第一白川橋梁
熊本地震被災前の第一白川橋梁を行くトロッコ列車「ゆうすげ号」
熊本地震被災前の第一白川橋梁を行くトロッコ列車「ゆうすげ号」
基本情報
日本の旗 日本
所在地 熊本県阿蘇郡南阿蘇村立野・菊池郡大津町外牧
交差物件 白川
用途 鉄道橋
管理者 南阿蘇鉄道
設計者 鉄道大臣官房研究所(沼田政矩技師主査)[1][2]
施工者 鉄道省建設局熊本建設事務所(河西定雄技師担当)[5][6]
建設 1926年(大正15年)1月 - 1927年(昭和2年)9月[3]
開通 1928年(昭和3年)2月12日[4]
座標 北緯32度52分22.14秒 東経130度58分53.53秒 / 北緯32.8728167度 東経130.9815361度 / 32.8728167; 130.9815361座標: 北緯32度52分22.14秒 東経130度58分53.53秒 / 北緯32.8728167度 東経130.9815361度 / 32.8728167; 130.9815361
構造諸元
形式 鋼2ヒンジスパンドレル・ブレースト・バランストアーチ[7]
材料 鋼鉄(上部)、鉄筋コンクリート(下部)
全長 166.3メートル[7]
14フィート(4.27メートル)(上弦において)[8]
高さ 約60メートル[7]
最大支間長 300フィート(91.44メートル)[8][9]
地図
第一白川橋梁の位置(熊本県内)
第一白川橋梁
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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1.第一白川橋梁、2.立野駅3.長陽駅

第一白川橋梁(だいいちしらかわきょうりょう)は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村立野と菊池郡大津町外牧の間で白川に架かり、南阿蘇鉄道高森線立野駅 - 長陽駅間に位置する全長166.3メートルの単線鉄道橋である。川からレール面までの高さは約60メートルあり[7]、後に高千穂橋梁が完成するまでは、日本国有鉄道(国鉄)で最大の高さの鉄道橋であった[10]

2016年(平成28年)4月に発生した熊本地震により、橋台や橋脚の移動、部材の破断や変形といった甚大な損傷を受け、早期復旧のためには架け替えざるを得ないとされており、概算費用約40億円を費やして架け替え工事が行われることになった[11]

建設の背景

1912年(大正元年)から1917年(大正6年)までかけて、後に豊肥本線となる軽便鉄道宮地線の建設が行われ、1918年(大正7年)1月25日に熊本駅から宮地駅までの区間が全通した[12][13]。こうして宮地線の建設が行われると、これに触発されて阿蘇カルデラの南側の南郷谷と呼ばれる地域でも鉄道建設の動きが活発化し、国に鉄道建設の要望を行うようになった。1921年(大正10年)の第44回帝国議会において立野 - 高森間の鉄道敷設予算が成立し、実測と用地買収ののち、1923年(大正12年)4月に起工にこぎつけた[14]

この橋梁の架設位置は、阿蘇カルデラを囲む外輪山の一角が切れて白川が深い峡谷を形成して流れ出す場所にある。建設当時、線路の規格を落として安価に全国に鉄道網を広げられるように、国鉄においても軽便線の規格が導入されて各地で支線の建設が進められており、高森線も軽便線として建設された。しかしそうした路線において、このような巨大なアーチ橋が建設されることになったのは、将来的に延岡市へと通じる九州横断路線となることが構想されていたからではないか、との見方もある[10]

構造

第一白川橋梁の設計は、当時の鉄道大臣官房研究所(のちに鉄道技術研究所を経て、鉄道総合技術研究所(鉄道総研)となる)において1924年(大正13年)に行われ[1]、沼田政矩技師が主査を務めた[2]。単なるトラス橋、高架橋を設ける案、アーチ橋の3種類について比較検討した結果、剛性、安定性および経済性の点で最適であるとしてアーチ橋が選択された[15]。アーチ橋選択の要因として、現場は深い谷となっていて足場を用いて建設することは困難であり、足場の不要なカンチレバー式の組み立てが適当で、アーチ橋がそれに適するとされたこと、現場付近ではコンクリートの骨材材料を欠いていて価格が高くなり、また急斜面では施工が困難であるため、バランストアーチにすることでコンクリートを消費する基礎工を最小化できるとされたこと、両岸がアーチの反力に耐えられるとされたこと、桁の製作が十分可能であると見込まれたこと、などがある[16]

