石破 茂
いしば しげる
Gates meets Ishiba 8 November 2007 cropped for Ishiba.jpg
石破茂 (2007年11月8日 (50歳))
生年月日 (1957-02-04) 1957年2月4日(61歳)
出生地 日本の旗 日本 鳥取県八頭郡八頭町
出身校 慶應義塾大学法学部法律学科卒業
前職 三井銀行(現:三井住友銀行従業員
現職 予算委員会委員
所属政党自由民主党渡辺派)→)
改革の会→)
新生党→)
新進党→)
無所属→)
自由民主党(渡辺派→額賀派→無派閥→石破派
称号 法学士(慶應義塾大学・1979年
配偶者 石破佳子
親族 祖父・石破市造(大御門村長)
父・石破二朗鳥取県知事自治大臣
サイン Ishiba-Shigeru Signature.png
公式サイト 石破茂オフィシャルサイト

選挙区鳥取県全県区→)
鳥取1区
当選回数 11回
在任期間 1986年7月8日 - 現職

内閣 第3次安倍第1次改造内閣
在任期間 2015年10月7日 - 2016年8月3日

内閣 第2次安倍改造内閣
第3次安倍内閣
在任期間 2014年9月3日 - 2015年10月7日

内閣 麻生内閣
在任期間 2008年9月24日 - 2009年9月16日

日本の旗 第4代 防衛大臣
内閣 福田康夫内閣
在任期間 2007年9月26日 - 2008年8月2日

その他の職歴
日本の旗 第68・69代 防衛庁長官
第1次小泉第1次改造内閣
第1次小泉第2次改造内閣
第2次小泉内閣
2002年9月30日 - 2004年9月27日
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石破 茂(いしば しげる、1957年昭和32年)2月4日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(11期)、水月会会長、自由民主党水産総合調査会顧問。血液型はB型[1]

防衛庁長官第68代第69代)、防衛大臣第4代)、農林水産大臣第49代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)内閣府特命担当大臣(地方創生)、さわらび会会長、無派閥連絡会顧問、自民党たばこ議員連盟副会長などを歴任。

父は、建設事務次官鳥取県知事参議院議員自治大臣などを歴任した石破二朗[2]

来歴

出生、学生の頃

出身地については鳥取県八頭郡八頭町出身[3]東京都生まれ[4]の説がある。父は建設官僚の石破二朗。父二朗が1958年に鳥取県知事になったので、茂に東京の記憶は全くない[4]。茂の出生時、父・二朗は48歳であり、二朗の秘書を務めていた高岩迪資によれば、自身の高齢の恥ずかしさから二朗は病院へ行きたがらず、高岩が代理で病院へ出かけていた。そのため病院側は、高岩が茂の父親と間違えたことがあったという[5]

母親は、自身が国語教師だったということもあり、教育熱心な人物だった[4]。小学校の頃は毎晩1時間程度、偉人伝の朗読をさせられた[4]鳥取大学教育学部附属中学校を経て、慶應義塾高等学校に進学した。

1979年慶應義塾大学法学部法律学科卒業[3]。慶大2年在学中に、全日本学生法律討論会で第一位[3]

銀行員の頃

1979年三井銀行(現三井住友銀行)に入行[3]。石破の三井銀行入行に関して、三井信託銀行社長を務めた鳥取県出身の土井正三郎は、「昭和五十三年初夏の頃石破(二朗)さんから令息・茂君の就職について相談を受けたことがありました[6]。そのとき私は本人の志望会社を認められることを強調し、たまたま入社志望会社の人事担当役員が古くから親交がありましたので、石破(二朗)さんと一緒に訪ねたこともありました[7]。又、令息の学業、クラブ活動の成績等は極めて優秀、希望通り採用内定し、その通知を受けられた、ご両親のご安堵の程が察せられたことを想起しています[8]」と述べている。東京都中央区にある本町支店に配属[3]

衆議院議員

1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した[9]1983年三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年第38回衆議院議員総選挙自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった[3]。なお鳥取県全県区からは田中派の平林鴻三が選出されていた[10]が石破は中曽根派の幹部であった渡辺美智雄を頼り中曽根派から立候補した[11]。以後9期連続当選。1990年第39回では鳥取県全県区でトップ当選する。1990年衆議院農林水産委員会理事に就任。1992年宮澤改造内閣で農林水産政務次官。1993年の宮沢内閣不信任決議を巡っては、与党の一員でありながら賛成票を投じるが、離党はせず、直後の第40回衆議院議員総選挙では、無所属で出馬し、再びトップ当選する。しかし細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため、自民党を離党。改革の会に参加し[要出典]、改革の会・新党みらい・[[自由党_(日本 1994)|、新進党結党に参加した。しかし、1995年国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、安全保障政策に失望し、1996年第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。1997年3月、自由民主党に復党。2000年第2次森内閣農林水産政務次官に任命され、2001年第2次森改造内閣では防衛庁副長官に任命される。

