ふくおかし
福岡市
 シーサイドももち 天神博多祇園山笠 中洲の屋台街筥崎宮 JR博多シティ福岡城址
福岡市旗 福岡市章
福岡市旗 福岡市章
日本の旗 日本
地方 九州地方
都道府県 福岡県
団体コード 40130-7
法人番号 3000020401307
面積 343.39km2
総人口 1,570,095[編集]
推計人口、2018年4月1日)
人口密度 4,572人/km2
隣接自治体
佐賀県
佐賀市
神埼市
神埼郡吉野ヶ里町
市の木 1979年(昭和54年)10月制定
市の花 1979年(昭和54年)10月制定
市の鳥 1989年(平成元年)6月制定
福岡市役所
市長 高島宗一郎
所在地 810-8620
福岡県福岡市中央区天神一丁目8番1号
北緯33度35分24.5秒東経130度24分6.2秒座標: 北緯33度35分24.5秒 東経130度24分6.2秒
福岡市役所
外部リンク 福岡市

福岡市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

特記事項 市章は1909年(明治42年)10月制定
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福岡市(ふくおかし)は、福岡県の西部に位置し、近畿地方以西の西日本では2番目、全国では5番目の人口(157万7973人、2018年8月1日現在)を擁する。福岡県の県庁所在地であり、政令指定都市である。

概要

福岡市の衛星写真
2015(平成27)年10月撮影

九州地方の行政・経済・交通の中心地であり同地方最大の人口を有し、北九州市北九州都市圏)とともに形成する北九州・福岡大都市圏都市単位の経済規模において日本の4大都市圏に数えられる。日本の民間研究所2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界36位と評価された[1]。近年はグローバル創業・雇用創出特区として、北九州市とともに国家戦略特別区域に指定されている。

博多湾に面するこの地域は古来から博多(はかた)として認識されており、大陸方面への玄関口として利用されてきた。中世に商人による自治都市が形成され、戦乱で度々焼き払われながらも、豊かな町人文化を育んだ。豊臣秀吉の手で復興されたのち、黒田氏福岡城とその城下町を築いたことで、那珂川を境に西が城下町としての「福岡」、東が商人町としての「博多」となった[2]。その後、江戸時代から明治時代初頭にかけて、福岡と博多は共存していたが、1876年(明治9年)に福岡と博多は統合され福博(ふくはく)となり、その後、福岡と改称された。

明治維新当時、九州地方最大の都市は長崎市鹿児島市であり、九州地方を統括する中央の出先機関は当時熊本市に置かれるなど、九州地方における福岡県および福岡市の重要性は低かったが、1899年(明治32年)博多港開港、1911年(明治44年)九州帝国大学(現在の九州大学の前身)設置に端を発して発展が進み、徐々に九州地方の中枢として位置づけられるようになった。1910年代(明治43-大正8年)に熊本市の人口を抜き九州地方最大となる。1920年(大正9年)の人口統計では熊本県の人口の2倍を超えている。また、この時期から九州を統括する中央の出先機関は福岡市に移行している。1963年(昭和38年)に、5市合併で小倉市が元々は筑前国遠賀郡であった現在の戸畑区若松区八幡西区八幡東区と合併し北九州市が発足すると、日本製鉄などの重工業地域を吸収したことによって同市の人口が九州地方最大となったことから、福岡市は県庁所在地でありながら福岡県最大の都市ではないと言うねじれ現象が生じたが、その後、昭和後期の日本における炭鉱の相次ぐ閉山・第三次産業の急速な発達と、政令市指定・山陽新幹線博多延伸などを経て、1979年(昭和54年)に再び福岡市の人口が九州地方最大となったことでねじれ現象は解消された。

現在も急速に人口増加が進んでおり、平成22 - 25年(2010 - 2013年)にかけて、福岡市は政令市の中で人口増加数・増加率ともに最大である。平成27年(2015年)の国勢調査で、京都市神戸市を抜き、全国の市で5番目に人口の多い市となった。今後も毎年一万人以上の人口増加が見込まれており、2021年には約160万人に達すると予想されている。

福岡市の都心は、天神博多の両極がある(それぞれ江戸時代の福岡と博多に相当する)。天神は福岡市役所と西鉄福岡(天神)駅福岡市地下鉄天神駅天神南駅のほか、多数の百貨店ファッションビルが集積する繁華街となっており、博多には在来線・新幹線のターミナルである博多駅があり、また福岡空港も地下鉄で数分と至近距離であるため、大企業の支社が集積するビジネス街となっている。

