自由韓国党
자유한국당
非常対策委員長 金秉準
院内代表 金聖泰朝鮮語版
創立 1997年11月21日 (1997-11-21)
前身政党 新韓国党
民主党
本部所在地 ソウル特別市永登浦区国会大路七十ギル18
党員・党友数 2,474,036名(2012年12月31日[1]
政治的思想 保守主義[2][3][4][5]
社会保守主義[6]
国民保守主義[7]
新自由主義[8]
政治的立場 中道右派[9][10][11][12][13] - 右翼[14][15]
国際連携 国際民主同盟
公式カラー 赤色
国会
112 / 300
(2018年6月14日)
広域団体長
2 / 17
(2018年6月14日)
広域議会
137 / 824
(2018年6月14日)
基礎団体長
53 / 226
(2018年6月14日)
公式サイト
자유한국당
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自由韓国党
Saenuri Party Building.jpg
自由韓国党中央党舎(党本部)
各種表記
ハングル 자유한국당
漢字 自由韓國黨
発音 チャユハングクタン
日本語読み: じゆうかんこくとう
ローマ字 Liberty Korea Party
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自由韓国党(じゆうかんこくとう)は、韓国保守政党[2]。1997年にハンナラ党(한나라당)として結成され、2012年2月13日にセヌリ党(새누리당)に改称された。発足直後の大統領選挙で敗れた後、2008年までの10年間野党であったが、同年2月25日に李明博大統領が就任したことで与党に返り咲いた。2008年4月から2016年4月までは議会第一党であったが、2016年4月12日の総選挙で敗北し議会第二党になる。2017年2月8日に党名を自由韓国党(자유한국당)に変更することと決定した。2013年2月25日に就任した朴槿恵大統領の与党であったが、2017年5月9日に行われた大統領選挙にて敗北し、野党に転落した。

概要

前身のハンナラ党は、盧泰愚政権とそれに続いた金泳三政権で与党だった民主自由党を前身とする新韓国党と、野党金大中の結成した新政治国民会議に対抗して趙淳(初代民選ソウル市長)が率いていた民主党[16]が1997年11月21日に合同して結成された。離合集散が頻繁である韓国政党のなかでは第三共和国第四共和国における与党である民主共和党(1963年-1980年)に次ぐ長い歴史を有していた[17]が、2012年2月13日の党全国委員会で党名がセヌリ党に改称[18]された後、現在は自由韓国党になっている。旧党名の「ハンナラ」とは「大きな国」「一つの国」などを意味し、新党名の「セヌリ」とは「新しい世の中」を意味する[19]。英語では"New Frontier Party"と訳されている[20]。これは日本にかつて存在した新進党の英語名称と同じである。また中華圏中国台湾香港など)ではハンナラ党は大国家党、セヌリ党は新世界党と訳されている[21][22]

政治思想としては朴正煕全斗煥といった軍事政権の流れを汲む親米保守系議員が多く、比較的知日的とされ、まえの盧武鉉政権を左翼と呼び対立していた。民主正義党民主自由党新韓国党→ハンナラ党時代から一貫して韓国南東部の嶺南地方釜山大邱蔚山慶尚北道慶尚南道)を強固な支持基盤としている。ソウルでも富裕層が多いとされる江南地区でも支持基盤を構築している。広域自治団体(17市道)では、釜山広域市など5箇所で党公認の首長を有している[23]

党内は2007年の大統領候補予備選挙で候補者の座を争った李明博大統領に近いグループ(親李)と朴槿恵元代表に近いグループ(親朴)の2大グループに大きくわけられ、両グループの葛藤が指摘されていたが、2012年総選挙では親朴派が多数を占める結果となり、黄祐呂代表以下党最高指導部9名中8名が親朴系で占められた。

沿革

ハンナラ党時代(1997~2012)

ハンナラ党時代のロゴ(2004年)