橋梁の設計前に現地の地質調査が行われ、橋台や橋脚の建設見込みの地点は、表面付近が風化した凝灰質集塊岩であり、耐力は十分であるとされたが、高森側に断層による崩壊の危険があるとされ、約8フィート(約2.4メートル)立野側に橋梁全体を移動して、高森側に40フィート(約12メートル)の鈑桁の径間を増設して、崩壊危険個所を避けることになった[17]

最終的な設計では、中央の主径間が300フィート(約91.44メートル)、両側の側径間が100フィート(約30.48メートル)で、側径間のうち中央径間寄りの40フィート(約12.19メートル)がカンチレバーアームの突桁径間(カンチレバースパン)、外側寄りの60フィート(約18.29メートル)がシンプルトラスの翼径間(フランキングスパン)とされた。この側径間は外見上、半アーチを形成している。さらに高森方に40フィート(約12.19メートル)の鈑桁(デッキガーダー)が架され、全体の長さは設計上545フィート7.5インチ(約166.3メートル)である[18]。主径間の格間は25フィート(約7.62メートル)のものが12個、側径間の格間は20フィート(約6.1メートル)のものが5個である。桁の高さは、支承から主径間中央の桁下端までの高さが60フィート(約18.29メートル)、この部分の桁高さが15フィート(約4.57メートル)、側径間端の桁高さが12フィート(約3.66メートル)である。上弦材中心間隔は14フィート(約4.27メートル)あり、ここから6分の1の傾斜で下方が広がっている。設計活荷重はクーパーE33(軸重33,000ポンド=約14.9トン、KS荷重にしておおむねKS12に相当[2])である[16]。鋼材重量は約650トン、リベットの数は約40,000本である[18]。橋の中心が川の流心となす角度は約50度で、軌条面の高さは平水面上約192フィート(約58.5メートル)であると設計上は計算されていた[15]

Daiichi Shirakawa bridge skelton ja.png

この構造は上路アーチ橋で、より正確には2ヒンジスパンドレル・ブレースト・バランストアーチとされる。これは、橋脚と上部構造が2か所のヒンジで結ばれており(2ヒンジ)、アーチと上路桁の間がトラス構造になっていて(スパンドレル・ブレースト)、主径間の前後に側径間がある(バランスト)アーチ橋という意味である[19]

日本では鉄道用のスパンドレル・ブレースト・バランストアーチの導入例は少なく、国鉄・JRでは後に只見線第一只見川橋梁として1941年に完成したものが1例あるのみであり、民鉄を含めても黒部峡谷鉄道富山地方鉄道にある程度である。第一只見川橋梁は支間約112メートルで、第一白川橋梁よりさらに大きなものとなっている[9]

建設

第一白川橋梁の建設は鉄道省の直轄工事として、鉄道省建設局熊本建設事務所が担当し、現地に白川見張所が置かれ、河西定雄技師が担当して実施された[5][6]

1926年(大正15年)1月から8月にかけて径間の測量を行った[20]。300フィート径間の測定には、足場を組んで直接測定する方法、三角測量をする方法、鋼線を引っ張って測る方法が考えられたが、前2者は地形との関係で十分な測量精度を得られないとされ、鋼線を引っ張って測定を行った[21]

1926年(大正15年)10月から1927年(昭和2年)2月にかけて橋台や橋脚基礎のコンクリートの施工を行った[20]。橋台や橋脚は、上部構造を組み立てる際にはカウンターウェイトとして作用するため、それを考慮した設計がされた[22]。第一白川橋梁は、起点側に犀角山トンネル(延長409フィート2インチ=約124.7メートル)、終点側に戸下トンネル(延長2,963フィート4インチ=約903.2メートル)が接しており[23]、これらのトンネル坑門付近に足場を設けてコンクリートを練る設備を設け、樋を通して流し込んだ[22]

現地に架設した桁や橋脚は、汽車製造大阪工場製で、工場内において仮組をおこなって検査をし、正確な寸法の部品を供給した[24]。現場に運ばれた部品は、立野駅から橋梁架設現場までの約1マイル(約1.6キロメートル)の線路の両脇に枕木を並べてその上に保管し、必要になる順番に取り出して線路に沿って現場に運搬して使用した[25]。現場においては、材料運搬用の索道(ロープウェイ)を橋の上流約30フィート(約9メートル)の位置に設置して、部品の運搬と設置に利用した。また両岸に組立用の移動式起重機(クレーン)を設置した[26]