天神と博多を隔てる那珂川中州に形成された歓楽街は、中洲(なかす)として全国的に有名である。

天神・博多・中洲・長浜などで夜間に常設される屋台の数は日本一[3] で、屋台目当ての観光客も多い。1995年(平成7年)には複合商業施設キャナルシティ博多が中洲の東側に開業、2011年(平成23年)には九州新幹線博多延伸に伴い博多駅に複合商業施設JR博多シティが開業している。

福岡市の主な副都心としては、西新香椎が挙げられる。両者の周辺には高校大学専門学校が多数存在するほか、埋め立てウォーターフロント開発地区として、西新の北にはシーサイドももちが、香椎の西にはアイランドシティが隣接している。特にシーサイドももちには、福岡ヤフオク!ドーム福岡市総合図書館福岡市博物館報道関連各社といった文化・エンターテインメント施設が集積している。福岡都心は福岡空港に近く超高層ビルが建てられないが、福岡市内の高さ100m以上の建造物の殆どが(比較的高さ規制の緩い)この両副都心の近辺にある。この両副都心ほど大規模ではないが他に福岡市の副都心として挙げられる地域は、大橋姪浜がある。

地理

鴻巣山(南区)より福岡市街地を望む

位置

九州の北部。日本海博多湾今津湾玄界灘)に面した半月型の福岡平野の大半の部分を市域とする。北は博多湾の北辺に位置する砂州である海の中道陸繋島である志賀島、西は糸島半島の東部まで市域となっている。南・南西は脊振山地に含まれる山間部まで市域が伸びており、佐賀県に接している。ほかに有人島嶼として、博多湾上の能古島や市の西部で博多湾口付近の玄界灘上に浮かぶ玄界島、そのさらに西北部にある小呂島を市域に含んでいる。

福岡市から壱岐対馬を挟んで向かい側に朝鮮半島がある。日本の人口100万人以上の主要都市としては韓国ソウル特別市中国上海市台湾台北市に最も近い都市で、直線距離では東京特別区から約880km、大阪市から約480km、広島市から約200km、韓国の釜山広域市から約200km、ソウル特別市から約540km、中国の上海市から約890km、台湾の台北市から約1280kmの位置にある。

地形

市域の多くは福岡平野に含まれており、一部に小高い山なども存在するものの概ね平坦である。他の大都市と比べて平坦であるため、通勤や通学、買い物における自転車利用の利便性が高い。市域西部・西南部は脊振山地の一角を成しており、標高が高く起伏の大きい地形となっている。市街地の海岸部は大半が埋立地であり[4]、港湾・住宅などが建設されている。また、博多湾東部には人工島も建設されている(アイランドシティ[5]。一方、西区の大部分や東区海の中道と島嶼部などには自然海岸も残っている。また、玄界島の北方約300mに黒瀬と呼ばれる幅200m程度の岩礁が発達している。黒瀬は、新生代第四紀に活動した福岡県唯一の火山島に分類され、玄武岩で構成されている。

市内を流れる河川としては、市域中心部を流れる那珂川御笠川や市域東部を流れる多々良川、市域西部を流れる室見川などがあるが、一級河川はない。従って自主水源に乏しくたびたび大規模な渇水(例:昭和53-54年福岡市渇水)に見舞われている。

長大河川はない一方で、前述のとおり平野周辺の山地から短い河川長とやや急な勾配で博多湾に流れ込む河川はおおむね市街地を経由しているため、集中豪雨があった場合に氾濫しやすく、それが福岡平野を形成したと見られるが、現代において都市治水上の課題となっている。

気候

日本海側に面しているが、温暖な太平洋側気候九州型気候区であり、年平均気温は概ね17℃前後、年間降水量は概ね1500mm - 1800mm程度で推移している。(なお背振山地やその麓にあたる地域はそれよりも多くなる。) 冬季に日照時間が少なくなる点が太平洋側諸都市と異なり、年間日照時間は概ね1800 - 1900時間程度で、九州の他地域に比べてやや短い。冬季の日照時間は少ないが、降水量分布の観点では夏季に降水量のピークがあり冬季の降水量は少ない典型的な夏極大型の太平洋側気候であり、島根県以東の日本海側気候の地域と比べ冬季の10mm以上の雨日数と降雪量が極端に少ないという点で典型的な日本海側気候とは決定的に異なっている。これは他の九州北部・山口県の玄界灘沿岸でも同様である。