1997年・2002年大統領選挙での敗北

結成直後の1997年大統領選挙では当時の最大野党である新政治国民会議(国民会議)の金大中候補に僅差で敗北し、ハンナラ党は与党の地位から転落した。その後、2000年の総選挙において院内第一党の地位を維持し、2002年の地方選挙で李明博がソウル市長選で当選するなど勝利を収めたが、同年12月の大統領選では前回に引き続いて立候補した李会昌が僅差で、新千年民主党(国民会議の後身政党)の盧武鉉候補に敗れる結果となった。

盧武鉉大統領弾劾訴追と17代総選挙

2004年3月12日に盧武鉉大統領のウリ党支持発言や不正資金問題などを理由に大統領弾劾訴追案を国会に提出し可決させた。しかし、国民からの強い反発を受けて党支持率を大幅に減らし崔秉烈(チェビョンヨル)代表(当時)は退任することになった。起死回生を狙うべく3月23日に臨時党大会を開き、保守層に人気のある朴正煕元大統領の娘である朴槿恵(パク・クンヘ)を新しい代表に選出した[24][25]。その結果、2004年4月の第17代総選挙では、党の地盤である慶尚道で健闘したこともあり121議席を獲得、第一党の座はウリ党に譲り渡したものの議席減を最小限に抑えることができた。

2007年大統領選挙で勝利し国政与党に

第17代大統領李明博

総選挙後、盧武鉉政権の経済政策などに対する批判を背景に、翌2005年4月30日と10月26日の補欠選挙で全勝、2006年の統一地方選挙では広域団体長選挙16市道中12市道で勝利、広域議会選挙は首都圏地域区で全勝するなど圧勝し、着実に党勢を回復させつつ次期大統領選へ向け地歩を固めた。そして、2007年12月19日に行われた大統領選挙で、与党・ウリ党から改編した新党である大統合民主新党鄭東泳(チョン・ドンヨン)候補らに圧倒的大差をつけて李明博が当選。翌年の2008年2月25日に正式に大統領に就任し、10年ぶりに与党に復帰した。

18代総選挙での辛勝と親朴系議員の復党・入党

李明博大統領の就任直後に行われた総選挙では、李明博と大統領候補の座を巡って争った朴槿恵元代表に近い親朴派の議員の多くが党公薦を得られず、反発した議員が新党・親朴連帯や無所属で出馬する事態となった。そのため党の強固な地盤である慶尚道で伸び悩み、当初予想されていた180議席近くの大勝には至らなかったが、ソウル市を含む首都圏で支持を伸ばし、過半数(150議席)を上回る153議席(地域区131議席+比例区22議席)を獲得した。しかし6月に行なわれた広域自治体議員及び基礎自治団体長と議員を選出するための補欠選挙では、米国産牛肉の輸入再開を強行したことに対する李明博大統領への批判が高まった影響で、敗北[26]した。7月3日に行なわれたハンナラ党代表選挙で鄭夢準(チョン・モンジュン)を破って代表に当選[27]した朴熺太(パク・ヒテ)代表は、4月総選挙で公認を外され、親朴連帯や無所属で選挙を戦って当選した親朴派議員の無条件復党を認めることを正式決定[28]し、同月16日に親朴連帯や無所属の議員19人がハンナラ党に入党した[29]。これにより、国会における議席数は171人に増え、安定多数を確保した。

2009年再補選の結果不振

2009年4月の国会議員再選挙では、民心の動向を計れる意味において重要な地域である首都圏の仁川広域市富平区乙選挙区で民主党候補に、ハンナラ党の強固な地盤である慶尚道の蔚山広域市北区と慶州市でも進歩新党候補と親朴系無所属候補に破れ、全敗した。9月7日、朴熺太代表が10月に行われる国会議員再選挙に出馬するために党代表の座を退き、後任代表に代表選挙で次点だった鄭夢準最高委員が党憲・党規に基づいて就任した。その鄭代表が就任後の10月に行われた国会議員選挙では、慶尚南道梁山市で朴熺太が当選するなど、2箇所での勝利に留まり、民主党に惜敗した。