まず両側の側径間の組み立てを行ったが、トンネルと橋台の間にクレーンを組み立てる余地はなかったので、側径間の下弦材のすべてと桁の端から3番目の格間の組み立てまではクレーンを使用できず、電柱をマストやブームとして使用して組み立て、その後側径間上にクレーンを組み立てて、クレーンによる桁組み立てを開始した[27]。まず索道で現地に運び込んだ沓(基礎に取り付けて橋脚を支える部材)1個約4トンを、あらかじめ基礎に設けていたアンカーボルトに差し込んで取り付けた。さらに側径間を組み立てる際にはスギ丸太を組んだ足場を設け、沓側から下弦材を両側に向けて据え付けて行った[28]。この作業を1927年(昭和2年)4月中旬から下旬にかけて実施した[27]

クレーンの組み立てが完了し5月23日からはクレーンによる組み立てが開始された[29]。部品を索道およびクレーンで現地に運び、必要に応じてチェーンブロックなどを利用して正しい位置になるように修正し、あらかじめ材料に開けてあるピンを挿入する穴の位置が合えば、エレクションピン、エレクションボルト、ドリフトピンの順で仮締めを行い、組み立てを行っていった[30]。いくつかの格間をまとめて組み立て・仮締めしておき、その後リベットを打って組み立てを完了していった[31][29]。最終的に、両側から架設していった桁の閉合(センタークローズ)が7月11日から7月12日にかけて実施されて、橋の構造の組み立てが完了した[32]。1927年(昭和2年)9月に橋が竣工した[33]。橋の総工費は28万2520円であった[34]

運用

1928年(昭和3年)2月12日に、高森線立野 - 高森間開通とともに供用を開始した[4]

開通後も高森線は、日本国有鉄道(国鉄)における赤字路線ワーストランキング上位の常連で、列車本数は1日5 - 6往復程度に過ぎず、国鉄C12形蒸気機関車客車貨車混合列車を牽引しているような線区であった[10]。1960年代初頭から高森線の合理化が開始され、中間駅の貨物取扱廃止や駅務の民間委託が行われ、1974年(昭和49年)4月には旅客列車が無煙化され、1975年(昭和50年)3月には貨物列車も無煙化され、蒸気機関車が高森線で全廃となった[35]

1954年(昭和29年)9月10日に中部電力井川ダム建設のための専用鉄道を開通させ、川からの高さが第一白川橋梁を上回る関の沢橋梁がこの区間に架設された。この時点ではあくまで専用鉄道であったが、1959年(昭和34年)8月に地方鉄道法に基づく正式な鉄道となり、大井川鐵道井川線となった[36]。これにより鉄橋の高さ日本一の座を譲った。

高森線は延岡駅までの延長構想があり、1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて、延岡側から日ノ影駅まで順次開通した。さらに1972年(昭和47年)には高千穂駅まで延長されて、延岡側の路線名が高千穂線となり、この区間に高さ105メートルの高千穂橋梁が建設されて、鉄橋の高さ日本一となった[9]。高千穂駅と高森駅を結ぶ区間の建設も進められたが、高森トンネルでの出水事故があったことに加え、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の影響により両側の高森線・高千穂線ともに廃止対象になったこともあり建設が断念され、この経路での九州の東西鉄道連絡は実現しないとともに、国鉄路線での鉄橋の高さ1位と2位の橋梁が同一路線上に並ぶこともなかった[37][9]

1986年(昭和61年)4月1日に高森線は第三セクター鉄道に転換され、南阿蘇鉄道が開業した[4]。これにより、第一白川橋梁も南阿蘇鉄道の一部となった。南阿蘇鉄道で観光用に導入されたトロッコ列車は、第一白川橋梁で徐行運転を行うなど、乗客サービスの一助となっていた[38]

2015年度(平成27年度)には土木学会により、選奨土木遺産に選定された[39]。一方、立野ダムの建設に伴い、河川構造令に抵触する等の理由から、第一白川橋梁の撤去が検討されたこともあった[40]国土交通省九州地方整備局では、第一白川橋梁については架け替えせずに、一部補強することで現存することが可能であるとしたが、具体的な方策については南阿蘇鉄道との協議によるとしていた[41]

