浜田 幸一
はまだ こういち
生年月日 (1928-09-05) 1928年9月5日
出生地 日本の旗 日本 千葉県君津郡青堀町
没年月日 (2012-08-05) 2012年8月5日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 千葉県富津市
出身校 日本大学農獣医学部拓殖学科中退
前職 青年団員
所属政党 自由民主党
子女 浜田靖一

選挙区 旧千葉3区
当選回数 7回
在任期間 1969年12月28日 - 1980年5月19日
1983年11月28日 - 1993年6月18日
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浜田 幸一(はまだ こういち、1928年昭和3年)9月5日 - 2012年平成24年)8月5日)は、日本政治家タレント株式会社YAMATO名誉顧問[1]

自由民主党衆議院議員として通算7回の当選に及び、衆議院予算委員長自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、国務大臣の任命経験が得られないまま、1993年(平成5年)に政界を引退した。

ハマコー」の愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。政界引退後は「政治活動家」と自称していたほか、テレビ番組 『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)では、「悪党党幹事長」を名乗っていた。

来歴・人物

少年期

千葉県君津郡青堀町(現・富津市)出身。実家は大地主で、父・甚三郎は町助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、大政翼賛会の役員でもあったこともあって戦後、戦犯者に指定され公職追放された[2]。その後博打にのめり込み破産した。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという[3]

1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど太平洋戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた[4]

中学3年のときに土浦海軍航空隊に赴き、海軍飛行予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している[5]

1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で9月1日付で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で玉音放送を聴いた。ちょうどこの頃に兄が戦病死した[6]

それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った[7]。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶が無く、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」と言う。ただ、大学生時代に応援団の活動はしていた。東京の高田馬場に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に早稲田大学の学生が居たことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって東京六大学の応援活動をしていた[8]

青年団活動を行っており、竹下登野中広務と知り合う[9]。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、日本青年団協議会顧問を務めた。

政治活動

富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙自由民主党から旧千葉3区で初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回(当選同期に小沢一郎羽田孜梶山静六奥田敬和渡部恒三綿貫民輔塩崎潤森喜朗村田敬次郎松永光江藤隆美など)。

1973年(昭和48年)には中川一郎渡辺美智雄石原慎太郎らと共に自民党の派閥横断的な政策集団である青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた(後述)。

1990年(平成2年)の総選挙の際に暴漢に襲われて失語症の傾向が出たため、1993年(平成5年)7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り、政界を引退した。当選7回を数えたが、国務大臣への就任は1度も無かった。

この間、勲2等の叙勲、国会議員表彰、共に辞退している[10]

政界引退後

議員引退後の1993年(平成5年)12月に著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)を出版し、1995年(平成7年)4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に登場。1994年(平成6年)には連続テレビドラマ『お玉・幸造夫婦です』で、八千草薫と夫婦役を演じた。その他にも主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気があった。

2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙では自由民主党の選挙用テレビコマーシャルに出演。

2010年(平成22年)1月21日、アメーバブログにてオフィシャルブログを開設した。同年1月25日にはTwitterのアカウントを取得した。

2010年(平成22年)8月10日、借金の担保として差し出したアドバンスト・メディアの株券800株を勝手に売却し、融資元の会社に2億円の損害を与えたとして、千葉県警察捜査2課などに背任罪で逮捕され、千葉地方検察庁は8月31日に、千葉地方裁判所へ起訴した[11]

しかしその後、認知症が進むなど訴訟能力に疑問が生じたため、公判は停止された[12]。2012年(平成24年)8月5日、急性心不全のため富津市大堀の自宅で死去した[13][14][15]。83歳没。背任罪の公判は、被告人たる浜田本人が死亡したことで、8月8日刑事訴訟法の規定により公訴棄却が決定し終結した[12]

逸話

「元ヤクザ」

テレビ等のメディアにおいて「千葉でヤクザをしていた」と公言。自身の著書[要出典]において、第二次世界大戦後、法律の枠外に置かれた在日朝鮮人の不良行為に対して我慢ならず現場を見つけては撃退していたと語っている。

傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津ダニ」(「町のダニ」とも)の悪名をとった。TVタックルでは、富津のダニと言っていた。この渾名は当時(1951年(昭和26年))の地元の新聞記事でも用いられている。24歳のころケンカに巻き込まれ、相手を刺してしまい、『日雇い人夫浜田幸一』の見出しで報じられた。この時、浜田の母が、木更津で最も有名な弁護士を雇い息子を助けた。

自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団稲川会初代会長の稲川聖城であった。上記の事件で懲役1年の実刑判決を受け、刑務所へ服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。後年『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。「芸人ビートたけし」としては五寸の挨拶は許されないため、「映画監督北野武」として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っていた。