11月20日には、党結成12周年の記念式が行われ、趙允旋(チョ・ユンソン)報道官が「ハンナラ党は中道保守の代弁者としての場所を守り続けて来た。中産層を堅固にし庶民と交わる、頼もしい政党」になると述べたが、党内における親李系と親朴系の対立や、世宗市の建設問題などで党内葛藤が続いている中での式となったため、簡素に行われた[30]

2010年地方選挙敗北

李明博政権の中間評価となった2010年6月の地方選挙は当初、広域団体長選挙において8~9箇所で首位に立つなど、優位な戦いを進めていた[31]。しかし、李明博政権の政権運営に対する反発と3月に発生した韓国海軍駆逐艦天安号」の沈没事件を巡り、北朝鮮に対して強硬姿勢を取ったことに不安を戴いた20~40代の有権者を中心に民主党など野党勢力に支持が集中し、前回選挙の大幅に下回る結果となった[32][33]

16市道の自治団体長(市長・道知事)を選出する広域団体長選挙では、事前の世論調査の支持率では圧倒的に優位に立っていたソウル市長選挙で呉世勲候補が、民主党の韓明淑候補と激しいつばぜり合いを演じ、0.6%の僅差で辛うじて再選[34]。またハンナラ党支持が強い地域であった江原道や慶尚南道で民主党と民主系無所属候補がハンナラ党候補を破って当選するなど8箇所[35]で勝利した民主党を下回り、6箇所の当選に留まった。また基礎団体長選挙でも民主党が91箇所で勝利したのに対し、83箇所の当選に留まった。16市道の広域議会議員を選出する議会選挙でも地域区で民主党が第一党となった。

ハンナラ党が地方選挙で敗北した結果を受け、鄭夢準代表を初めとする党指導部は大勢が判明した3日午前に総辞職を表明し、党大会が開催されるまでは金武星院内代表を委員長とする非常対策委員会を構成して党運営にあたることを明らかにした。

世宗市修正計画案否決

前・盧武鉉政権の公約であった中央政府機関を忠清道地域に移転する世宗市計画を巡り、李明博政権は当初の計画案を変更し行政機関移転を白紙化し、企業や研究機関を新たに誘致する修正案を推進していた。これに対し、前政権与党の流れを汲む民主党や忠清南道に強い支持を有する先進党のみならず、与党であるハンナラ党内でも朴槿恵を支持する親朴派を中心に当初の計画案を推進すべきであるとの声が強く、激しく対立していた。こうした中6月16日、国会の国土海洋委員会において世宗市修正案は反対多数で否決[36]、続く6月29日には国会本会議でも賛成105票、反対164票、棄権6で否決された[37]。本会議の採決では野党のみならず、与党であるハンナラ党内の親朴派議員も反対票を投じたことで、党内における親李系と親朴系の亀裂が明らかとなった。

2011年再補選敗北と党内対立

7月14日に行われた第11次全党大会において党幹部選挙が実施され今後2年間、党を率いる新たな党代表として親李派の安商守(アン・サンス)元院内代表が当選を果たし、親李主流派が党権力を掌握することとなった[38]

代表就任直後の28日に行われた国会議員再補選では、8選挙区中5選挙区で勝利し、統一地方選挙における敗北の後遺症から克服することが出来た[39]。しかし、2011年4月27日に行われた国会議員及び自治団体長などの再補選にてハンナラ党の伝統的票田であった京畿道城南市盆唐区乙で元党代表の姜在渉が民主党代表の孫鶴圭に敗れたのをはじめ、江原道知事選挙でも民主党候補に敗れるなど敗北した[40]。この結果を受け28日、最高委員全員の辞任を表明し党非常対策委員会の設置を決定した[41]。非常対策委員会の構成と代表権限代行の座を巡って、親李系と新主流派(親朴派と若手議員が連携)の間で主導権争いが繰り広げられた。結局、権限代行は院内代表が担うことになり、非常対策委員会のメンバーも当初の13名から19名に増やされ、親朴系と若手が多数を占めた[42]。5月7日に行われた院内代表選挙では非主流派の黄祐呂(ファン・ウヨ)が親李派の安炅律(アン・キョンリル)を決選投票で破って当選を果たした。