緯度が低い上に内湾に面している大都市のため、夏季は大阪市等と並んで昼夜を問わず大変暑さが厳しい地域の一つである。6月から真夏日が見られ、7月以降、9月にかけて真夏日の厳しい暑さが続く。猛暑日の平年で5.5日と毎年猛暑日を記録する。人口規模に比してヒートアイランド現象が著しく、戦前からの熱帯夜日数の増加率が日本の主要な気象観測点で一番高くなっている(1936年-2007年にかけて10年で5.0日のペースで増加。)。平年の熱帯夜日数は本土では大阪市神戸市鹿児島市に次いで多い33.4日で、実に1ヶ月以上に及ぶ。猛暑日15日以上、熱帯夜50日以上となった年もある。九州という低緯度地域で夏期にはより湿った気団の影響を受けやすい上、市街地が博多湾に面しており湿った海風が入りやすく、気温に加え湿度が高い。そのため東京23区名古屋市など東日本の主要都市と比べ不快指数や暑さ指数(WBGT、湿球黒球温度)が高く、体感的な暑さは厳しくなる。近年は特に夜間に気温が下がりにくくなっており、2018年8月22日には国内で8例目となる最低気温30℃以上、国内観測史上2番目に高い最低気温30.5℃(いわゆる超熱帯夜)を記録した。その他にも、全国的に稀な最低気温29℃以上の観測例が複数ある。

冬季は北側の玄界灘を流れる暖流である対馬海流の影響を受けるため、冬日は少なく(平年4.3日)、全くない年もある。東京23区や名古屋市、京都市などと比べて平均気温は約2.0℃高く、気温の面で温暖と言える。しかし北西季節風が吹きつけ、曇天の日が多く日照時間は少ないため体感気温は低めである。また比較的大陸に近いために西回りで強い寒波が流れ込みやすく、一時的に寒さが厳しくなり最高気温が0~3℃台となることもある。降水量は少ないが、降水日数は太平洋岸の諸都市よりやや多くなっている。平年の年間降雪日数は17.1日で、積雪は年1 - 2回、最大5cm程度で、積雪が全く無い年も珍しくない。これは、北西季節風の風上が朝鮮半島の影響で狭くなっている対馬海峡のため、北西季節風の海上吹走距離が短く、雪雲が発達しないためである。北西風型の冬型では、吹走距離が短く未発達の雲がかかる福岡市の積雪が0cm〜3cm程度なのに対し、東シナ海上の吹走距離が長く発達した雪雲がかかる鹿児島市が20cm以上の大雪になったという例も度々起こる。早良区南部(脇山・内野・板屋・曲渕)や山沿いでは積雪量はやや多くなるが、日本海側や広島市などの山陽地方の山沿いと比べても少ない。

年間の雷日数は雷都として有名な宇都宮市の次に多く、全国の県庁所在地で第11位の24.7日で、太平洋側と異なり冬季にもしばしば落雷が観測される。夏の晴天日のいわゆる夕立は少なく、首都圏のような中心部直撃の激しい雷雨や降雹はない。その分夕立による打ち水効果を期待できず、熱帯夜が多くなっている(平年値の統計期間は1981年2010年)。