児玉邸に2、3年住み込み下働きを務め、その後約10年間小佐野の経営する国際興業で不動産取引の勉強をした。児玉とかつて所属していた組に援助され、富津町議会議員から千葉県議会議員になった。公費では運転手は付かないため、そのあいだ浜田は移動用の車と運転手の面倒をみてもらった。この運転手が後のバーニングプロダクション社長・周防郁雄である。1969年(昭和44年)に衆議院議員選挙に挑戦して初当選した。国会議員になってからは児玉と小佐野賢治に加え笹川良一町井久之が後援者に加わったとされる。当選後ある議員[誰?]に「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジ(=再チャレンジ)できないような社会をつくってはいけない」と述べている。

政治学者の高畠通敏は、1980年代半ばのフィールドワークにおいて、当初はヤクザ上がりの政治家だと思っていたところ、「地元では、浜幸を"現役"ヤクザの一員として誰も怪しまない」ことに驚いたという[16]

成田空港問題

千葉県議会議員・千葉県選出の国会議員として成田空港問題とのかかわりが深い政治家であった。

成田での空港建設が閣議決定された直後の1966年8月17日に浜田は自民党県議団の一員として現地を視察したが、その際反対派に取り囲まれ、警察によって進路が確保されるまで一時立ち往生している[17]

1968年2月26日三里塚芝山連合空港反対同盟と新左翼学生らが成田市街地で機動隊と衝突した際、千葉県連青年部長として現地に派遣された浜田は地元議員の伊能繁次郎・自民党学生部長の佐藤文生らとともに、流血の惨事を目撃した[18]

新東京国際空港(現・成田国際空港)開港前に、浜田はテレビ討論で三里塚闘争のリーダーである戸村一作に「あなたは農民でもないのに、なぜ反対するのですか」と非常に厳しく糾弾し、戸村を憤慨させた(戸村は成田市三里塚の中でも空港敷地外である市街地に居住しており、農民相手の農機販売業を営んでいた)[19]

1978年3月26日成田空港管制塔占拠事件を受けて、同年4月4日に開催された自民党衆参両議院総会で、青嵐会に属するタカ派議員であった浜田は福田赳夫に対して「この(福田)内閣には統治の責任が欠けている。現行法で何ができるのか。立党の精神政策綱領を守り、自由主義国家の責任ある体制強化を図らねばならない。5月20日の(出直し)開港に当たって、『火炎瓶攻撃を仕掛ける者があれば射殺せよと命令する責任がある』と首相は明言すべきだ。射殺することが法に触れるかどうかは裁判をやってみればよい。政権を投げ出してでも国民の信頼を取り戻す首相であることを願う」と強硬論を主張し、福田が現行法を最大限活用するとともに足りないことは新立法を用いて成田開港と日本全体の治安を確たるものすることを約束したうえで「浜田君から訓示めいた話があったが、私は訓示を聞くまでもなく日本国に責任を負っている」と答えた。これに対し、浜田は「訓示というつもりではない。あなたの将来は短くても、国家の将来は長いのだから」と述べた[20]

4月7日の運輸委員会でも、浜田は日本共産党日本社会党極左暴力集団・戸村を厳しく批判したうえで、成田空港問題に取り組んできた友納武人千葉県知事を賞賛するとともに大塚茂新東京国際空港公団総裁を激励した[21]

浜田は一方で、反対派と行政側が話し合いをする前段階として「地域振興連絡協議会」が設立される際に、広い参加を呼び掛ける反対同盟熱田派と沼田武千葉県知事と間で斡旋を行った[22]

後述する自由民主党本部放火襲撃事件や、木更津市にある浜田の事務所への放火[23]も、成田空港問題絡みの中核派による左翼テロとされる。

金丸信

川島派解散後は無派閥となったが、田中派の金丸信の所へ押しかけ強引に用心棒となった。金丸の関係者は浜田を侍らすことを心配したが、金丸は「なんとかとハサミだ。あれはあれで使い道がある」と意に介さなかったという。ただし、副幹事長時代、社会労働委員長の田川誠一が約束の日に採決を取らなかった際、幹事長の金丸に真顔で「田川を刺します」と言い、これにはさすがの金丸も止めたらしい。

ハマコーの武功

1979年(昭和54年)に、自民党史上最大の危機と言われた四十日抗争で、党内の反主流派が築いたバリケードを強行突破。両院議員総会の開催を導いた。

当日、大平正芳と面会した際、大平に「浜田君、(この騒ぎ)何とかならんかね」と言われ、「わかりました」と返答し党本部ロビーへ向うと反主流派がバリケードを築いていた。党の備品である椅子や机でバリケードを築いた反主流派に対して自分の私的所有物でもない物品でバリケードを築いたことに怒りを爆発させる。

バリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。この時に、「いいか、断っとくけどなー。かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな!お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ!」という演説を張る[24]。実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿であった。しかしこの場面はテレビで何百回と繰り返し放送されたため、浜田がバリケードを築き、騒ぎながら椅子や机を投げ飛ばしていると勘違いされている。

