科
  9. 犯行後の情状

このように具体的に基準が示され、傍論の効果や是非について議論される時には、永山基準が参考にされることが多い。しかし光市母子殺害事件(犯行当時18歳の少年が強姦目的で母子を殺害)の2006年の最高裁の判断(無期懲役の一・二審判決を破棄差し戻し。その後差し戻し控訴審・上告審で死刑判決、確定)では「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」とし、事件発生時に被告が少年であったとしても、特別な情状酌量の余地がない場合『原則・死刑適用、例外・死刑回避』という新たな判断の枠組みが示され、永山基準は変化を遂げつつある[注 5]

殺害された被害者の数

この判例以降、4人以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の心神耗弱自首従犯未必の故意無理心中に対する情状酌量などを認定して無期懲役に減軽して判決を言い渡した事例(1980年新宿西口バス放火事件〈6人殺害、心神耗弱〉や1981年深川通り魔殺人事件〈4人殺害、心神耗弱〉、1982年西成区麻薬中毒者殺人事件〈4人殺害、心神耗弱〉、2000年テレホンクラブ放火殺人事件〈4人殺害、未必の故意〉、2002年北九州監禁殺人事件〈6人殺害、1人傷害致死。犯人2人のうち1人。従犯〉、2005年中津川一家6人殺傷事件〈5人殺害、無理心中に対する情状酌量〉等の例)を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。なお、1989年熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件は、殺人の前科があったものの、共犯者が無期懲役が確定していたため、刑の均衡を失するとして、第一審の死刑判決を破棄・無期懲役判決が言い渡されたが、上告中に被告人が病死し、最高裁で公訴棄却となった。また、1995年地下鉄サリン事件オウム真理教事件)の林郁夫(散布した車両では2人死亡)は、本来ならば死刑が求刑されてもおかしくないケースだったが[注 6]、自首を有利な情状と認定した検察側が死刑求刑を見送り、求刑通り無期懲役判決が確定した[注 7]

一方、1人だけを殺害した殺人犯に対しては身代金目的誘拐や強盗・強姦などの目的ではなく、殺人の前科がない場合は死刑判決を回避する傾向が長らく続いてきたが、近年は厳罰化の世論の影響で、身代金目的誘拐目的ではなく、かつ殺人前科がなく被害者が1人の場合であっても、強盗・強姦などの目的を伴い、殺害方法もとりわけ残虐とされる場合には死刑判決が確定するケースが見られるようになった。三島女子短大生焼殺事件横浜中華街料理店主射殺事件では、いずれも第一審の無期懲役判決を破棄した控訴審の死刑判決が最高裁で確定した。同様のパターンでは被告人が第一審で死刑判決を受け控訴したものの、自ら取り下げて死刑が確定したケースとして奈良小1女児殺害事件闇サイト殺人事件の犯人のうちの1人、岡山元同僚女性バラバラ殺人事件の3例が挙げられる。殺人前科がある場合では無期懲役刑受刑者が仮釈放中に起こした殺人事件で死刑判決が確定した事例が多数あるが、それ以外にも、JT女性社員逆恨み殺人事件名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件では、過去に別の殺人により有期懲役刑で服役し、その刑期満了による出所後、強盗殺人や逆恨みによるお礼参り殺人を犯し、死刑判決が確定した。

また、地下鉄サリン事件(オウム真理教事件)の横山真人は自身が散布した車両では1人の死者も出さなかったが、サリン散布計画の内容全体を熟知し関与したことが重視され、地下鉄サリン事件全体の関与者の一人として殺人罪が適用されて死刑が確定している。

評価

闇サイト殺人事件を取材し著書「いつかの夏」を2016年に刊行した大崎善生は、被害者1人の場合死刑を回避する傾向が強いこの永山基準を「司法が囚われ、多くの被害者遺族を苦しめてきたモンスター」「永山基準による法曹界の既得権益があり、裁判所はそれを守ることに固執する。闇サイト事件の弁護人とは見事にその利害が一致した」と形容した上で「永山の犯行当時と21世紀現在では、価値観・経済・道徳観も何もかも違う」「現在の一般人の価値観と、箱庭に閉じ込められたかのような法曹界とのそれを少しでも均衡化するため裁判員制度が始まった。しかし裁判は判例至上主義のように、まるでモンスターにわしづかみにされているように永山基準に戻っていく」と指摘した上で「(裁判所は)被害者の数だけを1人、2人、3人と気にするが、殺された側にとっては人数の問題ではない。命は命だ」「ただ殺された人数によって刑を決める」と強く批判している[2]。また、土本武司三島女子短大生焼殺事件関連の『読売新聞』記事内で「被害者が複数でないと死刑を適用できないという読み方を下級審が一度取り、『2人以上でないと死刑はいけない』という感覚が流れた。被害者の命2つ以上でないと犯人の命1つに匹敵しない。これはおかしい」(第一審判決前)[3]、「今回は死刑を適用できる事例だと考えていた。日本の裁判官はよく言えば謙抑主義で、量刑には極めて慎重。検察側は断固、控訴して最後まで争う姿勢を取るべきだ」(第一審・無期懲役判決を受けて)[4]、「注目すべき判決。複数の命でないと犯人1人の命に匹敵しないというのは不自然。この判決は重要な先例となるだろう」(控訴審・逆転死刑判決を受けて)と[5]、殺害被害者数1人の場合に死刑を回避する傾向を強く批判するコメントをしており、渥美東洋も同事件に対する識者意見で「拷問に等しいような犯行で、死刑は当然だ。犯罪が多様化し、被害者の数だけで量刑を決められるような時代ではない。判決は死刑適用の具体的事例として、新たな1つの基準が加わったとみることができる」と述べた[6]

また、産経新聞は2015年に裁判員裁判での死刑判決が破棄され、無期懲役とされた判決が確定したケースが確定した[注 8]際に「裁判員制度は、国民の司法参加により、その日常感覚や常識を判決に反映させることを目的に導入された。過去の公式に当てはめて量刑を決めるなら、制度の趣旨は生かされない」「死刑は究極の刑罰であり、慎重な判断が求められるのは当然である。一方でこの判断は先例を重視しすぎていないか。先例が現状に即しているかについても、議論を尽くしてほしい」「『国民感覚や常識』と『先例の傾向』の間に距離があるなら、その理由、背景についての分析、議論を深めることも必要ではないか」と、ゆくゆくは「永山基準の見直し」の必要性についても言及している[7]。また、その際の最高裁の決定でも千葉勝美裁判長は補足意見で「判例の集積からうかがわれる検討結果を量刑を決める共通認識とし、それを出発点として評議を進めるべきだ」とする一方で「従前の判例を墨守するべきであるとはしていない」とも述べている[7]

事件をもとにした作品