7月4日に行われた全党大会にて最高委員選挙が行われ、代議員投票と世論調査を合算した有効投票の内25%余りを獲得した洪準杓議員が新代表に選出され、2位以下の4候補もそれぞれ最高委員に選出された。選挙の結果、親李系が支援した候補が4位に留まった反面、親朴系候補が2位で当選するなど、親李系が没落し親朴系が躍進し、党の主導権は親朴系と小壮派が連合する新主流派が握った[43]

ソウル市長補選敗北と党内葛藤

8月にソウル市における無償給食実施範囲を問う住民投票が不成立となった責任を取るかたちで呉世勲ソウル市長が辞職した結果、10月26日の統一補欠選挙にてソウル市長選挙が行われることになった。選挙戦は事実上、ハンナラ党候補の羅卿瑗党最高委員と民主党を中心とする野党勢力の統一候補である朴元淳弁護士(無所属)との一騎討ちとなった。ソウル市は有権者の2割強を占め、市長選挙での結果が翌2012年に行われる総選挙と大統領選挙の動向を判断する試金石となるため、ハンナラ党は羅卿瑗候補の当選に全力を注いだが、朴元淳候補が勝利した[44]

ソウル市長選挙にて野党統一の無所属候補に大差で敗れた結果を受け、来年行われる総選挙をこのままでは戦えないとの危機感が党内に広がり、刷新を求める声が強まった。11月6日には若手議員が李明博大統領に対して側近の不正行為や成長中心の経済政策撤回などを求める書簡を送った[45]。また12月2日には、先のソウル市長選挙にて中央選挙管理委員会ホームページがハッキング攻撃を受けダウンした事件についてハンナラ党議員秘書が指示して攻撃させていたことが明らか[46]となり、これを受け党指導部である最高委員5名中3名が辞意を表明[47]、12月9日には洪準杓が代表を引責辞任した[48]

朴非常委体制発足

今後の党の行方を巡り混迷の度合いを強める中、12月12日に議員総会が行われ、朴槿恵元代表を委員長とする非常対策委員会を発足させることで意見がまとまった。これにより朴元代表が5年5ヶ月ぶりに党の指揮を執ることになった。しかし、非常対策委員会が主導する党刷新の方向性については、意見がまとまらず派閥間で対立が続いた[49]

12月20日、全国委員会が開かれ、朴槿恵元代表を非常対策委員会委員長に選出した。そして党最高委員の全権が非常対策委員長にゆだねられたことで、朴槿恵が実質的な党代表としての地位を持つことになった[50]。2012年1月26日、非常対策委員会は全体会議を行い党名を変更することを決定した。また4月に行われる総選挙での公認候補を審査する委員会についても3分の2を党外から登用することを決定した[51]。新しい党名については公募を経た上で30日に決定される予定であったが、予想を上回る応募があったため、2月2日に発表されることになった[52]

セヌリ党時代(2012~2017)

「セヌリ党」時代のロゴ

「セヌリ党」発足

ハンナラ党の非常対策委員会は2月2日に全体会議を開き、新しい党名をセヌリ党に内定、同時に未来希望連帯と統合することを発表した。同月13日に行われた全党大会担当機構である全国委員会に提起された党名改称と党憲党規改正案が全会一致で承認され、14年のハンナラ党にピリオドを打ち、新たに「セヌリ党」となった。これに先立つ7日には、民主正義党時代からシンボルカラーとして用いてきた青色に代わり、赤色を新たなシンボルカラーとすることも決定された。