福岡市(福岡管区気象台)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 21.5
(70.7)
24.3
(75.7)
26.3
(79.3)
30.1
(86.2)
32.3
(90.1)
37.3
(99.1)
38.3
(100.9)
37.9
(100.2)
36.5
(97.7)
33.3
(91.9)
28.2
(82.8)
23.5
(74.3)
38.3
(100.9)
平均最高気温 °C (°F) 9.9
(49.8)
11.1
(52)
14.4
(57.9)
19.5
(67.1)
23.7
(74.7)
26.9
(80.4)
30.9
(87.6)
32.1
(89.8)
28.3
(82.9)
23.4
(74.1)
17.8
(64)
12.6
(54.7)
20.9
(69.6)
日平均気温 °C (°F) 6.6
(43.9)
7.4
(45.3)
10.4
(50.7)
15.1
(59.2)
19.4
(66.9)
23.0
(73.4)
27.2
(81)
28.1
(82.6)
24.4
(75.9)
19.2
(66.6)
13.8
(56.8)
8.9
(48)
17.0
(62.6)
平均最低気温 °C (°F) 3.5
(38.3)
4.1
(39.4)
6.7
(44.1)
11.2
(52.2)
15.6
(60.1)
19.9
(67.8)
24.3
(75.7)
25.0
(77)
21.3
(70.3)
15.4
(59.7)
10.2
(50.4)
5.6
(42.1)
13.6
(56.5)
最低気温記録 °C (°F) −6.0
(21.2)
−8.2
(17.2)
−4.7
(23.5)
−1.4
(29.5)
1.4
(34.5)
4.3
(39.7)
13.8
(56.8)
15.4
(59.7)
7.9
(46.2)
0.4
(32.7)
−2.1
(28.2)
−5.4
(22.3)
−8.2
(17.2)
降水量 mm (inch) 68.0
(2.677)
71.5
(2.815)
112.5
(4.429)
116.6
(4.591)
142.5
(5.61)
254.8
(10.031)
277.9
(10.941)
172.0
(6.772)
178.4
(7.024)
73.7
(2.902)
84.8
(3.339)
59.8
(2.354)
1,612.3
(63.476)
降雪量 cm (inch) 2
(0.8)
1
(0.4)
1
(0.4)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
4
(1.6)
平均降水日数 (≥ 0.5 mm) 11.0 10.1 12.9 11.0 10.7 12.4 11.9 10.4 10.9 7.3 9.7 10.3 128.6
平均降雪日数 (≥ 0 cm) 6.9 4.3 1.9 0 0 0 0 0 0 0 0.1 3.8 17
湿度 63 63 65 65 68 74 75 72 73 67 67 64 68
平均月間日照時間 102.1 121.0 149.8 181.6 194.6 149.4 173.5 202.1 162.8 177.1 136.3 116.7 1,867
出典: 気象庁 (平均値:1981年-2010年、極値:1890年-現在)[6][7]


地名

福岡市の地名を参照。

行政区

Wards of Fukuoka City Japan.png
西区
東区
早良区
博多区
中央区
城南区
南区

以下の7つので構成される(自治体コード順)。

区名 人口
(人)[8]
割合(%) 面積
(km²)
人口密度
(人/km²)
1 東区 314,134 20 69.36 4,529
2 博多区 237,522 15.1 31.63 7,509
3 中央区 197,693 12.6 15.40 12,837
4 南区 260,326 16.6 30.98 8,403
5 西区 210,614 13.4 84.17 2,502
6 城南区 131,473 8.4 15.99 8,222
7 早良区 218,333 13.9 95.87 2,277
合計 1,570,095 100 343.39 4,572

当初は5区体制で発足したが、1982年(昭和57年)に西区から城南区、早良区が分区された。

市街地構成

シーサイドももち
福岡タワーより南東を望む(2008年8月20日撮影)

市の中央部にある天神地区(中央区)が市の中心部で、ここには数多くのデパートやビルが建ち並んでいる。天神から那珂川を挟んだ東隣には那珂川の本流と支流(博多川)に挟まれた中州地形部分があるが、そこが日本三大歓楽街の一つに挙げられる中洲である。そのさらに東隣は「博多」の市街地である。その博多市街地の南東に博多駅が位置している。中洲から博多駅の間の一帯はオフィスビルやビジネスホテルなどが建ち並ぶビジネス街である。天神地区の西および西南に位置する大名、今泉、警固では、1990年代後半ごろから主に若者をターゲットとした店舗が増え、若者の町として急速に発展している。

大名から西へ行くと福岡城跡がある。さらに西方、天神から約4kmの位置には、福岡市の副都心を成す繁華街の西新(早良区)がある。西新の北側は1980年代に埋立により開発された土地で、シーサイドももちと呼ばれ、当時として新しい市街地が形成されている[9]

市域東部の博多湾上においてアイランドシティ(東区)と呼ばれる人工島が建設中であり、2000年代後半から2010年代初頭頃にかけて、港湾地区と住宅地の一部が竣工している。福岡市では、2000年(平成12年)前後から市東部のJR鹿児島本線、西鉄貝塚線沿線において土地区画整理事業や連続立体交差化事業等の市街地開発事業を実施しており、古くから東部の副都心とされる香椎駅西鉄香椎駅周辺の香椎地区とJRの旧香椎操車場跡地を利用した新興市街地である千早地区との間、および箱崎地区と吉塚地区との間で整備事業が進んでいる。連続立体交差事業は、千早地区が2004年頃、箱崎地区が2004年3月、香椎地区が2007年3月に竣工した。また、土地区画整理事業は、箱崎地区、千早地区については2010年頃までにほぼ完了し、香椎地区については進行中である。

