2014年のFIAフォーミュラ1
世界選手権
前年: 2013 翌年: 2015
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2014年のF1世界選手権は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第65回大会として開催された。

シーズン概要

パワーユニットの導入

2014年シーズンはエンジン規定に関する大幅な改訂が行われた。主要項目としては、1988年以来となる「燃料搭載量制限」と「ターボ」の復活、そして運動エネルギー回生に熱エネルギー回生を加えた複雑なハイブリッド技術が挙げられる。名称もエンジンではなくパワーユニット (PU) と呼ばれることになった。

プレシーズンテストでは初導入となるPUの複雑なシステムにトラブルが多発し、開幕戦のオーストラリアGP前には「全車リタイアしたらレースは赤旗中止[1]」という話が真剣に出るほどだった。しかし、序盤戦を乗り切ると完走率も上昇し、F1における技術進化の早さを示す形になった。

一方、シーズン中の改良がほぼ凍結されているため、メーカー間のPUの性能差が年間成績に直接反映されることになった。また、従来の自然吸気エンジンよりもエキゾーストの音が大人しくなったことに対する不満の声も上がった[2]

メルセデスの圧勝

チャンピオンを争ったチームメイト、ハミルトン(右)とロズベルグ(左)

新型PUの開発において最も成功したメーカーはメルセデスであった。ワークスチームであるメルセデスは19戦16勝、18ポールポジション、11回の1-2フィニッシュで他を圧倒し、コンストラクターズタイトルとドライバーズタイトルを両制覇した。かつての黄金期(1954年1955年)当時はコンストラクターズタイトルが制定されていなかったため、ダブルタイトル制覇は初となる。

ドライバーズタイトルはチームメイトであり、カート修行時代からの友人でもあるルイス・ハミルトンニコ・ロズベルグの間で争われた。モナコGP予選における一悶着[3]や、ベルギーGPにおける接触のような危うい場面もあったが、両者はフェアな戦いを続け、最終戦アブダビGPにおいてハミルトンが2008年以来自身2度目のチャンピオンを獲得した。イギリス人ドライバーの複数回チャンピオン獲得はジャッキー・スチュワート(3回)以来となる[4]

また、メルセデスPUの供給を受けたチームの中ではウィリアムズの復活が目立った。前年はランキング9位と低迷したが、今期はトップスピードの速さを武器にコンスタントに入賞してランキング3位に浮上。中でもオーストリアGP予選ではフロントローを独占し、メルセデスワークス勢の全戦ポール獲得を阻止する結果となった。2年目のバルテリ・ボッタスは表彰台に6度登り、チームメイトのフェリペ・マッサをランキングで上回る飛躍の年となった。

レッドブルの急失速、フェラーリの不振

プレシーズンテストより、ルノーPUはパワーや信頼性など総合的な問題を抱えていた。ルノーから実質的なワークス待遇を受けるレッドブルはその影響をもろに被り、両者の信頼関係に変化が生じ始めた[5]。4連覇中であったセバスチャン・ベッテルはよもやの未勝利に終わり、来季はフェラーリへ移籍を発表した。一方、前年で引退したマーク・ウェバーに代わって昇格したダニエル・リカルドカナダGPにおける初優勝を含む3勝を挙げ、メルセデス以外で優勝した唯一のドライバーとなった。

フェラーリはフェルナンド・アロンソキミ・ライコネンを加えたチャンピオン経験者コンビで臨んだが、ほとんど優勝争いに加わることができず、1993年以来の未勝利シーズンに終わった。序盤戦から主要幹部の更迭が相次ぎ、チーム再建を担ってきたルカ・ディ・モンテゼーモロ会長も辞任。アロンソもマクラーレンへ移籍するなど、変革の波に翻弄された。

小規模チームを襲う財政難

昨年に続きいくつかのチームで財政難の噂が絶えなかった。特に2010年の新参チームであるケータハムマルシャは終盤資金が底を突き、アメリカGP以降を欠場する事態になってしまう。ケータハムはその後アブダビGPにてクラウドファンディングで強引に資金を集めて復活するも、翌年の資金のメドがつかずシーズン後に消滅。マルシャも同様に消滅すると思われたが、2015年のシーズン開幕を前に投資家の手により救済され「マノー・マルシャF1チーム」となって復活し参戦することが発表された。なお、マルシャは獲得0ポイントのザウバーを上回り、ランキング9位を獲得した。

ビアンキの大事故

この年の日本GPは台風18号接近に伴う大雨の影響で、セーフティーカー先導のローリングスタートで始まり2周目時点で赤旗が振られてレース中断。20分後に再開したが、43周目にザウバーのエイドリアン・スーティルがダンロップコーナーにてスピンしてクラッシュ。ランオフエリアにて撤去作業の最中、そこへ次周にマルシャのジュール・ビアンキが同じ場所でスピン、スーティルのマシンを吊り上げていた撤去作業中のクレーン車に激しく衝突する事故が発生。この事故でビアンキは意識不明に陥り、ここで赤旗が振られてレースが打ち切られた。その後ビアンキは救急車で搬送され手術を行い、回復が待たれる状況となった。次戦のロシアGPはマックス・チルトンの1台のみで参戦することが発表された。

ビアンキはその後意識を回復しないまま、翌2015年7月17日に死去した。F1におけるドライバーの死亡事故は1994年サンマリノグランプリローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナ以来21年ぶりとなった。これを受けてFIAは折しも2014年から導入されたばかりの固定カーナンバー制度でビアンキが付けていた「17」を永久欠番とする事を決定した。

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