セヌリ党発足直後の2012年4月に行われた第19代総選挙の候補者を決める公薦審査では、世代交代と刷新を進めるため現職議員25%の入れ替えという基準を設け、その結果親李系を中心とする多数の現職議員が党公薦から脱落する事態となった[53]。公薦から脱落した親李系の現職議員は強く反発し、一部議員はセヌリ党を離党して無所属や新党から出馬する者もいた[54][55]。 総選挙では朴委員長の地元である大邱市や慶尚北道および江原道で全勝した他、釜山でも18議席中16議席を獲得、忠清道でも善戦した結果、最大野党である民主統合党を大きく上回る152議席(うち比例代表25議席)を獲得、選挙前議席(162議席)から減らしたものの単独過半数を維持することができた[56]。しかし、18日と20日に当選者2人が相次いで不祥事を理由に離党したため議席数は150議席となり過半数を割り込む事態となった[57]

2012年大統領選挙

5月15日、京畿道高陽市で行われた全党大会で黄祐呂議員を新代表(代表最高委員)に選出、同時に李恵薫・沈在哲・鄭宇沢・兪奇濬を最高委員に選出した。全党大会前の4日には親李系の重鎮である李漢久議員が院内代表に選出されたことに続き、朴委員長からの信任が厚い黄議員が新代表に選出されたことでセヌリ党は親朴系による体制構築が事実完了したとの評価を受けた[58]。6月3日には指名職最高委員2名として李貞鉉前議員と金振兟元江原道知事が任命された。これにより最高委員を含む最高指導部9名中8名が親朴系となった[59]

12月に行われる大統領選挙に向けた党内予備選には朴槿恵元委員長を初め、任太熙、安相洙など5名が立候補した。8月19日に党員と一般有権者選挙人団による投票が行われ、これに世論調査結果を均等割合で合算する方法で選挙が行われた。翌20日の全党大会で朴槿恵が2位以下に大差をつけて大統領候補に選出された[60]。10月25日、忠清道を主な支持基盤とする先進統一党(4議席)との合併を公式宣言[61]。11月7日の全国委員会で統一党との合併を正式決定し、16日に合併手続きを完了した[62]。これにより国会議席数は150議席から154議席となり、再び過半数を確保した。大統領選挙は、民主統合党候補である文在寅との事実上の一騎討ちとなったが、朴槿恵が僅差で文在寅を抑えて勝利した[63]

予備選に関する詳細は
非朴系指導部発足

2012年大統領選挙で勝利した朴槿恵が翌年2月末に大統領に就任した後の4月に行われた国会議員再補選では3選挙区中2選挙区で勝利し、同年10月に行われた再補選でも2選挙区で完勝した。朴槿恵政権にとって中間評価となる2014年6月の第6回全国同時地方選挙では、4月に発生したセウォル号沈没事故における政府の事故対応の不手際から政権に対する支持率が低下し、一時は惨敗も予想されていたが、危機感を抱いた保守層が結集したことが功を奏し、広域団体長選挙では新政治民主連合に差をつけられたものの、基礎団体長選挙や地方議会議員選挙では新政治民主連合を大きく上回るなど、善戦したとの評価を受けた[64][65]。選挙後の7月15日、全党大会が行われ、代議員・党員の投票と国民を対象とした世論調査に基づいて行われた選挙の結果、非主流派(非朴系)の重鎮である金武星(キム・ムソン)が選出された。また最高委員には得票で2~4位となった主流派(親朴系)の徐清源と、金台鎬(非主流派)及び李仁済(非主流派)の他、女性である金乙東(非主流派)が選出された[66]。なお党代表選挙で大統領に近い主流派候補が敗れたのは異例のことで、与党に対する大統領の影響力低下を指摘する声もでた[67]

地方選挙直後の7月30日に行われた国会議員再補選では15選挙区中11選挙区で勝利する圧勝で、野党の強固な票田とされてきた全羅南道順天市谷城郡)で党公認候補が1988年総選挙以来初めて当選、再補選の要とされた首都圏でも勝利した。この結果、選挙前の147議席から過半数議席を7上回って158議席となり、安定した政権運営を行うことが再び可能となった[68]