市内南部方面を網羅する、福岡高速5号線福岡外環状道路を中核とする都市計画道路の整備も進み、2011年4月に福岡外環状道路が全線完成供用されるのと前後して、これに接続する新たな主要幹線道路が都市計画道路として整備されほぼ完成している。2012年7月には高速5号線が全線完成し福岡高速環状線となった。

市街地形成と関連した重大な動きとして、九州大学のキャンパス移転が挙げられる。本部を始め多くの学部が置かれていた東区の箱崎キャンパスと、主に教養部が使用していた中央区の六本松キャンパス(旧制福岡高校校地)を西区に新たに開発した伊都キャンパスに移転させる計画である。伊都キャンパスへの玄関口となる今宿から周船寺にかけての地区では伊都土地区画整理事業が実施され、西部地区に新たな拠点地域が整備された。キャンパス移転は2005年より開始され、同年には九大学研都市駅も開業している。一方、六本松キャンパスの跡地には複合施設・六本松421が開業し、裁判所なども当地に移転する予定である。箱崎キャンパスの跡地では「Fukuoka Smart EAST」計画のもと先進的な都市づくりが行われることとなっている。

このほか、駅周辺再開発事業により、福岡市地下鉄姪浜駅周辺の姪浜地区(西区)に新興の商業地が、西鉄大橋駅周辺の大橋地区(南区)にも既存商業地が、それぞれ発達している。

また、街路は、新しく建設された主要幹線道路においては無電柱化、街路樹の整備が促進されている[10]

さらに都市景観上の大きな特徴として、郊外に超高層マンションが林立しているにももかかわらず、中心部に超高層ビルが存在しないことが挙げられる。これは中心部の至近距離に福岡空港が存在し、航空法の制限表面によりビルに高さ規制が掛かっているためで、博多駅地区では60メートル、天神地区でも70メートル程度までが限度となっている。(福岡空港#空港が抱える問題点参照)その結果、多くの大都市では問題になっているテレビの受信障害が市街地ではさほど影響がない。

「福岡」と「博多」

都市名は「福岡」であるが、「福岡」を称する市の中心駅名は、西鉄西鉄福岡(天神)駅(旧名称は「西鉄福岡」)のみで、JRは「博多」を用いている[11]

福岡は福岡藩黒田氏の「武家町」、博多は古来から国際貿易港としての「商人町」として栄えた歴史があり、那珂川を境として福岡と博多は元々は別々の都市であった。市制施行の際に一悶着があったが、都市名を福岡、中央駅名を博多にすることで合意(詳しくは歴史で後述)。新幹線開通時は博多が玄関口となり、博多の知名度が大きく上回ったが、今日では城下町のはずれに位置した天神地区の台頭もあり、かつての「福岡」が商業の街、「博多」がビジネス街となった。こうしたことから「博多」より「福岡」という名称で呼ばれることが多くなり、博多は都市内の一地区名でしか用いられないことが多くなった。

ただし、現在の中心部の天神地区の繁華街としての発展は、戦後旧博多部から現在の新天町に移った『博多商人』の力なくしてはあり得ない。ことに明治時代、時の博多豪商「渡辺与八郎」の尽力により、他の都市に後れを取っていた市内電車の導入を果たし、当時多くを所有していた天神町付近(現在の天神)の土地を福岡市に寄付し、福岡市の発展に力を注いだ。そしてその功績を称え、福岡市の中心部を南北に貫く目抜き通りは「渡辺通り」と称している。

近年の福岡・博多地区は武家町・商人町を区別する色合いは薄くなり、双方を包含して九州全体の経済・文化等の中心的機能を担う役割が一層高まっている。

隣接する自治体

以下の各市町に隣接している。括弧内は、その市町が隣接している福岡市の行政区。

福岡県

佐賀県

隣接市町のうち、福岡県に属している市町は、いずれも福岡市のベッドタウンとして発達している。しかし、佐賀県に属している隣接市町は福岡市とは脊振山地によって隔てられており、ベッドタウンとして発展するには至っていない。なお福岡都市圏に属している鳥栖市基山町みやき町は福岡市隣接市町ではない。