2016年熊本地震での被災

2016年(平成28年)4月14日の夜に熊本地方を最大震度7の地震が襲い、多くの被害をもたらした。この時点では阿蘇地区の被害は比較的少なく、地震以来全線で運転を見合わせていた南阿蘇鉄道も、4月16日の始発から運転を再開する予定となっていた。しかし4月16日未明にはさらに大きな地震が発生し、阿蘇地方にも多大な被害をもたらした(2016年熊本地震[42]

地震以来、国土交通省が南阿蘇鉄道の復旧についてほぼ1年をかけて調査を実施し、報告書を発表した。それによれば、第一白川橋梁は立野側の橋台が下流側に404 mm、橋の中央へ337 mm移動して、鉛直方向に304 - 418 mm沈下し、また第1橋脚が下流側に258 mm、橋の中央へ307 mm移動して、鉛直方向に81 mm沈下していた。これらの橋台-橋脚間の部材には破断や座屈が発生し、第1橋台と第3橋脚のローラー支承も逸脱が発生していた。橋の中央部は最大190 mmの隆起が生じていた。この結果上部構造の部材に大きな応力が発生して、広範囲で耐力が低下している恐れがあるとされた[43]

部材の補強・交換には、いったん応力を解放してから残存耐力を調べなければならず時間がかかるとされ、早期の復旧のためには上部構造の架け替えが避けられないと結論付けられた。一方、下部構造については補強で対応できるものとされた[43]。このための総工費は約40億円と見積もられ、工期は約5年とされた[44]

第一白川橋梁と並んで大きな被害を受けた犀角山トンネルは、高森側の約40メートルの区間に最大490 mmのずれが生じ、内壁のコンクリートに多くの剥落や浮きが発生していた。このため横ずれが生じた高森側約40メートルの区間については地山を丸ごと撤去してトンネルの坑門を約40メートル後退させ、これによって生じたスペースを第一白川橋梁の架け替え工事用ヤードとする構想が示された[43]。しかしその後の検討の結果、斜面全体の防護や河川管理用道路の必要性から、犀角山トンネルについては山全体を除去してトンネルを撤去する方向とされた[42]

2017年(平成29年)12月22日に全線復旧費用の一部を盛り込んだ予算案が閣議決定された。赤字の鉄道事業者が大規模な災害で被災した場合に、実質的に国が復旧費のほとんどを負担して、鉄道事業者の負担をなくす新制度が導入され[45]、南阿蘇鉄道がその適用第1号となった。2018年(平成30年)3月3日に復旧工事に着手されている[46][47]