2015年2月2日、国務総理に内定した李完九院内代表[69]の公認を決める選挙がおこなわれ、非主流派で国会国防委員長の劉承旼が、親朴主流派の支援を受けた李柱栄前海洋水産部長官に大差をつけて選出された。これにより、セヌリ党の執行部は金武星代表以下、非朴派が掌握することになり、朴槿恵大統領のレイムダック化が始まったとの見方も出た[70][71]

2015年4月、4選挙区(3選挙区は統合進歩党解散に因る補欠選挙、残る1選挙区はセヌリ党議員の当選無効に因る再選挙)で投票が行われた国会議員再補選では、朴槿恵大統領側近の裏金疑惑が浮上したにも関わらず、伝統的に野党の地盤とされてきたソウル市冠岳区で27年ぶりに議席を奪うなど、4選挙区中3選挙区で当選を収めて圧勝した[72]

前年4月の補選で大勝したセヌリ党は2016年4月に行なわれる総選挙を前に、候補者公認権を巡る派閥間対立が表面化。また朴槿恵大統領の政治姿勢に対し国民の不満は高まり、党内でも党本部主導の公認方式に対する不満から非主流派議員の離党が相次ぎ、中には最大野党である共に民主党(以下、民主党)へ入党する議員も出た[73][74]。その結果、過半数を大きく下回る122議席を獲得するに留まり、123議席を獲得した民主党に次ぐ第2党へ転落する結果となった。特にソウル市では12議席に留まり民主化後の総選挙では最低の結果[75]となった他、ソウル市江南区、釜山市や大邱市などセヌリ党が伝統的に強いとされてきた地域で、民主党や無所属候補に敗れる事例が相次いだ[76][77][78]。此の結果を受けて、金武星代表は党代表を辞任し、指導部も退陣した。

セヌリ党分裂

8月9日に行われた全党大会に於いて主流派に属する全羅道出身の国会議員である李貞鉉が代表に選出された。同氏が代表に選出された結果、主流派の人物が2012年以来4年ぶりに党指導部に復帰。また韓国の保守系政党に於いて初めて全羅道出身者が代表に就任する事になった。

崔順実ゲート事件が明らかになった事をきっかけに朴槿恵大統領への批判が高まった事に比例しセヌリ党支持率も急落、11月半ばには15%と政権発足以来で最低値を記録[79]。大統領候補として名が挙がっていた同党所属の京畿道知事である南景弼(ナム・ギョンピル)と、非主流派で3選議員の金容兌(キム・ヨンテ)が離党、非主流派からは指導部の退陣を求める声が強まった[80]。12月9日、朴槿恵大統領に対する弾劾訴追案が234票の賛成票で可決、反対票を投じたのは56票に留まり、大統領と距離を置く非主流派だけでなく大統領に近い主流派からも賛成票を投じた事が示される結果となった[81]

12月12日には鄭鎮碩が院内代表を辞任。16日に行われた院内代表選挙で親朴派の鄭宇沢が当選[82]。これを受けて李代表以下の党指導部全員が朴大統領弾劾訴追可決の責任を採る形で辞任し、院内代表となった鄭宇沢が代表権限代行として非常対策委員会(臨時指導部)の構成などを主導する事となった[83]

しかし非常対策委員長の人選を巡り親朴派と対立を深めた非主流派は21日、金武星前代表や劉承旼元院内代表らが会合を行い27日に離党して新党を結成する方針を固めた[84]。そして27日に非主流派議員29名が離党と新党「改革保守新党」(仮称)の結成を宣言、同時に院内交渉団体の登録を行った。これによりセヌリ党は99名に減少し第1党の座から転落した[85][86]。翌2017年1月、離党したメンバーを中心とする新党「正しい政党(바른정당)」が発足[87]