2005年(平成17年)10月1日に佐賀県内の佐賀市と、かつて福岡市に隣接していた佐賀郡富士町神埼郡三瀬村が合併し、新市制による佐賀市が誕生[12]したことで、県境を挟んで県庁所在地同士が接することになった。但し、福岡市と佐賀市の中心部は直線距離で50kmほど離れている。

海を挟んだ長崎県壱岐市対馬市とも隣接扱いされる事もある。電話料金離島特例として隣接扱いである。

人口

Demography40130.svg
福岡市と全国の年齢別人口分布(2005年) 福岡市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 福岡市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
福岡市(に相当する地域)の人口の推移
1970年 871,717人
1975年 1,002,201人
1980年 1,088,588人
1985年 1,160,440人
1990年 1,237,062人
1995年 1,284,795人
2000年 1,341,470人
2005年 1,401,279人
2010年 1,463,743人
2015年 1,538,681人
総務省統計局 国勢調査より

かつての帝国大学であった九州大学をはじめ、学生数約2万人の福岡大学や同1万人超の九州産業大学[13] などの大学が集中しているため、福岡県の中でも20代の人口が多いのが特徴。また、断続的な人口流入にともない、その他の市民の平均年齢も比較的若い状態が続いている。平成22年(2010年)度国勢調査によると、福岡市の15歳から29歳の若者の人口比率は19.2%で、全政令指定都市トップである。また人口増加率(調査期間:2010年10月-2013年12月)も全政令指定都市トップであり[14]1965年(昭和40年)〜2014年(平成26年)の期間の人口の伸び率は、首都圏全域や首都圏大都市と比べても高い。ただし、出生率については、2008年〜2012年の統計で1.24人と低い[15]

国勢調査人口の推移(単位:万人)[16][17]

                     福岡市の人口                      福岡市の現市域にあたる地域の人口                      旧5市(門司小倉戸畑八幡若松)の合計の人口                      北九州市の人口


歴史

原始

諸岡遺跡(博多区)や吉武遺跡(西区)から旧石器が出土している。

縄文時代の遺跡としては、糸島半島東部の大原D遺跡(西区)で縄文時代早期の竪穴住居が見つかっているほか、柏原遺跡(南区)からは草創期から後期の土器や集石炉が見つかっている。中期の遺跡として、野多目拈渡遺跡(南区)や有田遺跡(早良区)からイチイガシなどのドングリ類の貯蔵穴がまとまって見つかっている。後期の遺跡では、元岡瓜尾貝塚、桑原飛櫛貝塚(いずれも西区)などの貝塚があり、四箇遺跡(早良区)からは多数の縄文土器や石器が出土している。縄文時代の福岡平野は海底であったことが真鍋大覚の調査で判明しており、「肥前島」の端にあたる前記の遺跡ぐらいで、旧石器時代と同様に少ない。

そのころの遺跡として市内の板付遺跡(博多区)がある。また志賀島(東区)で発見された金印倭奴国王印」は、1世紀頃の大陸文化との交流を示す貴重な史料である。後漢書東夷伝にある「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の記事にある印綬は、この金印のことだと考えられている。また3世紀頃の様子を記述したいわゆる魏志倭人伝の記載から、「奴国」は博多付近(後の那の津)との説が有力である。このような記録に残っているという意味では、日本で最も古い歴史を持つ都市と言える。[要出典]

ちなみにこの「魏に朝貢していた」という記録が金印の発見時にひとつの騒動を起こす。天明4年(1784年)に百姓甚兵衛により金印が発見されたとき、主として学者たちが「魏に朝貢していたとはけしからん。このようなものは鋳つぶしてしまうべきである」と強硬に主張し、一時、福岡藩の藩論もそちらに傾くのである。それを、藩校・甘棠館の学長をしていた儒学者亀井南冥が身体を張って阻止したという。

市内各地に古墳が残っており、平野部には那珂八幡古墳東光寺剣塚古墳梅林古墳今宿大塚古墳などの前方後円墳が点在し、油山などの丘陵部には油山古墳群、金武古墳群、今宿古墳群などの円墳の分布地帯がある。