小泉政権

元々、石破は農水族として地歩を築いてきた[要出典]が、自身も「国防がライフワーク」と語る[要出典]ように「新国防族」などと称され[要出典]外交安全保障に精通する政策通で知られた。拉致議連の会長を務めた後、2002年第1次小泉内閣第1次改造内閣防衛庁長官に任命され、初入閣した。防衛庁長官在任中はアメリカ同時多発テロ事件の発生による有事法制の制定や、陸上・航空自衛隊のイラク派遣に取り組んだ[12]

福田政権

安倍晋三の退陣に伴う2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持し、福田が総裁に選出される。福田康夫内閣では防衛大臣に任命され、約3年ぶりに防衛省へ赴任する。翌2008年、福田首相の退陣に伴う自由民主党総裁選挙に出馬し、25票で立候補者5人中最下位に終わった(当選者は麻生太郎)。

麻生政権

2008年麻生内閣農林水産大臣に任命される。農林水産大臣は松岡利勝(自殺)、赤城徳彦(辞任)、遠藤武彦(辞任)、太田誠一(辞任)ら前任者の多くが不祥事に見舞われていたが、石破は特に目立った不祥事を起こさず、約1年間、農林水産大臣を務めた。しかし総選挙が近づくと、閣内にありながら与謝野馨財務大臣らとともに麻生おろしに加担し、退陣要求を行った。

2009年第45回衆議院議員総選挙では鳥取1区で民主党の新人に比例復活を許さず8回目の当選を果たした。鳩山由紀夫内閣の発足に伴い、農林水産大臣を退任。

野党時代

2009年9月、自民党の野党転落後に行われた自民党総裁選挙では、前回の総裁選の対立候補であった与謝野馨から立候補を促され、マスメディアも石破の立候補を有力視していたが、前回総裁選の推薦人であった議員20人のうち13人が落選し、推薦人集めの難航が予想されたため、立候補を断念。谷垣禎一財務大臣への支持を表明し、総裁に選出された谷垣の下で自由民主党政務調査会長に起用された。自民党鳥取県連の関係者によれば、党三役入りした鳥取県選出議員は石破が初めてであった[13]。政調会長就任に伴い、所属していた額賀派を離脱した。

2010年4月22日の記者会見において、自民党を離党した与謝野馨、園田博之らが参加する新党たちあがれ日本について「私自身、新党「たちあがれ日本」に参加した与謝野馨園田博之とは、政策的に非常に近いスタンスだ。2人は、自民党で中心的な政策の立案をしてきており、共闘していくのは当然だ」「たちあがれ日本とは、「民主党の過半数を阻止しなければならない」という思いは共通しており、今後、政策面で共同歩調をとることは多々ある」[14][出典無効]と述べ、たちあがれ日本と共闘する可能性を示唆し、講演でも「ともに民主党を倒すという思いなら、罵詈雑言や裏切り者などという前に、どうやって共闘するか考えるのが大事だ[15]」と述べ、たちあがれ日本と協力する可能性に言及した。同年9月、自民党政調会長に留任。

2011年9月、党役員人事により自民党政調会長を退任(後任は茂木敏充)。政調会長退任後は所属していた額賀派には復帰せず、同年12月に派閥横断型政策勉強会「さわらび会」を立ち上げた。衆議院予算委員会野党筆頭理事、自民党安全保障調査会長に就任。

2012年9月10日自由民主党総裁選挙への出馬を表明[16]9月26日に実施された投開票では、1回目の投票で立候補者5人中トップの199票(地方票165票、国会議員票34票)を獲得し、特に地方票では2位以下の候補を大きく引き離したが、過半数の確保には至らなかった。国会議員のみによる2回目の投票では、大きく上積みし89票を獲得するも、108票を獲得した安倍晋三元首相に敗れる[17]

自由民主党幹事長

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自由民主党総裁に選出された安倍の下、無派閥ながら自由民主党幹事長に起用され[18]2012年第46回衆議院議員総選挙2013年第23回参議院議員通常選挙の陣頭指揮を執った。