党分裂後の12月23日、セヌリ党は非常対策委員会委員長に経済正義実践市民連合(経実蓮)共同代表でハンナラ党時代の2006年に党倫理委員長を務めた事が在る印名鎮牧師を内定[88]。同月29日に正式に委員長に選出した[89]

自由韓国党時代(2017~)

「自由韓国党」発足

崔順実ゲート事件で深刻なダメージを受けたセヌリ党はイメージ刷新のため、5年ぶりに党名変更を図る事を決定[90]。2017年2月8日の議員総会で責任党員へのアンケートで最も多かった「自由韓国党」に変更する事を決定[91]。2月13日の常任全国委員会の会議で党名変更を正式決定した[92]

3月31日に行われた全党大会では、憲法裁判所が朴槿恵大統領を罷免したため、5月9日に投開票が行われる事になった大統領選挙における党の大統領候補を決める予備選挙が行われ、4名が立候補、責任党員の投票と一般国民を対象とした世論調査結果を50%ずつ反映する方法で行われた選挙の結果、慶尚南道知事の洪準杓が54.15%の得票を得て大統領候補に選出された[93]。同日、非常対策委員会委員長を務めた牧師の印名鎮は委員長を辞任した[94]

4月5日、朴槿恵の大統領弾劾に反対する運動を行ってきた保守系団体が新しい「セヌリ党」を結成した[95]

選挙戦は、ライバル・文在寅候補(共に民主党)有利のまま進み、旧セヌリ党の流れをくむ自由韓国党・正しい政党、それに、かつて共に民主党の反主流派だった議員が中心メンバーである国民の党を加えた3党が候補者の一本化に向けた交渉を行うも失敗に終わり[96]、この動きに反旗を翻した正しい政党のメンバーのうち20人が離党し、古巣の自由韓国党に再合流を求め、自由韓国党は正しい政党を離党した13名の復党と懲戒処分を受けていた議員7名の処分解除を決定[97]

5月9日の投開票の結果、公認候補・洪準杓は2位となったものの、得票率は24.03%にとどまり、韓国大統領選挙史上、歴代の保守政党自由党民主共和党民主正義党民主自由党→ハンナラ党→セヌリ党→自由韓国党)の候補者として最低の結果となった(それまで最低だったのは1987年大統領選盧泰愚の36.6%だった)。文在寅と洪準杓の得票差は557万0951票で、2007年大統領選での李明博鄭東泳の531万7708票差を上回り、1位と2位の票差が歴代の韓国大統領選挙史上最大となる惨敗となった。

党の強固な地盤であった慶尚道地域でも、前身の歴代の保守政党が大統領選挙で一度も1位を逃したことがなかった蔚山市と、前身の民主自由党時代から一度も大統領選挙で1位を逃したことがなかった釜山市文在寅に敗れ、慶尚南道でも巨済市金海市梁山市昌原市城山区義昌区鎮海区文在寅に敗北し、道全体でも得票数にして約1万票、得票率にしてわずか0.5ポイント差まで迫られた。釜山市蔚山市慶尚南道(旧慶尚南道、いわゆるPK地域)の得票の合計でも文在寅を下回り、民主自由党時代から一貫して1位を守ってきたPK地域の総得票でも敗北した。また、大邱市慶尚北道(いわゆるTK地域)では1位の座を守ったものの、前回2012年の大統領選で朴槿恵が大邱・慶北で得た得票率は80%を超えたのに対し、洪準杓の得票率は50%を下回り、大統領選挙史上、党の前身である歴代の保守政党の候補者としてTK地域で最低の結果となった。

この敗戦により、自由韓国党はハンナラ党時代の2008年2月以来、9年間維持し続けた与党の座を明け渡す結果となった[98]

7月3日の党大会で洪準杓が党代表に選出された。

11月3日に洪準杓代表は「文在寅政権は自由韓国党に『朴槿恵政党』のレッテルを張り、保守勢力を滅ぼそうとしてる」と主張し、統一地方選にも備えるために朴槿恵前大統領を自由韓国党から除名したと発表した[99]。これには党内の親朴派が反発している[99]