浜田は前日にテレビ各局に「明日、やるからな」と電話をかけた上でのことだったが、「NHKに出ると必ずこの時の映像が流れる」と本人も苦笑していた。 浜田本人は“片付け”をしたと何度も著書内などで記述。バリケードを片付けて帰ってきた浜田に、大平は笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれたと言う。

ラスベガス事件

1980年(昭和55年)3月6日に発覚した。1973年(昭和48年)11月に「ラスベガスカジノで、当時の為替レートに換算して4億6000万円程度を一晩ですってしまった」事件である。

当然そんな大金を浜田が用意できるわけはなく、当時浜田が不動産関係で世話になっていた小佐野賢治が代わりに用立てて支払った。ところが、その金が実はロッキードから小佐野に流れた金であるとのアメリカ合衆国議会での証言が、アメリカ合衆国で行われ大騒ぎになった。浜田も言うとおり、ロッキード事件とは直接関係はなかった。

しかし、ロッキード事件渦中の小佐野から大金を用立てされている繋がりや、当時の外国為替法に違反し、届け出無しで外国に日本円を持ち出して、アメリカ合衆国ドルへ両替した事実(発覚時は公訴時効が成立)なども報じられ、また刑法賭博を禁じている立場の与党国会議員が、脱法的に海外で賭博を行ったことへの道義的非難も受ける。

野党も「浜田問題」を与党追及の柱に掲げたため、まずは党の国民運動本部長を辞任、ついで議員辞職を余儀なくされ、さらにこの年に行われた総選挙へ自民党の公認が得られなかった。自ら出馬を見送り収入の無くなった浜田は、小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済したと語っている。

なぜ4億6000万円という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で平沢勝栄に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲーム(バカラ)で損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、「ラスベガス大学に留学していた」と自嘲し、笑いを誘うことがあった。

現地の日本人向け旅行会社では、ツアーガイドが浜田が大損をしたホテル(サンズホテル英語版)の前で「あれがかのハマコーさんが4億5000万円をすったホテルです」とアナウンスをしていた。本人もこの事をネタにしていた。

法相殴打事件

1984年(昭和59年)9月19日に、自由民主党本部が新左翼中核派に放火され炎上した。浜田はいち早く駆けつけ消火にあたった。そこへ当時の法務大臣であった住栄作が酔っ払った状態で現れ、「マッチポンプな真似しやがって」と発言した。それに怒りを感じた浜田は、住を殴りつけてしまった。後に住は発言が不適当だったことを認め、浜田に謝罪した[25]

1984年(昭和59年)9月20日に、日本テレビのワイドショーにおいて、浜田は「(自民党本部放火事件の)責任はだれにあるというかというと、泳がしていた我々にあると思いますよ。『中核派』を泳がしていた。やっぱり法律違反で破壊するものを泳がした。そういう一つの政策の誤りがあるんじゃないですか」と「過激派の泳がせ政策」を認めている[26]

1984年(昭和59年)11月27日には、中核派によって木更津市の事務所に時限爆弾を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。

「宮本顕治人殺し」発言

1988年(昭和63年)の通常国会で衆議院予算委員長に就任。2月6日、予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁した。これに対し正森が、自由民主党本部放火襲撃事件後にワイドショーで当時同委員会委員長だった浜田が述べた発言(参照:#法相殴打事件)を引用したところ、浜田はその発言を認めたうえで「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました」と主張した。正森は激昂したが、浜田が正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したこともあり、正森は浜田とのやり取りを打ち切り、他の質問に移った。

しかし委員会終了間際、円ドル為替問題についての質疑中であった正森に、唐突に浜田が、

昭和八年十二月二十四日宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。

私が言っているのは、ミヤザワケンジ君(宮本顕治の誤り)が人を殺したと言っただけじゃないですか。

と発言(日本共産党スパイ査問事件を指す)。正森が発言の撤回を求めて抗議し、委員会室は一時騒然となった[27]

浜田本人は、この国会中継の審議の模様はNHK総合テレビ生放送されており、中継放送の終了時間を逆算したうえでの、自分の意見と共産党の意見は違うと印象づけるための確信的発言であると述べている。

この時、浜田を予算委員長に推薦した金丸信の妻・悦子は「バカ!あんたなんか死んじゃえばいいんだ」と号泣した。浜田は、自分の首と議事録削除阻止を狙っていたが、結局予算委員長を辞任した。NHKはこの模様を時間の関係上途中で打ち切って「大草原の小さな家」を再放送したことに対し、NHKには苦情の電話が殺到した。

後日国会議事堂の廊下で正森とすれ違った際に、浜田は「俺の首を獲りやがって」と発言したが、目は笑っていたという。

メディア出演

議員引退後はタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に出演。連続ドラマ『お玉・幸造夫婦です』では、その素人演技と内容の突飛さ(元相撲取りという設定)が失笑を買い、今もスカパー!で再放送されるほどのカルト的な人気作品となった。この頃には「かわいい」として、女子高生からの人気をも集めた[28]

その他