脚注

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  1. ^ a b 「鉄道名橋見てある記 15. 南阿蘇鉄道の第一白川橋梁」pp.2 - 3
  2. ^ a b c 『鉄道路線変せん史探訪IV 九州の鉄道100年』p.189
  3. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」p.225, 227
  4. ^ a b c 『鉄道路線変せん史探訪IV 九州の鉄道100年』p.191
  5. ^ a b 「鉄道名橋見てある記 15. 南阿蘇鉄道の第一白川橋梁」p.3
  6. ^ a b 『高森線建設概要』p.24
  7. ^ a b c d 「鉄道名橋見てある記 15. 南阿蘇鉄道の第一白川橋梁」p.2
  8. ^ a b 「國鐵高森線第一白川橋梁架設工事を視て」p.13
  9. ^ a b c d 「歴史的橋梁を訪ねて(7)南阿蘇鉄道第一白川橋梁」p.125
  10. ^ a b c 「歴史的橋梁を訪ねて(7)南阿蘇鉄道第一白川橋梁」p.124
  11. ^ 南阿蘇鉄道、全線復旧に少なくとも5年 橋架け替えやトンネル短縮も”. 乗りものニュース (2017年4月18日). 2018年9月1日閲覧。
  12. ^ 『長陽村史』pp.638 - 639
  13. ^ 『鉄道路線変せん史探訪IV 九州の鉄道100年』p.175
  14. ^ 『長陽村史』p.641
  15. ^ a b 「第一白川橋梁架設工事報告」p.226
  16. ^ a b 「高森線第一白川橋梁架設工事視察報告」p.27
  17. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」pp.226 - 227
  18. ^ a b 「第一白川橋梁架設工事報告」p.232
  19. ^ 「歴史的橋梁を訪ねて(7)南阿蘇鉄道第一白川橋梁」pp.124 - 125
  20. ^ a b 「第一白川橋梁架設工事報告」p.227
  21. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」p.228
  22. ^ a b 「第一白川橋梁架設工事報告」pp.231 - 232
  23. ^ 『高森線建設概要』p.8, 16
  24. ^ 「高森線第一白川橋梁架設工事視察報告」p.28
  25. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」p.235
  26. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」p.234
  27. ^ a b 「高森線第一白川橋梁架設工事視察報告」pp.28 - 29
  28. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」pp.235 - 236
  29. ^ a b 「高森線第一白川橋梁架設工事視察報告」p.29
  30. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」pp.236 - 237
  31. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」pp.238 - 239
  32. ^ 「高森線第一白川橋梁架設工事視察報告」p.30
  33. ^ 「第一白川橋梁架設工事報告」p.225
  34. ^ 『長陽村史』p.659
  35. ^ 『長陽村史』p.731
  36. ^ 白井昭 『大井川鐵道井川線』 ネコパブリッシング、2007年8月1日、初版。ISBN 978-4-7770-5204-2
  37. ^ 『鉄道未成線を歩く(国鉄編)』pp.161 - 162
  38. ^ 南阿蘇鉄道応援サイト”. 南阿蘇鉄道. 2018年9月10日閲覧。
  39. ^ 土木学会選奨土木遺産 西部支部 第一白川橋梁”. 土木学会. 2018年9月11日閲覧。
  40. ^ 第一白川橋梁の保全的存続に関する要請”. 土木学会 (1999年6月1日). 2018年9月11日閲覧。
  41. ^ 立野ダム建設事業の検証に係る検討 報告書 (PDF)”. 国土交通省九州地方整備局 (2012年10月). 2018年9月11日閲覧。
  42. ^ a b 「熊本震災から2年 南阿蘇鉄道の今とこれから」p.104
  43. ^ a b c 「被災した第一白川橋梁を架け替え」p.16
  44. ^ 「被災した第一白川橋梁を架け替え」p.17
  45. ^ “南阿蘇鉄道が22年度にも全線復旧へ 事業費65億円超を特例で国が97.5%負担”. 西日本新聞経済電子版. (2017年6月13日). http://qbiz.jp/article/111791/1/ 2018年10月12日閲覧。 
  46. ^ 「熊本震災から2年 南阿蘇鉄道の今とこれから」p.107
  47. ^ “南阿蘇鉄道全線復旧へ着工 熊本地震被災区間”. 西日本新聞. (2018年3月4日). https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/398628/ 2018年10月12日閲覧。 

参考文献

書籍

  • 守田久盛・神谷牧夫 『鉄道路線変せん史探訪IV 九州の鉄道100年』 吉井書店、1989年2月3日、第1版。
  • 『長陽村史』 長陽村史編纂室、長陽村、2004年3月30日
  • 『高森線建設概要』 鉄道省熊本建設事務所、1928年2月12日
  • 森口誠之 『鉄道未成線を歩く(国鉄編)』
    • 塚本雅啓「歴史的橋梁を訪ねて(7)南阿蘇鉄道第一白川橋梁」、『鉄道ジャーナル』第491号、鉄道ジャーナル社、2007年9月、 122 - 125頁。
    • 稻葉權兵衞「國鐵高森線第一白川橋梁架設工事を視て」、『土木建築雑誌』第6巻第9号、シビル社、1927年9月、 13 - 15頁。
    • 稻葉權兵衞「高森線第一白川橋梁架設工事視察報告」、『業務研究資料』第15巻第10号、鉄道大臣官房研究所、1927年10月、 27 - 43頁。
    • 山尾敏孝「鉄道名橋見てある記 15. 南阿蘇鉄道の第一白川橋梁」、『日本鉄道施設協会誌』第38巻第8号、日本鉄道施設協会、2000年8月、 2 - 3頁。
    • 河西定雄「第一白川橋梁架設工事報告 (PDF) 」 、『土木学会誌』第14巻第2号、土木学会、1928年4月、 225 - 241頁。
    • 﨑戸秀樹「熊本震災から2年 南阿蘇鉄道の今とこれから」、『鉄道ジャーナル』第621号、鉄道ジャーナル社、2018年7月、 104 - 107頁。
    • 「被災した第一白川橋梁を架け替え」、『日経コンストラクション』第663号、日経BP社、2017年5月8日、 16 - 17頁。

関連項目