第2次安倍政権

2014年9月3日第2次安倍改造内閣発足に先立ち、安倍は石破に対し、新設する安全保障法制担当大臣への就任を打診していたが、石破は8月25日にラジオ番組に出演し、安保法制担当相への就任を辞退する意向を明言し、内閣改造後も引き続き幹事長職に留まりたい意向を表明した[19]。しかし、日刊スポーツによると、「幹事長が公の場で人事の希望を言うなど前代未聞」等、石破に対する批判が高まり、自民党参議院幹事長脇雅史は「個人の見識があるのは当然だが、内閣、組織の意向に従うのが常識だ」と苦言を呈した[20]。安倍はさらに、挙党体制の確立のため石破に安全保障法制担当相以外での入閣を打診し[21]8月29日に正式に会談した際、石破もこれを受け入れた[22]9月3日に発足した第2次安倍改造内閣では、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)及び「元気で豊かな地方の創生のための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣(地方創生担当大臣)に任命された[23]

同年9月30日、党内の無派閥の議員を中心に構成される、無派閥連絡会に入会、その2日後に顧問に就任した[24]。同会は2012年の総裁選で石破を支持した議員が中心メンバーであるため、一部のマスメディアや自民党議員から、「事実上の石破派」と結成当初から目されていたが[25][26]、石破本人は無派閥の議員の共助が同会の趣旨と述べ、これを否定した[27][28]

同年12月24日に発足した第3次安倍内閣では、地方創生担当大臣内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)に再任[29]

2015年9月8日自民党総裁選には立候補せず、安倍の無投票再選となった。石破は後に、「閣僚か党役員として仕えているときは総裁選に出ないのが私の信条」、「安倍政権の支持率が比較的高い中で出馬することに意味があるのか」と語っている[30]。翌日の9日に、自身の派閥を結成する意向を表明[31]。同月28日に「水月会」の名称で石破派が発足し、石破を含め20名が参加した[32]。石破は派閥発足時の会見で、自身が大臣を務める安倍内閣を支えると同時に、安倍の任期2期6年(ただし、2017年に総裁再選規定が改正され、最長3期9年となる)の折り返しの段階から時間をかけて、政策体型・政権構想を練り上げたいとの意向を示し、「私のようなものでも、仮に政権を担うのが望ましいということであれば、それを目指したい」と述べた[33][34][35]

同年10月7日に行われた第1次内閣改造において、内閣府特命担当大臣(地方創生)兼まち・ひと・しごと創生担当大臣に留任[36]

2016年8月3日第2次内閣改造で大臣を退任[37][38]。石破は後のインタビューで、「いつまでも続く政権はない。次は誰かがやらないといけない。安倍首相を支えるのも、次に備えるのも、自民党が果たすべき責任。」と退任について語っている[39]

閣僚退任後は、衆院中国ブロック代表として党総務を務めていたが、政権に批判的な言動をとる石破に不満を抱えていた前総務会長細田博之島根1区選出)の反対にあい、8月29日に退いた。石破の後任には、同じ石破派赤沢亮正鳥取2区選出)が就く。[40]

2018年8月10日、9月に行われる自民党総裁選挙への出馬を表明[41]

政策・主張

外交・安全保障

  • 防衛庁長官就任後、情報収集機関の調査隊を改組し、防衛庁長官の直轄部隊の情報保全隊を組織した[要出典]
  • 市民社会と軍隊が、かけ離れた存在とならないよう、市民が軍隊という組織を実感して理解するという意味で、徴兵制度の利点を認める発言をしている[42][43]が、日本での徴兵制の導入については、国会答弁で、政府見解と同じく、日本国憲法第十三条の「幸福追求権」や、第十八条の「意に反する苦役」の趣旨からみて、違憲との見解を示している[44]
  • 自衛隊を機動的に動かせるような法改正を繰り返し主張しており、特に北朝鮮有事の際の邦人救出の必要性を強調している。2008年の自民党総裁選挙に立候補した際は「動乱が起き、北朝鮮の(日本)国民が逃げなきゃいけない時でも自衛隊は(国内法の制約で)助けに行けない。そんな国でいいのか」と述べた[45]。2013年1月27日には、同月に発生したアルジェリア人質事件を受けて、「日本人の生命、財産を守るのは国家の当然の責務。必要最小限の武器使用は(憲法が禁じる)武力行使ではない」と述べ、在外日本人を緊急時に自衛隊が救出するために武器使用基準を緩和すべきと主張した[46]
  • 2010年5月23日、テレビ番組で「将来的に日本のような島国に海兵隊が無いのはおかしなことだと思っている」と述べ、日本も海兵隊を持つべきだと主張した。また、日本が海兵隊を持った場合、日本の海兵隊がアメリカ海兵隊と共同で活動する可能性にも言及した[47]
来日したアメリカ合衆国国防長官(当時)のドナルド・ラムズフェルド(右)と記者会見に臨む防衛庁長官時代の石破(2003年11月15日)
来日したアメリカ合衆国国防長官のロバート・ゲーツ(左)と握手を交わす石破(2007年11月8日)
ロバート・ゲーツ(右)と(2007年11月8日