朴槿恵が除名されたことを受け、11月6日に金武星らが正しい政党を離党して復党した。

12月12日、5月の大統領選直前に正しい政党を離党して復党した金聖泰が院内代表に選出された。

その後も党支持率は低迷が続き、2018年6月13日に行われた統一地方選挙では、全国17か所の広域自治体の首長(広域団体長)選挙のうち大邱市長選と慶尚北道知事選の2か所を除いて全敗するなど、歴史的な大惨敗となった[100]

仁川市長選、京畿道知事選で党所属の現職が文在寅政権の与党・共に民主党の公認候補に大差で敗れて落選するなど、首都圏全羅道忠清道江原道済州道の広域団体長選で全敗したのみならず、1990年の三党合同朝鮮語版による民主自由党の結成以降、党の前身である歴代の保守政党(民主自由党新韓国党→ハンナラ党→セヌリ党→自由韓国党)の強固な地盤であった慶尚道地域でも、釜山市長選、蔚山市長選、慶尚南道知事選で党候補が共に民主党の公認候補に大差で敗れて落選した。釜山市蔚山市では現職が敗れ、党代表の洪準杓が2017年4月まで知事を務めていた慶尚南道でも元職が共に民主党の新人に敗れた。

また、同日に投票が行われた国会議員補欠選挙でも、12選挙区のうち共に民主党が候補者を擁立しなかった1選挙区でしか勝利できず、11選挙区では共に民主党の候補者に敗れた[101]

この結果を受け洪準杓は党代表を辞任し[102]国民大学校名誉教授の金秉準を非常対策委員長に選出した[103]

党指導部

党役職者一覧(2016年8月9日~12月16日)
役職名 人物名
漢字 ハングル 片仮名
代表最高委員 李貞鉉 이정현 イ・ジャンヒョン
院内代表 鄭鎭碩 정진석 チョン・ジンソク
最高委員(政策委議長) 金光琳 김광림 キム・グァンリム
最高委員(選出職) 李荘雨 이장우 イ・ジャンウ
趙源震 조원진 チョ・ウォンジン
姜碩鎬 강석호 カン・ソクホ
崔然恵 최연혜 チェ・ヨンヘ
最高委員(青年枠) 유창수 ユ・チャンス

出典:セヌリ党公式ホームページ「중앙당(中央党)」(2016年08月20日閲覧)。

歴代代表
代表者名 在任期間
漢字 ハングル 片仮名
趙淳 조순 チョ・スン 1997年11月~1998年08月
李会昌 이회창 イ・フェチャン 1998年08月~2002年04月
徐清源 서청원 ソ・チョンウォン 2002年05月~2003年01月
朴熺太[注釈 1] 박희태 パク・ヒテ 2003年01月~2003年06月
崔秉烈 최병렬 チェ・ビョンニョル 2003年06月~2004年03月
朴槿恵 박근혜 パク・クネ 2004年03月~2006年06月
姜在渉 강재섭 カン・ジェソプ 2006年07月~2008年07月
朴熺太 박희태 パク・ヒテ 2008年07月~2009年09月
鄭夢準 정몽준 チョン・ムジュン 2009年09月~2010年06月
安商守 안상수 アン・サンス 2010年07月~2011年04月
洪準杓 홍준표 ホン・ジュンピョ 2011年07月~2011年12月
朴槿恵[注釈 2] 박근혜 パク・クネ 2011年12月~2012年05月
黄祐呂 황우여 ファン・ウヨ 2012年05月~2014年05月
李完九[注釈 3] 이완구 イ・ワング 2012年05月~2014年05月
金武星 김무성 キム・ムソン 2014年07月~2016年04月
李貞鉉 이정현 イ・ジャンヒョン 2016年8月9日~12月16日
  1. ^ 代表最高委員権限代行
  2. ^ 非常対策委員長
  3. ^ 非常対策委員長