伝説時代、古代

神功皇后三韓征伐伝説がこの地には多く残る。東区香椎の香椎宮は、神功皇后が夫である仲哀天皇の神霊を祀ったところである[18]奴国の後身として大和時代には「那の県」「儺県」と呼ばれており、日本書紀などにも記述がある。

527年筑紫の君磐井の乱の後、朝廷那津官家を造らせたと日本書紀にある。(「那津の口(博多大津)に建てよ」とある)

607年小野妹子が第2回遣隋使として那の津より渡る。630年には遣唐使が渡っている。

663年百済再興を目論んで派遣した倭国援軍が、白村江の戦いにて新羅軍に大敗北を喫する。唐、新羅連合軍の報復に備えた大和朝廷は、その守りとして博多湾岸に防人を配し、水城大野城などの城砦を築く。これより後、全国から徴発された若者が防人として北部九州に配備され、故郷を遠く離れて軍務に就く辛さと哀しみを詠い、万葉集に残されている。

757年櫛田神社が開かれる。

7世紀から11世紀にかけては、国際交流が盛んになり、665年には筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)が建設され、これが後に大宰府の迎賓館となる鴻臚館(こうろかん)となった。外国からの使節の接待、遣唐使などの送別といった迎賓館としての機能に加えて、貿易事務所、検疫所的な役割も果たしていたらしい。鴻臚館遺跡は1988年に当時の平和台野球場の外野席の土盛りの下から発見され、市民を驚かせた。奈良時代は目の前が海岸であり、使節の船は沖がかりして小舟で上陸した。

なお、遣唐使廃止の建白を行った菅原道真が901年に大宰府に左遷されたとき、博多に上陸し、四十川(よんじっかわ)の清流を水鏡として自らの姿を見、そのやつれようを嘆いたという。その地に建立されたのが水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)(水鏡天神)であり、福岡市の都心・天神の地名は、この事に由来する。

806年東長寺が開かれる。

919年箱崎放生会始まる。923年、筥崎宮が開かれる。

中世

1161年には平清盛により日本初の人工港『袖の湊』が建設された[19]。これは埋め立てにより埠頭を築いたものである。天神・博多部はまだ海の底であり、整備された港湾の沿岸部には筥崎宮、住吉神社櫛田神社などの大きな寺社が立地していた。中世の寺社は貿易の重要な出資者であり、博多の冒険商人たちのスポンサーであった。

11世紀の終わりごろから、博多にはのちに「大唐街」とよばれる唐人街が形成された。異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交う大都市であった。この時代に博多にいた唐人商人に謝国明等がいる。(は日本では平安後期 - 鎌倉時代。)中国大陸と博多を船団を組んで盛んに往来し、日宋貿易で富を築いた中国商人は、博多に居住して活発な商業活動を行い、博多の寺院とも結び、その力は中央にも及んで特に「博多綱首」と称されるに至った(「綱首」とは「船長」の意の尊称)。

博多は文化の受け入れ窓口でもあった。1195年 栄西が博多に日本初の禅寺である聖福寺を開いたが、このときも博多綱首らが物心両面の援助をしている。栄西禅師はからを持ち帰り喫茶の習慣を日本中に広めたことでも知られるが、「饅頭(まんじゅう)」「饂飩(うどん)」などの日本人になじみ深い食物が日本に入ってきたのもこの時期の博多を通じてであった。

室町時代を通じて博多は年行司と呼ばれる12人の豪商の会議によって市政が運営され、日本史上において初めての自由都市であった。堺 (堺市) (堺は36人の会合衆によって市政が運営された)と並び貿易都市として繁栄するが、それゆえに戦国時代には戦国大名の争奪の対象となり、豊臣秀吉島津義久の戦いの際に島津軍によって焼き払われた。 九州平定後、1587年7月24日(天正15年6月19日)に筑前箱崎において豊臣秀吉バテレン追放令を発令した。

元寇

文永の役における鳥飼潟の戦い蒙古襲来絵詞

しかしその反面、他国から侵略の被害にも遭っており、869年には新羅海賊が博多湾に侵入、1019年には刀伊の入寇があり、博多は常に対外的な脅威に曝されていた。その最大の脅威は、宋を滅ぼしてユーラシア大陸のほとんどを支配した人類史上最大の帝国、モンゴル帝国である。

