皇后 美智子
2013年(平成24年)新年一般参賀 皇居にて
第125代今上天皇后
皇后在位期間
1989年1月7日 -
昭和64年1月7日 -
立后 1989年(昭和64年)1月7日

誕生 (1934-10-20) 1934年10月20日(84歳)
日本の旗 日本東京府東京市本郷区
(現:東京都文京区本郷

結婚 1959年昭和34年)4月10日
皇后 1989年(昭和64年)1月7日
身位 皇太子妃皇后
敬称 陛下
美智子(みちこ)
氏族 正田家
旧名 正田美智子
お印 白樺
父親 正田英三郎
母親 正田富美子
配偶者 今上天皇
子女 皇太子徳仁親王(浩宮徳仁親王)
秋篠宮文仁親王(礼宮文仁親王)
黒田清子(紀宮清子内親王)
栄典 宝冠大綬章
役職 日本赤十字社名誉総裁
国際児童図書評議会名誉総裁
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皇后
の称号
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敬称 陛下
皇室
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今上天皇
皇后 美智子





皇后美智子(こうごう みちこ、1934年昭和9年〉10月20日 - )は、第125代天皇今上天皇皇后皇族

旧姓名は、正田美智子(しょうだ みちこ)。

皇室典範に定める敬称陛下お印白樺栄典勲一等宝冠大綬章明治時代以降初めての民間出身[注釈 1]の皇族。

略歴

少女時代

1940年(昭和15年)頃の正田美智子

1934年(昭和9年)10月20日日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現:東京都文京区の東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生[1]

大和郷幼稚園雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現:湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現:館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍[2]転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。

小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、スポーツが得意な女の子だった[3]。また、ピアノ絵画料理香道も習っていた[4]

1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は品川区五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだった事から「テンプルちゃん」や[5]ミッチ」「ミチ[4]と呼ばれていた。

1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業[6]。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長[7]、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた[8]卒業式では、総代として答辞を読んだ[9]。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた[10]。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした[11]。昭和29年度(1954年度)の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)大学卒業後にフランス語の習得をしながら19世紀児童文学の研究を続けていた[12]。 同年8月、長野県軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、「皇太子妃には旧皇族華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。

1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。

同年11月27日、結婚皇室会議において満場一致で可決された。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました。」と回答。これは当時の流行語にもなった[13]。また第一印象について「ご清潔な方」とした。明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等のミッチー・ブームが起こる。

入内への反発

1955年ごろの呉竹寮。

皇太子妃は「皇族臣籍降下後の旧宮家)か五摂家伯爵以上)といった特定の旧華族」に属する女性から選ばれるのが習わしとされており、「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代であり、1958年(昭和33年)の正田美智子嬢入内は、旧皇族・旧華族らに強く反対された[14]。 旧皇族久邇宮家出身で姑ともなる皇后良子(当時)は、夏に、静岡県御殿場[注釈 2]に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん。」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えた。 しかし、11月の皇室会議では、猛反対をしていた秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。旧皇族の梨本伊都子は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」と記している。ただ、この結婚に理解を示した自身の義父ともなる昭和天皇の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった[15]


皇太子妃時代

1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ昭和天皇香淳皇后、皇太子同妃美智子
お印に選ばれた白樺
1979年(昭和54年)10月、訪時にベアトリクス女王夫妻と
1987年(昭和62年)10月、訪時にロナルド・レーガン大統領夫妻と

1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と成婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった[16]。お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした[17]

晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる[18]。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという[19]

一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃[注釈 3]して取り押さえられる事件が起こった。

1960年(昭和35年)2月23日に第一子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。出産後、昭和天皇香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。

1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ[20]。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説「美智子さま」の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された[21]。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた[21]。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連付け、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる[21]。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった[22]。7月8日から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の山口国体から、段階的に公務に復帰した。

1964年(昭和39年)皇太子明仁親王と共に 東京パラリンピックにて

1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子礼宮文仁親王誕生。

1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。

これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した[注釈 4]

1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。

1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。

晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃勢津子とは共にマラソンを観戦した姿も目撃、報道された[23]。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。

皇后時代

2002年(平成14年)1月米国ジョージ・W・ブッシュ大統領夫妻と会談

1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。

1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日赤坂御所にて倒れる。同年の『宝島30』8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた[24][25]島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、今上天皇夫妻を昭和天皇に比して華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々美智子皇后がミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくないという批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも皇后に対するバッシング記事が掲載された[25][26]。宮中の最高権力者となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる[25]。このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった[25][26]。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになったとされる[25]。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している[26]

1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。

1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い(行幸啓)、兵庫県神戸市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。

1998年(平成10年)、インドニューデリーで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本神話に触れ、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、IBBYの本部があるスイスバーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。

2002年(平成14年)10月20日、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように北朝鮮による日本人拉致問題についてコメントした。「小泉総理北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います[27]」。

2005年(平成17年)10月20日清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという[28]

2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。

「国民に開かれた皇室の想起者」という評価もされるが、一方で数々の発言・行動に見られるように「嫁いだ家の伝統を守る」ことも大切にしている。また訪問相手・周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は多くの人々に感銘を与えている。

2009年(平成21年)7月15日、米国ハワイホノルル第二次世界大戦太平洋戦線戦没者慰霊碑に礼をして。

しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された[29]

2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館東京都足立区)を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人一人を親しく激励した。

2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から、徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院で精密検査を受診すると発表した。同病院で、冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している[30]

今上天皇退位後

2017年6月9日退位特例法が成立した。これにより今上天皇の退位が実現すれば、同法に基づき称号は「上皇后(じょうこうごう)」となるとされているが、歴史的に用いられてきた「皇太后(こうたいごう)」(あるいはその略称である「太后(たいごう)」)の称号を用いるべきとする反対意見もある。

年譜