座標: 北緯35度06分 東経129度02分 / 北緯35.100度 東経129.033度 / 35.100; 129.033

釜山広域市
略称: Busan;부산;釜山;プサン
Busan montage.png
時計回りに:萇山から見下ろす広安大橋釜山港チャガルチ市場、冬栢島から望む海雲台マリンシティの夜景、海東龍宮寺の石塔、海雲台の海岸(海雲台海水浴場)
位置
釜山広域市の位置
地図
釜山広域市の地図
各種表記
ハングル: 부산광역시
漢字: 釜山廣域市
日本語読み仮名: ふざん=こういきし
片仮名転写: プサン=グァンヨクシ
ローマ字転写 (RR): Busan-Gwangyeoksi
統計(2015年
面積: 766.12 km2
総人口: 3,448,737[1]
男子人口: 1,701,347 人
女子人口: 1,747,390 人
人口密度: 4,457.5 人/km2
行政
国: 大韓民国の旗 大韓民国
下位行政区画: 15区1郡
ISO 3166-2: KR-26
行政区域分類コード: 21
釜山広域市の木: ツバキ
釜山広域市の花: ツバキ
釜山広域市の鳥: カモメ
自治体公式サイト: 釜山広域市
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釜山広域市の自治体章

印章
1930年の釜山松島ビーチ
釜山の山城(金井山)
水営区の広安里ビーチ

釜山広域市(プサンこういきし、ふざんこういきし、韓国語表記:부산광역시、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから日本朝鮮半島とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。

地理

朝鮮半島南東端に位置し、韓国の主要都市中で最も日本の近くに位置する。対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を挟んで対馬を望む事ができ(海雲台区の冬柏などから肉眼で見える日が年間約60日あり)、下関市福岡市までは200kmほどの距離である。このため、日本との関係も密接であり、とくに下関市・福岡市などの北部九州山口県との関係が深い。

現在は広域市に位置づけられ、には属さないが、1962年までは慶尚南道に属していた。道から独立後も1983年6月まで慶尚南道庁の所在地であった。朝鮮の地方区分でいう慶尚道地方(嶺南地方)の中心都市である。

隣接自治体

読み、各種表記は大韓民国の地方行政区画を参照のこと

歴史

古代

後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる[2]。 朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域に含まれる。

古代は任那伽耶)に含まれる地域である。新羅に合併された時に居漆山郡になり、統一新羅時代の757年良州(現在の梁山市)所属の東莱郡を設置、現在の市街地地域に東平県、機張郡に機張県が東莱郡の下に設けられているが、地域の中心は金海にあった。

任那について倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団によるこの地域の統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。

中世・近世

高麗時代の富山浦は蔚州の東莱県に所属する漁村であった。

李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代、釜山地域にははじめ東莱県、のちに東莱府(東莱都護府)が置かれた。対日防衛の要衝であることから慶尚左道都万戸が置かれた。また、対日交易の拠点としても重要な位置を占め、15世紀始めには富山浦に日本人居留地である倭館が設置された(浦所倭館)。以後、釜山地域は三浦の乱文禄・慶長の役など中世日朝関係の曲折の舞台となった。

朝鮮王朝と江戸幕府の交渉が復活すると、龍頭山一帯に対馬藩の草梁倭館が設置された。江戸時代、「鎖国」(海禁)時代の日本では、蝦夷地および琉球とともに、日本人が海外に居住できる限られた場所となった。

近代

釜山府庁
釜山税関

1877年日朝修好条規によって朝鮮が開国した際、3ヶ所の開港地(他の2港は仁川元山)の一つとなり、倭館はひきつづき日本人居留地となった。以後、釜山港の貿易港としての整備とともに、港湾都市釜山は発展することになる。1905年には鉄道京釜線)が開通し、釜山駅が開業した。

この間、行政面では1895年慶尚道が廃止されて東莱府二十三府制)になったが、翌年に慶尚南道になり、道庁が釜山に置かれた。

日本統治時代1914年には行政区画の整理が行われた。このとき、旧釜山府の日本人居留地一帯(釜山港周辺)を新釜山府(ふざんふ)として編成した。郊外部では旧釜山府の農村部と機張郡東莱郡として改編した。

以後、日本統治下では1936・42年の二度にわたって釜山府は府域拡張を行っている。1936年には西面など(現・釜山鎮区などの一帯)が、1942年には東莱邑など(現・東莱区などの一帯)が東莱郡から府域に編入された。

第二次大戦後

1949年に釜山府は釜山市に改称した。1950年朝鮮戦争が勃発し、ソウルが陥落すると、釜山は1953年まで大韓民国の臨時首都となった。釜山には戦争を避けた難民が多く移り住み、人口が増加した。

1957年には出張所を改めてが設置され、1963年には釜山直轄市に昇格した。朝鮮戦争後は、金海郡の一部(現・江西区一帯)を編入するなど数次の市域拡大を行っている。1995年釜山広域市に名称を改めるとともに、梁山郡内の旧東莱郡域(現・機張郡)を市域に編入した。2000年には文化観光部2000年式の告示に伴い、公式の英語表記がそれまでの Pusan から Busan に改められた(ただし釜山大学校など、現在も Pusan の表記が使われる場合もある)。

長らく市庁は港に近い旧市街地の古い建物を使っていたが、1999年に蓮堤区に市庁の庁舎を建設して移転、裁判所なども蓮堤区に所在している。

市庁跡地には超高層ビル釜山ロッテタウンタワーが建設中で、2019年に完成する予定である。

市の人口は近年まで増加の一途をたどり、一時400万人前後に達したが、2000年以降徐々にドーナツ化現象によって減少傾向にあると言われる。

年表

1930年頃の釜山地図