高麗を屈服させたモンゴル帝国のクビライ日本の服属を求め、時の鎌倉幕府がこれを拒否したことから、1274年、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人などからなる4万人の元軍が襲来した(文永の役)。10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島松浦党の本拠を全滅させた元軍は、10月20日、百道原から博多湾に上陸し、激しい地上戦が展開された。しかし、赤坂の戦い鳥飼潟の戦いで破れるなど苦戦を強いられた元軍は、撤退を決め、夜間の撤退を強行したため、撤退中に暴風雨を受け、甚大な損害を被った。

幕府は、再度の元軍の襲来に備え、博多湾岸に約20Kmにも及ぶ石築地を築いた。この史跡「元寇防塁」は現代にも残っており「防塁」という地名も存在する。そして、1281年に元軍が襲来(弘安の役)。博多湾に現れた元軍は、防塁から上陸することを避け、陸繋島である志賀島を占領し、博多への進出を窺うが、日本側の総攻撃を受け大敗し、壱岐島に撤退した(志賀島の戦い)。

近世

福岡藩初代藩主・黒田長政

1587年からは九州をすべて服属させた豊臣秀吉により博多の復興がなされた。これを太閤町割と呼ぶ[20]。交易の自由や、町人による街の自治が行われ、新たな自治都市が確立された。なお当時の博多とは、博多湾南岸の東西に渡る地域を指したものだった。このときの秀吉の意図には、文禄・慶長の役で出兵を行うにあたり、貿易都市・博多を物流の補給基地として活用しようというものがあったと思われる。

関ヶ原の戦いの後の1600年に黒田如水黒田長政親子が筑前国に入国し、その後市内中心部の那珂川から東を博多、西を福岡と呼び、そのまま定着した。黒田親子は、小早川秀秋の居城であった名島城(東区)に入城したが、名島城は博多湾に面した小高い丘の上にあるために城下町が作れなかった。そこで1601年から当時の警固村(現・中央区)福崎に新たな城・福岡城と城下町をつくった。

その際、出身地の備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に由来して、城下町を福岡と命名した。黒田藩は博多のまちの自治を広く認めたため、町人の商業都市・博多と武士の行政都市・福岡が機能分担しつつ隣接するという、全国的にあまり類例のない「双子都市」が誕生した。博多と福岡の境界である那珂川の中州は歓楽街としての中洲が発展した。

江戸時代を通じた幕府の鎖国政策により、外国との通商が長崎と対馬に限られたため、福岡・博多の国際貿易都市としての展開はあまり見られなかった。

なお、前述のとおり、天明4年(1784年)に志賀島金印が発見されている。

近代

その後、江戸時代から明治時代初期まで博多と福岡は共存していたが、1876年に地域区分の再編によって「福博」(ふくはく)という一つの地域区分とした。さらに1878年、郡区町村編制法の施行により福博が福岡区に改称され、「博多」を名乗る自治体は消滅した。

1889年に市町村制度の施行に伴い福岡区が市制を施行する際、市名を「博多市」にする、或いは福岡と博多を再分離する声も上がったが、いずれも実現せず、都市名は福岡市となった。市制施行のときの「名前争い」は深刻で、福岡派と博多派が互いに闇討ちをしあうという過熱ぶりであったという[要出典]。翌1890年,明治23年第2回市会は「名称問題」で紛糾し、採決したところ完全に賛否同数であり、福岡部出身の議長が議長席を降り一議員として投票したが再び同数となり、最終的に福岡部出身の議長代理者の裁決で「福岡」と決したものである[21]

明治のこの時点では、「福岡」と「博多」は別の地域という概念が強く残っていた。そのためちょうど同じ頃、当時の九州鉄道会社(後に国有化)が福岡市から現在の久留米市までの鉄道を敷設する際、市の中心駅は「博多」地区にあるということで駅名は福岡駅ではなく、博多駅となった。

なお「福岡駅」の名は、福岡市中央区天神に位置する西鉄の駅が名乗り、2001年には西鉄福岡(天神)駅と駅名が変更された。なお、1972年の政令指定都市昇格に伴い、行政区として「博多区」が設置され、ここにほぼ百年ぶりに「博多」の地名が復活することとなった。

かつて町人の商業都市として栄えた『博多』は、官公庁の集うビジネス街、武士の行政都市として発展した『福岡』は、繁華街商業地となり、機能が入れ替わった。

年表

原始 - 近代